日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年4月16日  (復活節第1主日、復活日)


聖書:エゼキエル書36:16〜28、マタイ福音書28:1〜10
説教題:「キリストの復活」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   高齢化した今の社会の中で、72歳以下の人たちは前世紀中葉に起こった第二次世界大戦の後に生まれた戦後世代、すなわち戦争を知らない世代に属します。しかし世界は今も利権争い、貧富の格差、独裁政権と過激な思想によって、地域戦争とテロリズムが横行し、さらに全面核戦争の危機に、人類は直面しています。 
 
  前世紀に起こった世界戦争の傷跡も様々な形で、今も私たちに未解決の暗い影を投げかけています。その一つに、戦争で生き別れになった兄弟姉妹や親子の再会の問題があります。1950年に勃発した朝鮮戦争によって半島国土が南北に分断したままであり、今日なお数十万人の離散家族が再会できずに課題を残しています。また、第二次世界大戦末期のソ連軍侵攻と関東軍撤退によって日本へ帰国できず、中国大陸に残留した日本人、残留孤児の問題も看過できません。
 
  ある家族が、終戦と共に、生き残って満州からやっと引き挙げて日本に戻ってきまして、その翌年に一人が父方の姉を訪ねましたが、その時、その姉の驚きは普通ではなく、死んでいたのに生き返ったといった驚きようであったと言います。抱き合って喜び、頭の先から足の先までじっと見つめ、そして触っていたそうです。外地で死んだかもしれないと思われた弟とその家族が生きて帰って来たので、驚きと喜び一杯の思いで互いに抱き合ったのでした。
 
   主イエスのご復活の朝に、マグダラのマリアも同じような驚きと喜びに満たされたのではないでしょうか。しかも、愛し慕う主イエスは「死んだかもしれない」のでなく、その三日前の金曜日午後三時頃、十字架の上で苦しみ悶えた末に、確かに息を引き取りました。マタイ27章の55〜56節に書かれているように、マグダラのマリアはそれをじっと見守っていました。
 
  これほど悲惨でなくても、私たちの身近な人々との死別は、私たちを孤独と悲しみへと追いやります。生前の面影を何とか留めておきたいと思うものです。ましてや、マグダラのマリア、そしておそらくイエスの遺体を懇ろに埋葬したあのアリマタヤのヨセフの母マリアは、この急変した事態を前にして、いても立ってもおれず、安息日の終わった翌朝早く、涙を浮かべて主イエスの墓のもとに駆けつけてきました。
 
  受難週が過ぎて、復活なさった主イエスの勝利の命に与るイースターの礼拝を、今朝私たちは世界の諸教会と共に捧げていますが、十字架の道における主イエスの苦しみと死の深刻さを素通りして、私たちは、罪と死に勝利した主イエスの復活の命に与り、共に喜ぶことはできません。
 
  十字架上で血を流したその肉体の苦しみは極みに達し、父なる神からも見捨てられて魂の奥深く苦しみ悶えた時、主イエスは大声でこう叫びました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と。こう絶叫して息を引き取った時、あの11人の男の弟子たちがすでに逃げ去ったのとは対照的に、大勢の婦人たちは遠くから、愛する主イエスの最後をじっと見つめていました。その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリアもいたことが、前の27章55〜56節に書かれています。この十字架の死の目撃者たちこそ、復活の出来事の最初の目撃者になったのです。まずは、その二人のマリアが最初の復活の証人となったと、今朝の御言葉は記しています。
 
  どの福音書にも、主イエスが十字架を担いで歩き、持ち運んだ場所が「ゴルゴダ」(アラム語とヘブライ語)、すなわち「されこうべ(頭蓋骨)」の丘だったと書かれています。人間の頭骸骨のように土が盛り上がった不気味な丘に向かって、主イエスは十字架を運ばされたあげく、その十字架にはり付けにされました。されこうべの丘は何の希望もない、虚無と絶望が漂っています。
 
  このイメージと呼応する恐ろしい光景が、今朝与えられた旧約聖書のエゼキエル書36章の御言葉に続く37章の1節以下に描かれています。それは死んだ人間の骨が山の谷間に薪のように一杯積み上げられた光景です。しかし預言者エゼキエルは、その恐ろしい光景の中で、神の語りかけを聞きます。それは、神の霊が多くの骸骨の中に吹き込まれて、もう一度墓の中から生き返った人間のように、イスラエルの民全体が甦りの命に与るとの希望の御声です(37:10)。これは、やがて起こる神の御子の復活を預言する言葉となりました。
 
