日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年3月26日  (受難節第4主日)


聖書:申命記30:15〜20、マタイ福音書4:1〜11
説教題:「表面と裏面」

魯 恩碩 牧師


   皆さん、十円硬貨のどちらの面が表なのかご存知でしょうか。現在の法律では、硬貨の表裏について何も明文化されていないようです。しかし、造幣局は「製造年の記載がある面を裏」と定めているということです。つまり十円硬貨は、平等院鳳凰堂が描かれている面が表で、アラビア数字で「10」と書かれた方が裏になるということです。百円は桜が描かれた面が表、アラビア数字で「100」と刻まれた方が裏になります。
 
  「表」は、人にとって目立つ側を指すと思います。そうすると「裏」はその逆でありますから、人にとって目立たない側、内面的な部分、あるいは隠されている部分などを意味すると思います。
 
   サムエル記上16章ではサムエルがダビデに油を注いだという出来事が記されています。王に油を注ぐという慣習は、ヒッタイト族の歴史に類似した事例が記録されていることからも分かるように、古代近東の文化的背景の中でイスラエル以外の社会でもかなり広く行われていたと思われます。しかし、イスラエルではこの慣習が特に頻繁に行われました。王だけではなく、祭司や預言者にも油を注ぎ、その霊的な権威を認める儀式を行いました。その時、油を注ぐ個人や共同体は、油を注がれる人物に服従することを誓うという意味を内包するわけです。サムエル記上16章で、この儀式は神の指示に従い、サムエルによって行われます。このテキストを通して、ダビデは初めて公の場に姿を現し、神によって王になる約束と祝福を頂いた人物として描かれます。7節を読みますと、そこには神の選択基準というものが記されています。
 
   「容姿や背の高さに目を向けるな。… 人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 
   人間は表面を見るが、神は裏面を見るということです。人間の見るところと神の見るところは異なるということです。人間は大きいエリアブに目を留めよしとするが、神は小さなダビデの心に目を向けるということです。このように神の観点と人間の観点が異なるということ、つまり神の基準と人間の基準が異なるということは私たち信仰者にとってどのようなことを意味するのでしょうか。
 
   今日の本文であるサムエル記上16章1節-13節以外にも、聖書には神の基準と人間の基準が異なることを教える箇所が数多くあります。例えば、イザヤ書55章8節―9節には次のように記されています。
 
   「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」
 
  コリントの信徒への手紙一1章25節には「神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人よりも強いからです」とあります。
 
   これらの聖書箇所は、同じ事柄や出来事を見ても、人間の観点から見るか、神の観点から見るかによって、真逆の価値判断ができる場合があることを教えています。そういう意味で、信仰というのは物事の表面ではなく、裏面を見る営みであると言えるのではないでしょうか。キリスト者とはこの世の表面だけではなく、裏面を見ようとする人々であると思います。目に見えるものだけではなく、目に見えないものも見ようとする人々です。人間の観点だけではなく神の観点に立ち、それを理解しようと、それに従って生きようと格闘する人々です。このように、信仰とは表面だけではなく、見えない裏面を見る力を養う営みであると思います。
 
   有名な作家の三浦綾子さんの生涯は、常に病気と共にあったそうです。結核から始まって癌やパーキンソン病まで、病んだことがない病気がないというほど数々の病気に苦しめられたということを読んだことがあります。しかし、彼女はその苦しみの中でも、数多くの作品を書き続け、多くの人々を励まし、癒しました。三浦綾子さんは、病気の中で神様の深い恵みを体験する時が多かったと告白します。彼女の作品を読んでみますと、病気が彼女の命への意志を弱くするどころか、むしろ強くしたのではないかという印象を受ける時があります。様々な病気や人生の苦難の中で、それでも熱く燃えている彼女の生命への意志は多くの読者の心を揺さぶるものでした。三浦綾子さんの文章の中で次のようなものがあります。昔読んだものなので正確には記憶できないですけれども、大体こういう内容です。「痛くなければ捧げることができない祈りがあります。苦しみの中にいなければ、信じることができない奇跡があります。病気の中でなければ、仰ぎ見ることができない御顔があります。辛くなければ近づくことができない聖なる場所があります。」
 
