日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年3月5日  (四旬節/受難節第1主日)


聖書:申命記30:15〜20、マタイ福音書4:1〜11
説教題:「荒れ野の誘惑」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


  聖書の御言葉は同じ箇所、同じ内容であっても、汲めども尽きぬ泉のように、読者に常に新たなメッセージを語り伝えてくれます。それによって、私どもに恵みと霊の糧を与えてくれます。主イエスのご生涯における神の国の教えや出来事を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書がそれぞれひと綴りの物語りとして語り伝えていますけども、主イエスが神の国運動の最初に荒れ野で経験したサタンの誘惑の物語につきましても、マルコ、マタイ、ルカの三つの福音書がそれぞれ少し角度を変えて新たに受けとめて、短くあるいは長く書き留めています。
 
  四つの福音書の中で最初に描かれたマルコ福音書の1章には、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた主イエスは荒れ野に送り出され、そこでサタンの誘惑に遭われたが、天使たちに守られていたと、わずか2節で短く報告しているのに比べまして、マタイとルカの福音書の著者たちは、その誘惑の内容が何であったのか、そしてそれに対して主イエスがどのように向き合って克服なさったのかについて、明らかに他から入手した確かな伝承に基づいて、詳細に描いています。
 
  主イエスがヨハネから洗礼を受けられた後、荒れ野で受けた誘惑が三つであったという点で、マタイ福音書とルカ福音書の報告は一致しています。同じ内容の記事であっても、読者はマタイあるいはルカ福音書の記事を読みながら、常に繰り返し、そして新たに主イエスの荒れ野における誘惑物語を、私たちの信仰生活における誘惑と重ね合わせて受けとめるに違いありません。
 
  今朝示されていますマタイ福音書4章1節から11節までの荒れ野の出来事は、他のマルコ及びルカの福音書の場合と同じように、主イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた直後に、引き続いて起こっています。主イエスが洗礼を受けて、水から上がられた時、神の霊(聖霊)が御自分の身に降り、それに伴って「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声がありました。つまり、ここで霊の導きを受けることによって、神の子であることが確認された後に、地上における主イエスの神の国伝道が開始されます。そして、その開始に当たって、主は神の霊に導かれて、荒れ野に行かれたのですが、そこで何と、悪魔の誘惑を受けられました。
 
  この4章1節で、日本語の新共同訳聖書では、冒頭に突然イエスは悪魔の誘惑を受けたと記されていますので、私たちは驚いてしまいますけども、元のギリシャ語原典では、むしろ神の霊のことが先に言われて、次のように書かれています。「さて、イエスは霊によって荒れ野に導かれ、そこで悪魔の誘惑に遭われた」と。つまり、一方で悪霊あるいは悪魔があり、もう一方で聖霊が働いており、これら二つの勢力がイエスという人物を挟んで互いに挑み合ったというように、何か二元論的ドラマによって考え、語っているのではありません。むしろ、神の霊によって、主イエスは迫っている神の国の到来を、力ある教えと癒しの行為によって、人々に告げ知らせようとしたその時に、そして特に、この告げ知らせの活動を押し進めるために父なる神との深い交わりと御力を受けようと、荒れ野で独り静まって祈ったその直後に、これら一切を阻もうとする悪しき力、悪しき思いがイエスを襲ったということでしょう。それは、人間につきまとって内から外からそそのかす悪しき力であり、人間の弱さでありまして、それが40日の断食による極度の空腹を憶えた人間イエス、すなわち人の子イエスを取り囲んだのです。
 
  どの人間に対しても、機会があれば襲ってくる恐ろしい悪の力を、聖書は悪魔という擬人化した姿で描こうとします。この聖書個所で悪魔と訳される元のギリシャ語はディアボロスでありまして(マルコ福音書1章13節では、サタン[悪魔]という言葉を使います)、それは誹謗者、中傷する人、または敵対者という意味です。イエスが神の子であることを誹謗し、イエスが神の子として公の活動をすることを非難し中傷する敵対的な力が、イエスの前に立ちはだかったということです。そしてイエスを誘惑し、イエスが神の子として歩む道から逸らせて、他のところへと誘惑しようとします。イエスは神の子として、人間の最も身近なところに遣わされるために、人間と同じ肉をとってマリアより生まれ、お育ちになりながら、人がしばしば陥る誘惑と弱さと悩みを同じように経験なさったのですけども、その最初の経験が、前途を阻む悪魔的力です。それは外から、あるいは心の中からイエスに攻撃をしかけてくる不気味な存在であり、人に寄り添ってささやく口をもっています。「ささやき」というのは当初、恐ろしいものとして感じ取られません。むしろ甘く、もっともらしく、説得的で、魅力的ですらあるもの、それがささやきです。しかしそれはやはり天使のささやきではなく、悪魔のささやきであって、人を神から遠のかせ、滅びにいたらせる勢力であって、なかなか振り切ることが困難なものです。
 