  人が死を迎え、皮と肉が腐り果て、体の骨と頭蓋骨だけになる死の世界の様子は、生きている者にとっては恐ろしい光景でありますが、逆に、死んだ人の骨が組み合わさって息を吹き返す様子を見たならば、それはまるで幽霊でも見るような恐ろしい光景であり、凍えるような出来事です(マタイ28:4の「・・・死人のようになった」を参照)。しかし、死を乗り越える命の世界を垣間見ることは奇跡的なことであり、恐れと驚きを伴う喜ばしい出来事です。
 
  では、今朝のエゼキエル書36章の御言葉の中で、ヤハウェの神による復活の御力はどこに暗示されているでしょうか。それは23節と24節ですが、23節前半をお読みします。「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」と。聖なる約束の地カナンでいつの間にか偶像崇拝によってヤハウェの名を汚す罪を犯して、亡国の民となりましたが、今や神はご自身が聖なる支配者であることを諸国の間で明らかにするために、散らされていた国々から神の民らをもう一度故国イスラエルに引き戻し、國を復興すると約束なさいます。復活・復興をもたらすのは、神の聖性(holiness)だと繰り返し語られます。背信的な汚れと罪を清め、取り除く神の栄光ある聖性、力に満ちた清らかさが、イスラエルに代表される人間の欺きと背信を退けるのです。
 
  実に、マタイ福音書28章における復活の朝の記事は、聖なる方の御力に圧倒されて震え上がる人間の姿を捉えています。
 
  さて、暗い夜が過ぎて、朝の薄明かりを感じ取ると、急ぎ足で彼女たちは主の墓を見に行きました。この「夜が明ける」(エピフォースコー)という動詞はマタイ福音書(及びルカ福音書)ではほとんど使わない珍しい言葉ですし、それだけに新鮮な響きをもっています。それは、夜明けと共に何か新しいことを予感させます。同じ復活物語を記すマルコ福音書16章1節では、女性たちがイエスのご遺体に香料を塗りに行ったと、その目的を示しているのに対して、私たちのこの箇所では何のために彼女らが墓を見に行ったのか、何の説明も加えておりません。しかし、彼女たちは単なる埋葬の墓以上のもの、それとはまったく別の何かを見、経験することになりました。すなわち、前の章の51節が述べるように、イエスが息を引き取った時と同じような大きな地震が起き、主の使いが神の栄光を帯びて天から舞い降りて、転がった墓石の上に座っているのを、彼女たちと墓の番兵たちが見たのでした。地震、稲妻、純白の輝き、これらは旧約聖書以来、神の力強い顕現の瞬間を表します。
 
  彼女たちはここで何を見、何を経験したのでしょうか。前の章の46節で主イエスは十字架上で、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫びましたが、この最後の場面において神は全く沈黙してお助けにならない、愛する御子を見捨てられた、否、神は不在であるとしか思えない絶望的な現実に、それを見届けている女性たち、そして読者の私たちもまた直面させられました。
 
  しかし、甦りの朝の物語は、沈黙していたと思われた神が力ある御腕を差しのべ、深い挫折と暗闇の淵、黄泉の世界にまで介入して、御子をその中から引き上げた、との神の御業を告げ知らせます。天使が語る6節の「あの方は…復活なさった/した」という能動形の動詞の日本語訳は、正確ではありません。イエスの復活に関する新約聖書のどの箇所の証言も例外なく、イエスは(死人の中から)甦らされた/引き起こされた」と受動形になっています。誰によってでしょうか。それは、父なる神によってです。すなわち、主イエスが御自分の力で甦ったのではなく、神が御腕をもって御子を引き上げた、と言うのです。ここに、神の主導的な愛の業が問題になっています。それは、神もろともすべてを葬り去ろうとする人間の悪巧みに対してはっきり「否」を語り、御子キリストとの愛の交わりを再び回復なさることによって、人間の底なしの邪悪に対して勝利なさる、そのような神の断固たる愛の意志を明らかにします。それは天使を通して、空虚な墓を通して、そして遂にイエス御自身の出現を通して表明されます。
 