   この三浦さんの言葉は、苦難と苦しみが持つ両面性について語っています。苦難と苦しみには秘められた裏面があるということです。私たちは苦難の時、苦しみの時、初めて、神が働かれるのを見守ることが出来るようになるのではないでしょうか。静まって、神が神であることをようやく知るようになるのではないでしょうか。苦しみの時間を迎えるたびに注意して見れば、目に見えないところで一生懸命、私たちのために働いておられる父なる神様の姿に気づくようになるのではないでしょうか。
 
  私は時々、聖書考古学に関連する探査に参加するためにイスラエルを訪問しますが、イスラエルのテル・アビブという町には、ある珍しいレストランがあります。それは、障がいを持つ人々を支援する団体が運営するレストランなのですが、障がいを持っていない人々に、障がいを持つ体験をしてもらうために考案されたレストランです。そのレストランで働くウエーターは皆さん、視覚障がいを持っていて、レストランの中は真っ暗です。お客さんたちは暗闇の中でウエーターを呼び、料理を注文し、そして運ばれた料理を食べることで、視覚障がいを持つ人々の気持ちや立場を少しでも理解出来るようになるということです。このレストランで料理を食べた人々が異口同音に語るのは、何も見えないところで料理を食べることは、つまり視覚に全く依存せずに何かを食べるということは、食べ物に対する新しい認識の道を開くということでした。見えないことで、人々は食べ物の香り、温かさ、食感、味などにもっと注意を集中するようになるということです。視覚を制限することで人々は他の感覚をもっと活発に用いることになり、結果的にさらに豊かな食経験につながるということです。
 
   私たちが歩んでいる信仰の道においても、多くの場合に同じことが言えると思います。あまり目の前に見えることのみに左右されないように心がけるべきであると思います。表面に現れることを見て、一喜一憂しないように注意するべきであると思います。肉体の目ではなく、信仰の目で与えられたものを感謝しながら、いただくことに全力を尽くすべきであると思います。信仰の目で捉えると全く異なる価値や意味の世界が広がるというのは、苦難や苦しみに関する問題に限った事柄ではないと思います。もっと根本的なところでそれは、主イエス・キリストの受難に関わる問題であり、その受難によって探し求められた罪人である私たち自身に関わる問題です。
 
   私は、聖書の神は一体どのような存在なのかという質問を受ける時があります。その問いには一つだけの正解というものがあるわけではありませんが、「より弱き者の痛みとより小さき者の叫びを大事にする神」がその問に対する一つの答えではないかと私は思います。旧約聖書は100人以上の著者や編集者が関わり、1000年以上の時間をかけてようやく完成した壮大な書物です。一つの書物というよりは図書館ともいえるような本ですが、より弱き者の痛みを顧みる神という点においては驚くほどの一貫性が見られます。聖書が語る神は、一貫してより弱き者の痛みを顧み、その叫びに耳を傾ける神です。まず、創世記16章と21章で外国人の女奴隷であるハガルが荒れ野に追い出される出来事について考えてみましょう。創世記21章で、ハガルは息子と共にベエル・シェバの荒れ野をさまよい、革袋の水が無くなると「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と叫びながら大声で泣きます。神はその泣き声を聞かれたとあります。そして天から神の御使いを送り、そのハガルと息子を救って下さるのです。出エジプト記2章23節で、ヘブライの奴隷たちが重い労働のゆえにうめき叫んだ時も然りです。神はその嘆きをお聞きになり、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。
 
   「より弱き者とより小さき者に対する神の絶え間ない関心と愛」は、新約聖書にもそのまま受け継がれ一貫して表れています。今日の新約聖書の本文であるルカによる福音書15章1節-10節も、そのような神の姿を表すテキストの一つです。人間の目には全く価値がないように見えるものでも、神の観点から見るとかけがえのない大切なものであることを私たちに教えて下さる御言葉です。表面からはどのように見えても、その裏面には光り輝く大切さがあるということを私たちに教えて下さるのです。
 
