日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年4月9日(受難節第6主日、受難週・棕梠の主日、進級感謝みんなの礼拝)


聖書:詩編22:17〜22、マタイ福音書27:32〜44
説教題:「十字架の苦しみ」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


  教会の暦に従いまして、今日は受難週に入る主日、すなわち棕梠の主日を迎えています。エルサレムに入城なさった主イエスを、群衆はダビデ王の再来、偉大な預言者、来るべきメシアの出現と信じて、棕梠の木の枝や葉を手に取って、熱狂的に歓迎しました。そのことはマタイ福音書には21章9節以下に記されています。しかし、その後、エルサレム神殿を中心とする舞台で、律法学者やファリサイ派の人々との激しい論争の末に、主イエスが十字架刑に処せられるまでの急転直下の出来事は、わずか5〜6日という短い期間です。その経緯が、27章までに刻銘に記されています。本日の棕梠の主日の聖書箇所として、主が十字架につけられて息を引き取られるまでの惨い場面を描くテキストが与えられています。この受難の場面の聖書箇所は実に重々しく読者の心に響いてきますので、1節ごとにその言葉の意味を吟味せざるを得ません。準急や急行で読み飛ばして行くわけにはまいりません。
 
   今朝の比較的長い記述の中で、目に留まるクライマックスは、十字架上で息を引き取る前に主イエスが叫んだ46節の衝撃的な場面です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、すなわち「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、自分を見捨てようとなさる父なる神を呼び求める主イエスの心の苦悩の極みは、私たちが推し量るに余りがあります。この言葉は、主イエスが愛読なさった詩編の中から、嘆きの祈りといわれる22編の2節の引用であると言われます。
 
  22編は、当時のユダヤ教の嘆きの祈りとしても知られています。その後半部分では、神への信頼と讃美へと変わっていきますが、前半部分はすべて、詩人が自分の窮状を嘆いて神に訴える絶望的な祈りによって貫かれています。その2節と3節で、こう語られています。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」と。十字架の上で主イエスは、ただその箇所を思い出して引用しているのではなく、文字通り身もだえながら、眼前に霞んで見えない、いや隠れてしまわれた沈黙の神を必死に呼び求めています。片時も離さないで、親しみ馴染んだ聖書の言葉は、すこやかな時も病める時も、身体化していると言えます。 
 
  これは、御言葉によって育まれる信仰者の在り方の一端を暗示しています。詩編の詩人のように、実に、イスラエルの民は、神が遠くに離れてしまって途方に暮れる経験を、幾たびとなく繰り返しました。従って、そのような経験は、詩編以外の旧約聖書の随所で言い表されているのです。
 
  マタイとマルコの両福音書は痛ましい十字架の出来事を、特に詩編22章と69章などの「苦しむ義人」に関する旧約聖書の言葉の光の中にずらして描いています。しかし実際の十字架の出来事の成り行き(32,37,38,40,46節)は、これらの旧約聖書の箇所の枠を打ち破って劇的に展開されます。例えばマルコと同じようにマタイには、十字架のもとに三つのグループが登場します。39〜40節は通りがかりの人々、41〜43節は祭司長と律法学者、44節は一緒に十字架にかけられた人々のことを語っています。
 
   二度も主イエスを(嘲って)「神の子」と言及すること(40節、43節)は、注目に値します。初期の教会と共に、イエスが神の子であると心から告白する(14:33、16:16、27:54)著者のマタイにとって、この嘲りは特に恐ろしいことであるに違いありません。43節の嘲り言葉の通り、旧約聖書外典の「知恵の書」2章18節はすでに、神に従う僕を侮る言葉をこう吐いていました。「本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。敵の手から救い出されるはずだ」。
 
  マタイ福音書27章の38節と44節をご覧になってください。二人の強盗がイエスの左右に十字架刑を受けて死に行こうとしています。こうして、ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられています。同じ記事を載せているルカ福音書の23章40〜41節の方では、この二人の強盗の内の一人が自分の犯罪を認め、それへの罰を甘んじて受けつつ、イエスの無罪を語っています。よく知られている十字架の場面の忘れがたい一こまです。しかし、このマタイ27章44節の記述では、二人ともイエスを罵ったとあります。何ということでしょうか。ここまで徹底して自分の非を認めず、むしろイエスを一緒になって罵ったとは! あのルカ福音書の記述のように、人間は息を引き取る最後当たりには、心を和らげ、罪を悔いて善人になってもよさそうなものです。しかし、ここにマタイ福音書記者の深い洞察があります。全人類と言わずとも、地上に生かされた一人の人間の生涯においてさえも、その最後の最後まで不義であり続け、神に敵対したのだ、と言いたいのではないでしょうか。詩編14編3節を引用したローマ書3章10〜11節の言葉を借りるとしますならば、こうです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」ということでありましょう。
 
  その意味において、私たち人間は徹底的に神に見捨てられ、神の憤りの裁きに服する存在でしかありません。
 
  でも恐ろしい現実を突き抜けて、著者のマタイは主イエスの苦しみを、無実なのに罵られ迫害された義人の試練として受けとめました。
 
   神の子であるイエスさまの十字架死は、地球の片隅で起こった些細な出来事ではなく、ユダヤ教の古い規定を打ち破り(51節前半。神殿の垂れ幕が二つに裂けた)、自然法則と世界を揺り動かす宇宙的な出来事であることを、51〜53節は(文字通りではなく)象徴的に描いています。
 
