日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年7月2日 (聖霊降臨節第5主日)


聖書:創世記17:9〜14、ガラテヤ書2:11〜14
説教題:「アンティオキアでの衝突」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


  春と夏に挟まれた梅雨の季節を迎えています。どんよりとした天気に気が晴れないように思われますが、梅雨にしか味わえない風情があります。それは、梅雨の時期に咲く美しい花々です。雨の中で咲き誇る花の姿は、他の季節とは一風変わった美しさや味わいがあります。教会の玄関先に紫陽花が咲いていますが、それを見て心動かされた俳人たちは、味わい深い俳句を作りました。その中には、人間模様に重ねたものもあります。明治期に多くの俳句、短歌、小説を残した正岡子規の一句は教訓的です。「紫陽花や 昨日の誠 今日の嘘」。これは、日々、薄紫から濃い紫色へと少しずつ変化する紫陽花の様子を擬人化して表現したものですが、同時に、「人の心も花の色のように移ろいやすいもの」という気持ちも込められています。
 
  思いがけず、この俳句とぴったり合う振る舞いを見せてしまった人がいます。それは、使徒パウロが面と向かって非難せざるを得なかったエルサレム教会の代表者ペトロです。パウロがアンティオキアにおける過去のハプニングを振り返って、ガラテヤの信徒たちに教訓的に語るガラテヤ書2章11節以下の聖書箇所に、そのことが記録されています。
 
  今朝のこの箇所に先立つ2章10節までにおいて記録されていますように、あのエルサレムの使徒会議(48年末か49年始め)においては、ペトロたちによる割礼を受けたユダヤ人への福音伝道と、パウロやバルナバによる無割礼の異邦人・諸民族への福音伝道を互いに認め合って、世界宣教における役割分担の協力体制を打ち立てることに合意し、握手して別れたのでした。しかしその後、予期せぬ事態が生じて、ペトロはパウロの目から見れば、14節に述べられていますように、「福音の真理」から逸れて、ユダヤ人の振る舞いに戻ってしまいました。
 
   実は、あのエルサレムの使徒会議の後に、パウロたちはアンティオキア教会に戻って、ユダヤ人と異邦人が律法の諸規定(割礼、食事規定など)から自由なキリストの福音に立って一緒に礼拝をささげ、食事をしました。この麗しい異邦人教会をエルサレム教会の人々は聞き知るにおよび、ペトロはアンティオキアにやってきました。そして、その信徒たちと一緒にしばらくの時を過ごしました。ユダヤ教の食物規定に縛られることなく、そこにいるユダヤ人キリスト教徒たちと同じく、異邦人キリスト教徒と一緒に食事も取りました。ところが、ユダヤ主義的で保守的ユダヤ人キリスト教徒たちが、突然エルサレムのヤコブのもとからアンティオキアにやってきて、監視し、指導し、牽制するということが起こりました。その時、ペトロは割礼を受けている彼らを恐れて、異邦人信徒たちとの交わりから身を引いて、後ずさりし出したのです。そればかりか、アンティオキアのユダヤ人キリスト教徒もペトロと共にこの交わりから身を引き、バルナバもこれに従ったのです。
 
   使徒会議前後から律法主義的ユダヤ人キリスト者(ユダヤ主義者)たちがアンティオキアや他の周辺諸教会に立ち現われ、自分たちの要求を突きつけて対立した背後には、ヘロデ・アグリッパ一世によるエルサレム教会迫害(反ローマ運動をする過激な民族主義的ユダヤ教徒を鎮静化し迎合する政策の一環として、ユダヤ人キリスト教徒とその教会を迫害した!)をめぐる緊迫した政治状況があると思われます。そうした事情の下で、ユダヤ主義者たちは徐々に勢いを増していきました。そこで、エルサレム教会が彼らからの迫害の危機感を抱いて、ユダヤ主義的色彩を濃厚にしたのでありましょう。
 
   もう一度、アンティオキア教会が突然陥った状況を振り返ってみますが、このように、ユダヤ人キリスト教徒が異邦人と食事を一緒にしなくなるということは、異邦人を食卓の交わりから実質的に締め出すことを意味します。では、それを避けるためには、どういう道が残されているのでしょうか。それは、異邦人側が折れて「割礼」を受ける以外にないということです。
 
   しかし、律法から自由にするイエス・キリストの福音に生かされ、それを宣べ伝えるパウロにとって、この道を選ぶことなどできません。それは、福音をないがしろにすることだからです。むしろ彼は、こうして結果的に異邦人に割礼を強いるペトロの矛盾した振る舞いを指摘し、こう言って非難を浴びせました。「あなたはユダヤ人であるにも関わらず、アンティオキアでユダヤ人のようにではなく、異邦人のように振る舞っていたのに、どうして突然異邦人に対してユダヤ人のように生活することを強いるのですか」と。これがアンティオキアでの衝突事件です(49年春頃)。
 
