日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年4月2日  (受難節第5主日、任職式)


聖書:イザヤ書53:11〜12、マタイ福音書20:20〜28
説教題:「人に仕えて生きる」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   今朝の週報に載っていますように、3月後半の克己週間に、東京教区にある弱い教会や無任所の諸教会のために、私たちの教会も祈りに覚えて、わずかながら献金をお捧げいたしました。たまたま克己週間に重なって、私は牧会休暇の間、東京都青梅市にある小さな教会の主日礼拝にそっと出席しました。教え子である一人の女性牧師がその教会に赴任して2年を経過して、よき牧会と説教による御言葉の解き明かしをする姿を見、また信徒たちが心を一つにして牧師を支え、キリストの教会にお仕えしている姿を拝見して、私自身励まされました。信徒たちは各委員会の新年度の計画や教会堂のお掃除当番と掃除の仕方について、熱心に話合っていました。
 
  礼拝後に茶話のひと時をもちました。この牧師は数十匹の金魚を飼うのが趣味だそうで、愛情をもって育てているので、どの金魚も飼い主である自分の方に寄ってきては嬉しそうな顔をしたり、お腹がすいたり悲しくなったりすると下を向いたままになるそうです。先日は一匹が老いて寿命が尽き、死にゆく間際に、最後まで自分のほうに顔を向けて、体を浮かせたそうです。金魚と心が通じ合うなんて本当だろうかと、私は疑いをもって聞いていましたが、本人曰く、「ほんとうなんです、先生!」と真剣でした。少なくとも私たち信仰者もまた、主の御顔を仰いで生き、御国を望み見て、地上の旅路を終えたいと願います。
 
  もう一つの主日には、この1月に本教会で説教してくださった野田忠子牧師が仕えておられる青森県の七戸教会で創立百十周年記念の主日礼拝に出席しました。私は思いがけなく発症した右顔面の帯状疱疹に苦しみながらも、何とか説教奉仕を果たすことができました。千歳船橋教会の倍ほど長い歴史をもっていますので、時代や地域の風雪に耐え、浮き沈みを経験した教会であったことを創立百年史から察することができます。今は十数名の高齢の女性信徒たちが多数を占めますが、互いに支え合って主の教会にお仕えし、聖書研究と祈りを喜びとしておられます。健康である限り高齢になっても主婦または祖母として働き、畑で栽培のお仕事をし、百年を超える老舗のお饅頭屋さんを続けておられます。午後から、私たちがそのお店の前を通ってご挨拶しましたら、桜餅一箱を私にプレゼントしてくださいました。
 
  このイースター主日には、久しぶりに酪農関係の研究所で働いている22歳の青年が受洗しますが、この礼拝に出席していました。皆、この青年の受洗をとても喜んでいます。
 
  午後から私は、野口牧師の自家用車に乗せていただいて、青い森林と田園を突き抜けて、数十キロ離れた村にぽつんと立つ一つの教会と併設保育園を、何の予告もなしに訪ねました、幸いにも若い牧師先生にお会いして、お話を伺うことができました。保育園も併設されて、地域の子弟とその家庭に対するキリスト教保育・教育に努めているということでした。
 
  こられに共通して見られるのは、主イエスが人に仕える生き方をお示しになったように、互いに仕え合う姿です。奉仕を喜びとする生き方です。それによって主をほめ讃え、人間としての自由と生き甲斐を感じ取り、確かめ合うのです。
 
  しかし、今朝の新約聖書の箇所を読みますと、寝起きを共にして神の国運動に参加した主イエスの弟子たちが、今や村や町で人気絶頂の主イエスがやがてメシアとしてイスラエルの国を治めることを期待して、その王座の右と左の大臣の席に着かせてほしいと、約束を取り付けようとしているではありませんか。名誉欲と権力欲から離れられない人間のエゴを見せつける対話が続きます。同じ記事を先に扱って書いたマルコ福音書10章35節以下で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが先生の主イエスにお願いして皮算用を始めています。ところが今朝のマタイ福音書では、この二人の息子と一緒になって、母親も主イエスのもとにひれ伏して、息子の立身出世を懇願しています。現代の熱情的な教育ママの姿が、ここに映し出されているようにも思います。
 