   ルカによる福音書15章は、四つの部分に分けることができます。まず、1節から3節までの導入部がありまして、その後、4節から7節まで一つ目のたとえ話が語られ、8節から10節まで二つ目のたとえ話が続き、11節から32節まで三つ目のたとえ話が記されています。そして、その全体は「より弱き者とより小さき者に対する関心と愛」というテーマに一貫しています。導入部である1節では、徴税人や罪人がイエスに近寄ってくる様子が描かれており、2節ではそれに対してファリサイ派の人々や律法学者たちが「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言う場面が続きます。2節にある「この人は罪人たちを迎えて」という表現の中で「迎える」に該当するギリシャ語原文の動詞は「プロスデケタイ」ですが、これはイエスが、ただ徴税人や罪人とどこかに行き食事を一緒にしたというよりは、ご自分のところに彼らを招待し、彼らをもてなししたということを示します。イエスは、このように当時のユダヤ社会で蔑視されていた徴税人や罪人をご自分のところへ招き、食事を共にしながら、彼らが人間の目には限りなく小さく見える存在でも、神の観点ではかけがえのない価値を持つことを教えて下さいました。
 
   一つ目のたとえ話は、見失った一匹の羊を見つけ出した羊飼いの喜びについて語り、二つ目のたとえ話では、ドラクメ銀貨十枚の中で1枚を無くした女の人がそれを再び見つけた喜びが記されています。両者の文学的な構造はほぼ同じであり、二番目のたとえ話は、一番目のたとえ話のメッセージを深化および強化する役割を果たしています。古代ローマ時代に、ドラクメ銀貨一枚の価値は1デナリオンとほとんど同じで、当時の日雇い労働者の一日分の給料に値するものだそうです。おそらく現在の1万円くらいの価値を持つ銀貨であったと思います。見失った一匹の羊を見つけ出したことももちろん喜ばしいことですし、1万円の価値を持つ銀貨を見つけたことも嬉しいことには違いありません。しかし、その持ち主たちが感じる喜びと嬉しさは、読み手である私たちに理解し難いところがあります。まず、一つ目のたとえ話では、見失った一匹の羊を見つけた羊飼いは、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めたとあります。分かりやすく言い換えますと、羊を見つけたことを祝い、家で友人たちとパーティーを開いたということです。二つ目のたとえ話でも、無くした銀貨を見つけた女の人は喜んで友人たちや近所の女の人たちを呼び集めたとあります。これもおそらく、喜びと祝いの宴会を開くということでしょう。これらの記述は、羊飼いや女の人の喜びが経済的な利益に基づいていないということを表します。つまり彼らの喜びは、羊一匹や銀貨一枚が持つ経済的な価値に由来するものではありません。そうでなければ、羊や銀貨を見つけた後に、これらのものが持つ経済的な価値より遥かに大きな費用がかかる宴会を開く意味が理解できません。1万円の価値を持つ銀貨をただのお金として捉える人であれば、それを再び見つけたからといって5万円もかかる宴会を開くようなことはするはずがありません。もしかしたら無くなったドラクメ銀貨は結婚する時に女の人に与えられた思い出の贈り物であったかもしれません。聖書にその理由までは書かれておりませんが、これらの無くしたものは、持ち主にとって経済的な価値をはるかに超える、何か人格的な関わりを持つ価値を持っていたことが分かります。法律的な言い方をするのであれば、等価物で置き換えることができないかけがえのない価値を持っていたということです。目に見える表面の価値のみではなく、目に見えない裏面の価値を持っていたということです。そして罪人に対してこのような裏面の価値を見出しておられる方が神であると今日の聖書本文ははっきりと宣言しています。
 
  なぜなのでしょうか。神は、なぜ罪人に対してこれだけの価値を見出しておられるのでしょうか。なぜ人格的な関わりを持つ価値、等価物では置き換えることができない価値を見出しておられるのでしょうか。なぜ一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間にはこれだけ大きな、平凡な人間の目では理解し難い喜びがあるのでしょうか。まさにその問いの中にキリスト教の神秘があるような気がします。
 
  その無くしたものを探し求める神の労苦の大きさと、それを見つけ出した時の喜びの大きさ、その理解し難い労苦と喜びの大きさを私たちは「恵み」と呼んでいるのではないでしょうか。それは罪人である私たちの中にある表面的な価値に由来するものではありません。それはむしろ、神が私たちの中から一方的に見つけ出す裏面に隠れた価値です。それは間違いなく愛の業です。愛があるからこそ、愛するからこそ見出せる価値なのです。
 