   そのことから、マタイの十字架理解の大切な特徴が示されます。通常のキリスト教的理解によりますと、主イエスの十字架死は敗北・無力・絶望でしかありませんが、三日目の復活は逆転劇の勝利・威力・希望です。しかし福音書の著者マタイにとっては、義人の苦難と死がすでに潜在的に世界秩序を覆す出来事なのです。もう少し接近して申しますと、義人の苦難と死がすでに、人間の嘲笑から神による義認へと人を変え、主イエスが神に見捨てられたかのような無力さから転じて最も力強く神に近づき、死から命へと転換させる潜在的な出来事なのです。
 
  つまり、悲惨で暗い十字架の場面こそ、キリスト教信仰の中心的事柄なのです。それは、神の御子を十字架につけるほどの人間の悲惨さと絶望的な暗さのただ中で、神の隠された御力が働くのです。この相関関係を把握することが大切です。
 
   義人の代理的な苦しみの死を、主イエスが引き受けられたことを覚えることがここで重要です。
 
  (子どもたちへのお話)
   十字架を首飾りにする人もいるけど、屋根の上に十字架が立っていると、たいていは教会だと分かるよね。でもあれはもともと、何も悪いことをしていないイエスさまが、私たちのわがままな罪を身代わりに背負って苦しみ、人々からさげすまされ、父なる神からも裁かれて、十字架の死をとげたことの徴です。この悲しく暗い出来事は、私たちに対する神さまの犠牲の愛を表します。そういう意味で、十字架はキリスト教信仰の大切なシンボルですから、これを衣服のアクセサリーにしたり、何かの飾りつけに用いたりはしません。イエスさまが十字架にかかる場面を描いた今日の聖書箇所を読んでいて、飾りとしての十字架など思い浮かべられないよね。
 
   お天気のように、私たちはとても晴れて穏やかな時もあれば、嵐や大雨に見舞われる怖い時もあります。それは春の4月の天候が激しく変化するのと似ていますね。天使のように歌い、お友達と優しく語り戯れる時もあれば、悪魔のように人を憎んで喧嘩したりすることがあります。いつの間にか自由な心に隙間ができて、神さまより自分がもっと偉いと自分中心に考えて振る舞うことがあります。それによって時々、神さまも御子イエスさまも、また仲良しであったお友達も、そっちのけにしてしまいます。これは、いつも静かであった火山の下からマグマが突然吹き出してくるのと似ているね。聖書はこの悪い心と行いを罪と呼びます。
 
   そういう恐ろしい心の思いが全部吹き出したものが、今日の聖書に描かれたイエスさまの十字架の場面ですよ。しかしイエスさまはマグマのように恐ろしい罪をお一人で背負って、十字架上で死なれました。でも驚くべきことに、神さまは罪のない御子イエスさまの身代わりの死と合わせて、私たちの罪も悪も厳しい戒めもひっくるめて、墓の中に埋めて滅ぼしてしまいました。このように不思議な仕方で、神さまの赦しの愛と正しさが逆転勝ちします。神さまの愛にふさわしく歩んでいきましょう。
 
  ところで、45節からの御言葉描いていますように、果たして、主イエスは十字架の叫びによって、父なる神に受け入れられたのでしょうか。いや、神に見捨てられ、それゆえに息を引き取って死を遂げられました。それは、イエスに罪をかぶせた私たち人間に対する神の裁きの断行を意味しています。
 
  いったい、私たちは、自らの敬虔な悔い改めによって神様がすぐ赦してくださると見込んでいるとしたら、それは自分の側で赦しの条件を不遜にも用意していることになりはしないでしょうか。もし、そうだとしたら、ハッピーエンドの映画となるように、自作自演の筋書きを作っていることになります。しかし、聖書は詩編も哀歌もマタイ福音書も、そのような信仰の在り方、いや自分なりの神との関係の付け方に対して、はっきりと否を告げています。それが今日の旧新約の御言葉です。
 
  しかし、ただ一つ救いと命に至る道があるとすれば、代理的な死を遂げた主イエス御自身と、そのようにしてまで御子を見捨てられた神の側の一方的な憐れみの恵み以外にはありません。「主よ、私には、以前と同じようにあなたの御前に出る資格はございません。雇い人の一人にしてください」と言って、父のもとに帰ってきたあの放蕩息子の言葉以外に、私たちもまた語る言葉をもっていません。
 
  私たちはこの受難週に、十字架上の主イエスに対する信仰の対話を深めていきたいと願います。
 
  最後に、八木重吉の「十字架」と題する短い詩を読み上げて、終えます。
 
  十字架を説明しようとしまい/十字架のなかへとびこもう/十字架の窓から世界を見よう
 
  (お祈り) 
   神さま、お遣わしくださったイエスさまがどれほど身勝手な私たちを顧みて十字架を背負われたかを知りました。お赦しください。そして、神さまに正しく応えて歩めるようお助けください。