  主イエスは十字架上でいわゆる「死なれた」のではありません。自然に死んだのではありません。長老、祭司長、律法学者たちの罠にかかり、ローマの総督ポンテオピラトのもとで「殺された」のです。だが、殺されたにもかかわらず、神は御子を三日目に墓の中から引き上げられました。人間の悪巧みに打ち勝つためです。争奪戦を繰り広げる出来事が復活の朝に起こったということです。
 
  著者マタイは読者の好奇心をかき立てるように復活の朝の出来事を描こうとはしません。しかし、それでもマルコ福音書よりもドラマチックに描こうとします。
 
  後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホは、巨匠のミレーの作品から影響を受けました。彼はミレーの「種蒔く人」を手本にし、それを模写したのですが、色彩もタッチもゴッホ特有の強烈な個性の作品になっています(1888年)。ゴッホはその絵を描くに当たって、こんなことを言っていました。「ミレーが残した『種をまく人』には残念ながら色彩が無い。僕は大きな画面に色彩で種まく人を描こうかと思っている」と。
 
  著者のマルコと、それを手本にしたマタイとでは、ミレーとゴッホとの違いのように、随分描き方が異なっています。確かに、マルコもマタイもそれぞれ、主イエスに対する同じ信仰と愛をもって、初代の教会にそれぞれ仕えた第二世代の信者たちです。しかし、復活の朝の出来事を描いたマタイ福音書28章には、その元になっているマルコ福音書16章と比べて、二つの特徴が見られます。
 
  第一に、2〜4節においてマルコよりも劇的な仕方で、復活がどれほど大地を揺り動かす尋常ならぬ出来事であったかを描こうとしています。
 
  第二に、マルコ福音書16章8節の記述(震え上がり、正気を失い、怖くて誰にも言わなかった)の仕方を、マタイは意図的に変えて、婦人たちが恐れつつも大いに喜び、さらに、自分たちが見聞きしたことを黙るのでなく、急いで弟子たちに所に走って語り伝えました。
 
  こうしたマタイによる変更は、初代の教会が復活について人々に語る際に、大いに示唆に富むものでした。すなわち、どんな風にして復活したのかをあれこれと事細かに説明することはせず、むしろ十字架につけられた方が神の御力によって復活なさったという圧倒的な出来事だけを語るのです。確かにこの記事は、事実起こった出来事として絵に描くように描いてはいますが、イエスの復活のもつ力が、心を開く者にだけ届けられる秘密の出来事であることは、復活の出来事を決して詳細に描かないという事実から知ることができます。ですから、後に作られたペトロ福音書という外典のように、この2〜4節にある描写を事細かに、しかも露骨に描くとことはまったくなかったのです。
 
  今や、復活の喜びに与る幸いの広がりと深みを知った私たちは、あの婦人たちのように急いで出かけ、友人や隣人に語り伝えることを願います。
 
  28章に天使が現れますが、天使はマタイ福音書の中で特にあのクリスマス物語の中に登場します。身ごもったマリアとの結婚のことで悩んでいたヨセフの夢の中に、また、ヘロデが赤子イエスの居場所を突き止めようとする度ごとに、ヨセフの夢の中に現れて、神の指示を伝えました。しかし、復活の朝の出来事において、天使はもはや夢の中でなく、天から下って地上に身体的な姿を取って現れ、大きな封印の墓石を転がし、その上に座ります。現代の科学的・合理的な世界に生きる私たちにとって、この露骨な描写は何か余りにも神話的で違和感を抱き、また実証に耐え得ないと思うかも知れません。しかし視点を変えて考えますと、このようにして現代人は復活信仰をはっきり否定しておきながら、他方では自分たちの造り出す種々の争いと憎悪によって息絶え絶えの閉塞状態に陥り、滅亡と死の恐怖に怯えているのではないでしょうか。このような態度に比べて、マタイは大胆な描写によって、神の大いなる御業を明瞭に証言するのです。
 