  私は現在勤務する大学でキリスト教概論や聖書学などを教えていますけれども、その授業の中で基本的人権の大切さについて触れる時があります。その時しばしば感じることですが、多くの学生が人権についてあまりはっきりした考えをもっていないことに気づきます。多くの学生たちは、そもそも人権概念を含む人間が守るべき倫理道徳の規範というのは、人間が社会を上手くまわすために作り上げたルールに過ぎないと言います。つまり人権というものも、時代が変わればいくらでも変更可能で、人類普遍の倫理道徳なんかは存在しないということです。そのような人は「倫理的相対主義」を唱え、人権の普遍的な正当性を論理的に退けます。もちろん、現代は価値の多様性を認める時代であり、時として「倫理的相対主義」が必要な場合もあるでしょう。しかし、私には今の時代を生きる多くの若者が世の中に普遍的な正当性を持つ倫理道徳の規範は何一つ存在しないという考え方に苦しんでいるように見える時があります。
 
   授業の中で、殺人はなぜいけない行為かと聞くと必ず戻ってくるのは「その人が亡くなると悲しむ人がいるから」という答えです。それに対して「もしその人が亡くなっても、悲しむ人が誰もいなければそのような人は殺されでもいいの?」と反問すると多くの学生がその問いに答えられない様子を目にする時があるのです。これは現代の日本社会が直面している大切な問いの一つであると思います。皆さんが私の立場におられましたら、そのような学生にどのように語りかけられるでしょうか。私は、「神がその人をイエス・キリストを犠牲にするほど愛したので、神にとってはどんな人でもかけがえのない大切な存在である」と教えます。
 
  日本を代表する旧約聖書学者のお一人である並木浩一先生が、昨年3月第七回の神学生交流プログラムでなさった講演の全文を読む機会を最近頂きました。その講演の中で並木先生は憲法と共に根幹の法であった旧「教育基本法」が2006年改正されたことなどを批判し、次のように語っておられます。引用します。
 
   「改正基本法は『個』と『普遍性』を追放しました。…(中略)…『草案』の『前文』では、『日本国民は』で始まる憲法前文の冒頭句は『日本国は』に置き換えられ、憲法が国家のものであることが宣言され、…(中略)…『主権が国民に存する』ことと、それに基づく国政が『人類普遍の原理』であるとの文言が削除されています。『草案』のQ&Aによれば、憲法の西洋的な『天賦人権説』を削除するため、ということです。『天賦人権』は単なる西欧近代の一説に過ぎず、『人類普遍の原理』などと言えないということでしょう。『平和の内に生きる権利』も削除されています。…(中略)… 総じて、『草案』は個々人の権利を嫌うのです。」
 
   引用はここまでですが、並木先生がこの講演で、聖書における善悪というのは相対的で暫定的なものではなく普遍的なものであり、聖書が語る人間とは集団を構成する因子で終わらず、何よりも具体的な個々の人々であることをはっきりと神学生たちに教えて下さったことに私は感銘を受けました。そして、私がこれまで見てきた、普遍的な倫理基準が見えないがゆえに苦しんでいる若者たちと教育基本法の改正というのは、何らかの形で因果関係の中に位置づけられるのではないかという思いがしました。神なき倫理道徳、主イエス・キリストの受難なき倫理道徳、人間と共同体だけで成り立つ倫理道徳には、どうしても結局のところ、その共同体の中で最も力のない弱き者を犠牲にしてしまう暴力性が潜んでいるのではないかと思います。今日の聖書本文は、罪人である人間とは共同体の一員である以前に、それに先立って神によって無限に愛されるがゆえに他の等価物で置き換えられない、かけがえのない存在であることを教えています。人間とは、表面だけを見る目では計り知れない裏面の価値を持つ不思議な存在であることを私たちに教えています。
 
  今、私たちは受難節第4主日を迎えています。主イエスの受難は、まさに罪人を探し求める神の理解し難い愛の大きさを物語っています。主イエスの受難の前に立たされる時、その受難によって探し求められた私たちは、その愛と恵みに感謝しつつ、表面だけではなく裏面を見極める信仰の目をもう一度改めるものとなりたいと思います。お祈りいたします。