  それを知った他の弟子たちは、24節によりますと、「腹を立てた」とあります。ゼベダイの親と子らはけしからんことを主イエスに願い出たと言って、彼らは立腹したのでしょうか。そうではありません。むしろ「自分たちを出し抜いて先んじようとした」と言って、腹を立てているのです。つまり、他の10人のお弟子たちも同じように、名誉欲と権力欲を心に潜めていて、機会があれば他に先んじようと機会を窺っているわけです。
 
  弟子仲間におけるこれと同じ問題は、マタイ福音書の随所で取り上げられています。2章前の18章1節以下では、将来望み見る天国で誰が一番偉い者となるであろうかということが問題にされています。これに対して主イエスは、天国で誰が一番偉いかではなく、そもそも最終的に誰が天国に入れるのかが問題であり、それは地上で(幼稚園、家庭、教会、社会)で子どものようにへりくだって他の人に、あるいは互いに仕えて生きたかどうかにかかっていると、お答えになります。天国に入る有資格者について、他の箇所でも厳しい戒めが説かれています(5:20、7:21、19:23〜24、23:13〜14)。今朝の聖書箇所の25節と26節で主イエスは、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と戒めます。異邦人の間で支配者らが支配し、権力を振るっているとおっしゃる時、それは、ヘロデ大王の跡継ぎして支配した三人の息子らとその子らのことを指しています。そして、弟子たちはそうであってはならないと批判しておられます。
 
  主イエスには別のタラントンの話があります。2タラントンと5タラントンの人は、それぞれに与えられた才能に応じて、怠け者の1タラントンと人とは違って、精一杯活用して倍に儲け、その結果、主人からお褒めを受けた話です。神からの才能を生かすことによって、社会で指導的な役割を果たすことがあり、財産も増えることがあります。節約しなからそれをさらに良きことのために用いる知恵も与えられます。こうした節約と勤勉は、社会学者のマックス・ヴェーバーが論証しましたように、資本主義の基本的な精神となっていきます。一儲けしても、信仰者は神の前にへりくだって、こう告白するだけです。「主よ、ふつつかな僕、なすべきことを精一杯したに過ぎません」と。
 
  ですから、タラントンの話は、他の人を押しのける話とは全く異なります。そういうわけて、自分のタラントンを精一杯生かすことと、神に仕え人を生かすために金銭や財を用いることとは矛盾しないのです。いや、誘惑があるにもかかわらず、それを押しのけて、両者が矛盾しない道を知恵によって選択する道があるのです。
 
   それに反して、醜い名誉欲と権力欲にかられた悪しき上昇志向があるのです。そのことを、主イエスは厳しく戒めます。
 
  自分が偉い人になろうとする時、人は他の人を見下し、さげすむようになります。そういう親や大人を真似て、子どもは育っていきます。そのことに大人は気づかない場合が多いのです。
 
  一つの例を申しましょう。それは、横浜の学校で起きた、福島からの避難児童へのいじめの問題に関してです。少し前のある月刊誌に、作家の塩野七生(しおのななみ)こう一文を寄せました。「食卓でこんな話が交わされている。母親が言う。ウチは小さい子もいるし、福島産のお米も野菜も買わないことにしたわ。放射能やら何やら、バイ菌もついているかもしれないから。父親は、それに賛成はしないが反対もしない。このような会話を聴いた子が学校で、福島からの避難児童に残酷に当たっても、誰が非難できよう。両親の会話には、あの人たちって賠償金をもらったらしいわよ、という話もあったかもしれない。賠償金なんて、小学生の頭から生まれる考えではない。・・・子供は、親を真似ることで育つのである。だからこそ育児は、大変だが立派な仕事なんもだ。子供の無知で残酷な振る舞いは、大人の無知と残酷との反映にすぎない。福島の原発事故の直後、東京にいてさえ放射能を怖れ、子供連れで関西や九州に避難した女流作家が二人いた。良識派をもって任ずるマスコミは、この二人の行為を賞賛した。あの時に私が感じたのは、わが子を思えば避難したいと思っても事情があってできない母親が大勢いるのに、何という無神経な行為か、という想いだった。・・・想像力とは、相手の身になって考える能力、である。作家のくせに、それさえもできないのか。そして、それさえもない人を誉め讃えるマスコミの、恥ずかしくはないのかと思うほどの想像力の欠如。・・・日本人がよく口にする<キズナ>なんて、この程度のシロモノである。あれからの5年余り、福島の人たちがどれほど風評被害に苦しんできたか。横浜で起きたいじめも、そのうちの一つだと思うべきである。・・・たしかに、学校側の対応にも問題はあった。だが、学校側にだけ責任を負わせることはできない。にもかかわらず、市当局もマスコミも、非難を向けたのは学校側に対してだけで、加害児童の親たちの責任に言及した人は皆無に等しかった。日本の<良識派>の、中身を見る想いになる。・・・」。
 