  確かに主イエスは、ファリサイ派とサドカイ派の人々が彼から力ある天の徴を求めた際に、好奇心の強い不信仰な彼らの要求をきっぱりとお断りになりました(マタイ16章)。しかし今この墓の前で、神御自身が唯一決定的に、天からの使いを通して御子イエスの死と甦りを告げ知らせ、それによって悲しみと死を乗り越える命の朝を、マグダラのマリアに、そして私たちに迎えさせるのです。ですからこの一点を指し示すために、マタイは、復活の奇跡がどんな風に起こったか否かを歴史的、医学的に解明しようと読者に好奇心/向学心を抱かせるような描写の仕方を、一切避けています。
 
  今日の御言葉の中で、さらに大切なのは、天使の現れ方や姿や振舞いではなく、天使がマリアたちに「主イエスがかつて語った復活予告の言葉」(26:32)を思い起こさせ、その予告が今現実のものとなって主が甦らされたことを言葉で知らせ、その言葉をマリアは聞き入れて従ったことです。天使が告げ知らせる言葉によって始めて、彼女たちは恐れを抱きつつも、それに優る「大きな喜び」に満たされ、主の甦りを信じ、主御自身にお会いすることが出来たのです。
 
  かつて、近代精神の発露となった哲学者のデカルトは『方法序説』の中で、人間の感覚は真理を欺くと言って、自立的な理性を主張したことを、私は思い起こします。確かに人間は感覚的、物理的な思考によっては、主イエスの甦りの出来事に躓き、その意味を読み取ることにも失敗するに違いありません。ではその過ちを克服して、主イエスが十字架の死より甦ったことの真理を知る道は、人間の内在的な理性によるのでしょうか。いや、それをも越える視点が求められます。それは、人間に向かって外側から語りかける聖書の証言の言葉であり、その使信に聴き従う態度です。マタイ福音書の復活物語は、そのことを私たちに示しているのではないでしょうか。天使の言葉が、イエスを甦らせた神の大いなる御業を私たちの希望の源として経験させ、その意味を悟らせたのです。
 
  その関連でもう一度、聖書のこの箇所をよく読んでみますと、イエスの墓の見張りをしていた番兵(イエスに敵対的なユダヤ教指導者の手下)どもも、天使の輝かしい現れと封印の石の除去を目の当たりにして、「恐れ」の余り震え上がり、死人のようになったと記しています。その意味では、彼らもこの驚くべき事態の目撃者です。しかし番兵のことは、4節に一言述べられるだけです。あとは、天使とマリアたちとの対話が述べられます。そして興味深いことに、番兵の恐れる有り様を描いたすぐ後に、天使はこの番兵に向かってではなく、婦人たちに向かって「恐れることはない」と呼びかけて、イエスの復活のことを解き明かしていくのです。もちろん、ここで婦人たちも恐れていたことが前提となっています。しかし、天使の解き明かしの言葉によって、彼女たちは恐れと悲しみから、勇気と喜びへと変えられていったに違いありません。それに比べて、イエスを盗んでその弟子たちが彼の復活を人々に吹聴しないように見張っていた番兵らは、確かにこの異変を目撃し、空虚な墓に気づいたのですが、そこで語られた天使の使信、すなわちイエスの復活の知らせを聴くことはなかった。否、聴くことをしなかったゆえに、遂に彼らは復活の希望、甦りの命に与ることはできなかったのです。
 
  今、私たちは共同の礼拝の中で、世界の諸教会と共に、そしていまだにイエスを十字架に追いやるほどの戦争と憎しみと疑いの渦中にありながら、すでに根本的な(終末を先取りする)勝利を宣言したイエス・キリストにおける神の復活のメセージを聴いています。それを聴いて受け入れることによって、私たちから遠く離れて死に向かわれた主イエスが今や勝利者として、あの弟子たちのように逃げ惑い、怖れて一室に隠れる私たちに近づき、「おはよう」と言って挨拶してくださり、復活した命の主として私たちと共にいて下さいます。否、この主イエスにおいて、神が私たちと共にいて下さいます。これは主の霊(28:19参照)によって可能になりますから、私たちは礼拝の最初の司会者の招きの言葉にありますように、霊と真実をもって甦りの主を見上げ、礼拝をお捧げします。そして、あの二人の婦人たちと同じように、喜ばしい知らせを弟子たちの所に携えもっていく務めを負っています。アーメン/然り!