  彼らのこうした行動に対して、孤立したパウロはどれほど衝撃を受けたことでしょうか。そして、指導的な立場に立つペトロのこうした変身ぶりを見て、パウロは面と向かって非難しました。
 
  そもそも、割礼とはユダヤ人にとって何でしょうか。どうしてそれほど重要なのでしょうか。その由来と積極的な意味はどこにあるのでしょうか? それを語っているのが創世記17章9〜14節です。そこで明かされていますように、神が選び、祝福し、契約を結ぶ相手はイスラエルの民の源となるアブラハムとその子孫です。彼らを通して、諸国民の祝福と救いをお与えになることを、神は最初に彼をハランの地で召し出した時から約束なさっておられました(創世記12章1節以下)。そのような選びと祝福を伴うヤハウェの神との契約の徴が、神の命じる男子の割礼です。だから割礼は重要であり、イスラエル人の存在の根拠と意義を指し示し、民族的、宗教的なアイデンティティと不可分なものとなったのです。 
 
  こうした特権を与えられたイスラエルの民の末裔は、後のバビロン捕囚後に、南王国ユダの地で祭儀(礼拝)宗教を中心に結束し、神殿と母国の再建に励む人々(ユダの人々→ユダヤ人)となります。彼らは(北王国イスラエルを含む)イスラエル全体に対するヤハウェからの約束と祝福を受け、また律法順守によるヤハウェの神との契約を守る選ばれた民であると信じます。こうして彼らはユダヤ人と呼ばれ、また神殿礼拝と律法を遵守するユダヤ教徒と呼ばれるようになりました。ですから、ユダヤ人は自分たちこそ真のイスラエル人だと自覚し(エズラ書、ネヘミヤ書、エステル書、ダニエル書、新約聖書はその意味でユダヤ人と語る)、アブラハムに遡るイスラエル信仰を担っていると自負します。
 
  ところで、イスラエル信仰の祖父であるアブラハムの物語の一端が、この創世記17章に記されています。興味深いことに、神は高齢のアブラハムとサラとの間に生まれる子(イサク)とその子孫を夜空の星のように増やし、カナンの土地を与えると、祝福の約束をなさっていました。しかし、いつまでたっても子が授かりません。そこでアブラハムはやむを得ず当時の習慣に従って、子孫繁栄のために女奴隷のハガルとの間に子(イシュマエル)を生んで後継ぎとさせようとします。
 
  しかし、今朝の創世記17章9節に先立って、1節以下を読みますと、主は今や99歳になったアブラ(ハ)ムになおも迫って、あの約束を必ず成し遂げる、だから契約の民の礎となる者として信仰をもって立ち、時が来るのを待てと促します。これに対して、彼は3節でも17節でも服従の表明としてひれ伏します。しかし、17節に書かれていますように、彼は顔を伏せて笑い、こんな老人の夫婦の身にそんなことはもはや起こり得ないとつぶやき、不信仰を抱くのです。18章12節で妻のサラも同様に笑いました。つまり、「もう冗談はよしてください」とつぶやかんばかりに不信仰をいだきました。
 
  しかし、不可能を可能とする神の真実は、アブラハム夫妻の不信仰、いや不可能と思われる人間の限界を突き破って、選びと救いの約束を実現なさいます(ローマ書3:1以下参照)。そして契約の民の始祖としてアブラハムを立て、その契約を守る誓いの徴として、彼とその子孫の男子に割礼を命じられます。12節を読みますと、直系の子孫ばかりか、外国人から買い取った奴隷とその子孫もアブラハムの子孫も、イスラエルの民に加えられる時に、必ず割礼を受けねばならないとお命じになります。
 
  興味深いことに、この12節の言葉を読んで知っているヤコブ派のユダヤ人キリスト教徒は、「だからキリストによって新しいイスラエルの民に加えられる異邦人キリスト教徒にもまた、割礼は欠かせないのだ」と主張して、それを求めた可能性があります。
 
  さて、このように割礼はイスラエルの民、ユダヤ人にとって、神との契約の民の徴として欠かすことのできないものです。しかし新約時代に入って、これらのことをよく知っている使徒パウロがローマ書4章9節以下で、アブラハムが神の前に義とされたのは割礼を受ける前に、神の確かな約束を信じた信仰によるものであったと、創世記15章6節の言葉(「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」)を引き合いに出して、9節で主張します。そこで、血肉のイスラエル人でない異邦人であっても、信仰によって神の約束に与り、神の民になるのです(ローマ4:16)。すなわち、イスラエルに対する神の契約の真実に信仰をもって応答する徴が割礼なのであって、その徴を自分の身に刻んだからと言って選びの恵みを所有することはできません。また、割礼によって神の祝福の約束を自分の側で確保することもできないのです。さらに、それをユダヤ人の特権と考えて、他の異邦人から自分を分け隔てることもできないのです。
 