   子らに対する母親の愛情に潜む自己中心的な生き方を、ゼベダイの子ヤコブとヨハネもまた、幼い時から身に染みて真似ていたのかもしれません。不気味な悪循環がここで起こっており、それが弟子集団をも刺激する羽目になっているのです。
 
  22節と23節でゼベダイの子ヤコブとヨハネとの対話の中で、主イエスが「私の飲もうとする杯をあなたがたは飲むことができるか」と問うた時、二人はそれがやがて待ち受ける十字架という苦杯であるとはまったく想像できず、栄光のメシアの王座の傍らでいただく栄誉ある祝杯と勘違いしています。しかし主イエスの真意も知らないまま、彼らは「できます。飲めます」と答えてしまっています。この誤解による相違について、主イエスはここでは何も反論なさらず、ただ23節でスラッとこうお答えになります。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。しかし「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」とのお言葉は、将来の殉教の死を予告する不気味な言葉なのです。
 
  事実、後にエルサレムに一握りの最初のキリスト教会が誕生した時、そのメンバーたちはユダヤ教徒から苦しめられるばかりか、当時ユダヤ王として君臨したヘロデ・アグリッパ一世(ヘロデ大王の孫)による教会迫害があり、使徒言行録12章2節に記録されていますように、ヨハネの兄弟のヤコブはヘロデの剣で殺害されたのでした。紀元41〜44年の間です。
 
   さて、主イエスがここで戒めてお教えになる信仰的な新しい価値観と人間観を、私たちは他人事ではなく、自らの家庭とわが子の養育としつけの中で、どれだけ自覚的に反映させているでしょうか。教会の中だけで通用する教えに留めていないでしょうか。信仰による育成とは、ただ信心深くさせる話ではないはずだからです。また単なる道徳教育でもありません。まさに主イエスご自身が弟子たちにそう教えただけでなく、28節でおっしゃっていますように、多くの人をエゴの奴隷から解放し自由にする身代金として、十字架の死に至るまで自らの命を献げるお方です。ですから、このお方を畏れ崇め愛する思いをもって、その生き方に従い、徹して人に仕えて生きていく子に育つことを願うのです。親や大人と共にです。
 
   今、主イエスが「多くの人をエゴの奴隷から解放し自由にする身代金として、十字架の死に至るまで自らの命を献げるお方」であると申しましたが、これは、すでにイザヤ書53章11節から12節までに「義なる神の僕の苦難」を預言した言葉の実現です。イザヤ書53章において、代理的な死を遂げた神の僕、苦しみに遭う義人とはだれかを巡っては、諸説に分かれます。しかし、不思議なこの「苦難の僕」の預言はイエス・キリストの福音を先取る原福音と呼ばれる箇所です。そこでも、他者を生かすために徹して身を投して仕える神の僕がクローズアップされます。これは、主イエスの教えと御生涯を指し示す不思議な言葉です。
 