  しかしこのように、徴・象徴であるものを他(神)から切り離して、人がいつの間にかそれ自体意味あるものとし、特権の徴として誇ることは、大きな過ちです。割礼を自ら施す人間の業によって、ユダヤ人であれギリシャ人・異邦人であれ、人は神の前に義とされることはないのです。いや、割礼を含めた<律法の行い>によって、人は自らを他と区別して高慢になり、神の怒りを招くものとなったのだと、ローマ書4章15節は指摘しています。
 
  私たちは割礼の問題を信仰生活の実体験に中にはもっていないものですから、どうもピントこないかもしれません。しかし、イスラエルの契約共同体に加入する入口に割礼があったように、キリスト教信徒にとりましては洗礼がそれに代わるものとして新しい神のイスラエルに加入する儀礼です。コロサイ書2章11〜13節によれば、割礼に代わって洗礼がキリスト共同体に加わり、その命に与る聖礼典(サクラメント)です。水により霊によって入信者を清め、神の子らとする洗礼の象徴的な儀式は、神の恵みを伝える手段ですし、信仰に力を与える非常な可能性をもっています。その点では、キリストの体と血を表す聖餐式もまた象徴的であり、キリストの現臨を引き起こす儀式です。しかし、割礼の場合がそうであったように、キリスト教のサクラメントも信仰をもってこれを受けとめることをしなければ、いつの間にかそれらの儀式や象徴や物素(手段)が独り歩きして、それ自体を人間が所有してしまったり、救いの保証としてしまったりすることになりかねません。そのような過ちに陥らないよう、ユダヤ人の割礼問題に照らし合わせて、私たち信仰者は受け止めてみる必要があるのではないでしょうか。
 
  本来、割礼も十戒を初めとする律法も、神が民にお与えになった聖なるものです。しかし皮肉なことに、その遵守が逆に神の怒りを招いてしまうのです。なぜでしょうか。それは、高慢の罪が肉の割礼と律法を足掛かりとして強力に目覚め、人間を貶めるからです。実に神の約束は、割礼によって、また律法の行いによってではなく、信仰による義に基づいてなれていきます。ローマ書4章13節でこう語られている通りです。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」と。イエス・キリストへの信仰による義がまさに福音の内容です。ですから、パウロはこれをローマ書1章17節でこう言い換えて語ります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」
 
  割礼、律法の業、信仰による義といった事柄を詳細に論じたのがローマ書ですが、それに先立って書き送ったガラテヤ書にはそのように立ち入った説明をしてはいません。しかし、ケファ(ペトロ)の優柔不断な態度によってアンティオキアの異邦人キリスト教徒を躓かせ、さらに14節で述べていますように、「福音の真理」(2:5も同様)から逸脱しているとケファを非難した時に、明らかにすでに宣べ伝えられたキリストの福音の内容がローマ書の語ることと同じであることを、ケファもアンティオキアの信徒も、そしてそれを振り返って今書き送っているガラテヤの信徒も、皆当然知って信じていたし、共有していたことを前提としています。
 
  だから使徒は、信仰による義の福音を揺るがす事態に果敢に取り組み、この福音の真理のために戦うのです。彼は、福音が律法主義的要求によって覆い隠され、福音とは反対のもの転じたと見ました。同じような衝突は、シリア州とキリキア州の異邦人キリスト教徒たちの間にも、そしてガラテヤの教会にも起こりました。
 
  ケファたちとの衝突の後、どうなったのでしょうか。ガラテヤ書にはそれについては何も書かれていません。そもそも、過去の事態を逐次報告するのが使徒パウロの目的ではなかったからです。
 
  しかし、使徒言行録などから、おおよその経緯を知ることができます。パウロとペトロとは決裂した後に、さらに二年半の間、やはりエルサレムから遣わされたシラス(シルワノ)がパウロの伝道活動に同伴したことは、注目させられます(使徒15:40~41)。この絆によって、パウロをエルサレム教会と(対決ではなく)結びつけました。62年頃に主の兄弟ヤコブがエルサレムで石打ちの刑に遭って殉教し、原始教会はペラに逃避するに至りますが(エウセビウス、『教会史』3・5・3)、その時までは、両者の絆はきっと全キリスト教会をも同じ志によって続いていたに違いありません。前回の講解説教で確認しましたように、2章10節で貧しいエルサレムの信徒たちを支える献金活動の約束を、使徒パウロは最後までやり遂げ、最後にエルサレム神殿で彼がユダヤ教徒たちに拘束されに至るまで(使徒21:27〜33)、さまざまな憂いを抱えつつも真剣に受けとめたのでした。
 
  初代の教会が衝突による分裂の危機に直面したにもかかわらず、それを乗り越えて、全キリスト教会を福音によってお一人のキリストの体として結束させたのは、使徒や信徒たちをお用いになる神の救いのご計画によります。世の終わりま