   今、わたしたちは受難節を迎えています。十字架の死に至るまで徹して奉仕(ディコニア)なさった人の子イエスの28節の言葉は、十字架の福音を伝道・宣教(ケリュグマ)する際の核心的な言葉です、つまりケリュグマの言葉です。しかしその言葉が主イエスにおいて、偉くなりたい者は人に仕える人になりなさいと戒める奉仕(ディアコニア)の戒めと一体になっていまして、両者は不可分の関係にあるのです。福音の伝道が先にあり、その次に奉仕の業があるというように、普通は分けて二段構えで進めることが多いのですが、ここではまったく二つが一つなのです。ケリュグマ(伝道)とディアコニア(奉仕)、信仰と証し、主日礼拝と日々の生活(奉仕の業)とが不可分であることは、他の聖書箇所でもしばしば見られます(例:ローマ書12:1〜3、フィリピ書2:1〜11)。主イエスは信仰の対象であるだけでなく、信仰者がどう生きるべきかの模範としても崇められる主なのです。この点を、私たちは見過ごしてはなりません。
 
   仕えるということは、自分を低くして他者に奉仕することです。そこでしばらくご一緒に、奉仕(サービス)という言葉を思い巡らしたいと思います。
 
   第二次世界大戦後の日本の近代化は、残存していた封建的身分制度を解消して、人間は平等な社会を築いてきました。儒教的な身分制度のもとでは主君は家臣から、家庭の夫は妻子や下男から仕えられ、奉仕(サービス)を受けられました。しかし、平等な大衆社会に変わって身分社会が解消されて平等になりますと、仕える対象もなければ、仕えてくれる人もいなくなり、いわばセルフサービスの時代になっています。各個人はバラバラであり、特に心に掛け、面倒をみてくれる人もなく、孤立したままで社会の中に放り出されています。これが大衆社会の極端な姿です。だからどうしても、まず自分のことが大切になり、自分がすべてに優先します。
 
   こうした大衆社会においては、身分をたてに取って奉仕を期待したり強制したりできないセルフ・サービスの時代ですから、それを他人から得るためには金銭で買うということが前面に出てきます。病院やホテルやレストランで、十分なサービスを受けようと思うなら、それに見合う金を出せばよいのです。
 
   私は息子・娘の子育ての時代に(小中学生の頃)、時々夕食前にうつぶせになった後、子供らに直立のまま背中に乗ってその足の裏で踏んでマッサージをしてもらいました、とても気持ちよく、またコリも取れて効果的です。しかし次第に大きくなって物心がつき始めるますと、背中を踏む前に、手のひらを差し出して「いくらくれる?」と言ってサービス料を求めるようになりました。まあ、最初は驚いてしまいましたが、次第に譲歩していくらかずつ渡して、ようやくマッサージをしてくれました。多少ユーモアを含みますが、これも金銭で買い取るサービスになっていると言えるでありましょう。
 
  しかし実際に人は、商品化したサービスでは満足しないのです。そうではなく、金銭的な報酬を期待しないサービスを求め、それに飢え渇きを覚えています。それはキリスト教的な言葉で申しますと、自由な愛から出てくる奉仕です。それは自発的な無償のサービスです。今日サービスが金銭によって買われる時代に、キリスト教が奉仕について果たすべき役割があるのではないでしょうか。
 
  キリスト教が、そして私たちが果たすべき奉仕の源泉は、礼拝にあります。礼拝は英語でworshipとも言いますが、もっと平易にserviceと言います。日曜日の礼拝をSunday serviceと言います。誰が誰にサービスするのでしょうか。まずは私たちが全能の神をほめたたえ、讃美と献金を献げますから、神に奉仕(サービス)すると言って間違いはありません。しかし、それに先だって、御子キリストが私たちのために命を捨てて仕えてくださった。その絶大な犠牲の愛、無償の愛の奉仕が先行するのです。神が御子を通して私たちに奉仕してくださったのです。ですから、それにお応えして、私たちも心から讃美と感謝と喜びをもって、神に奉仕するのです。ここに聖なる奉仕の相互作用が起こります。すべての信徒の間にこれが起こります。
 
  本日の任職式において特に役員、CS教師、聖歌隊員、奏楽者の一年間のご奉仕が、このような真のサービスになって、それが教会の中と外に広がっていきますように、心からお祈りします。主がそのご奉仕を祝福してくださるよう祈ります。