  神の子である主イエスが、同時に人の子として、地上でその使命を果たそうとなさる時、どうしても避けて通れないこのような敵が立ち現れるということです。しかもこの敵は、主イエスが四十日四十夜断食をして、父なる神との深い交わりを終えたその瞬間に、待ち伏せるかのようにしてイエスの前に近づいてきます。
 
  「父なる神との深い交わりを終えた時」に悪魔がやって来たと語るのは、マタイ福音書だけです。マルコ福音書もルカ福音書も、主イエスが断食なさった四十日四十夜の間、ずっと悪魔に誘惑に遭われていたと述べているからです。主イエスが神の霊に励まされ、神に祈り、そして40日間の断食を終えた時に初めて、眼前に悪魔が現れました。
 
  イエスに投げかけるこれら三つの誘惑的な問いかけを見ますと、それは明らかに荒れ野の場面だけでなく、主イエスの公の活動と最後の十字架の死に至るまで何度となく立ち現れる敵の思いを、いわばここに予め集約させている内容であることが分かります。しかし、集約的に現れた敵と真正面に向き合う場が荒れ野であったとはいえ、イエスが40日間ずっとその敵と向き合っていたとか、敵の誘惑に遭っていた訳ではありません。むしろ40日間の断食の目的は、悪魔に近づいて交わるためでなくて、父なる神に近づいて交わりを深めるためでありました。
 
  そのことは、ここで40日と言わず、40日40夜と表現することによって、この断食があの出エジプト記34章28節または同じ内容を記した申命記9章9節(18節も参照)と並行するものであることを読者に気づかせようとしていることからも察せられます。それらの個所には、シナイ山でモーセが40日40夜、パンも水も口にせず主の前にひれ伏し、二枚の石の板に刻んだ十の戒めを受け取ったことを記録されています。荒れ野の真ん中に聳え立つシナイの山で、ご自身を啓示なさる神と出会い、語り合ったモーセのように、主イエスも今荒れ野で食を断って神に近づき、神の御意志を確かめてそれに従い、神と交わっておられました。こうして40日40夜が過ぎたその時に、主イエスは悪魔の誘惑に遭われたのです。
 
  「荒れ野」(エレーモス)とは、単に地理的な場所を指すだけではありません。それは、先に述べましたように、神と出会って交わる場でありますが、それと同時に、試みと試練を受ける場でもありました。この言葉は、旧約聖書においても新約聖書においても重要な意味を持っています。今朝のマタイ福音書個所の1章前の3章の1節以下で、洗礼者ヨハネがユダヤの「荒れ野」で人々に悔い改めの説教を語り、またヨルダン川沿いでは人々に洗礼を施していた、と記されていますように、荒れ野とは地理的に申せば、死海西岸に発達している草木のまったく生えない岩石の荒れ野です。
 
  しかしここで言われる「荒れ野」は、象徴的な意味をもちます。すなわちそれは、悪霊どもの場であり、諦め、断念、世捨ての場所であります。しかしそれは同時に、先ほど申しましたように、神に接近する場所でもあります。飲食が一切絶たれる荒涼たる砂漠のようなところで、人の心と魂は逆に研ぎ澄まされます。かつてエレミヤは、イスラエル人が荒れ野の旅路においてこそ、彼らが神に最も近くにいた時であったと、エレミヤ書2章2節でこう語っています。「行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若い時の真心、花嫁の時の愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」。預言者ホセアもまたホセア書2章16節で、荒れ野こそ淫乱の妻ゴメルが神に立ち帰る再出発になるのだと、ホセア書2章16節で語っています。
 
  日本の諺でも「可愛い子には旅をさせよ」との教訓があるのと同じです。厳しすぎると、子どもをいじけさせることになって問題ですが、逆に、少子化時代に一人っ子を溺愛することも、その子をダメにしてしまいます。私は身近にそのような問題を見てきています。ですから、我が子が可愛いなら、親の元に置いて甘やかすことをせず、世の中の辛さや苦しみを経験させたほうがよいということになります。英語にも同様な諺がございます。Spare the rod and spoil the child. (鞭を惜しむと子供はだめになる)。神様との関係も同様です。いや、もう少し正確に申しますと、約束のカナンの地を目指したイスラエル人の荒れ野の40年に見られますように、神は教育的・訓育的な手段を用いて選びの民を救われるということであります。
 
  そのような意味で、今朝の申命記30章15〜20節の御言葉は、イスラエルの民と今の私たちを救いへと誘う戒めとして響いてきます。
 
  そのことが、荒れ野における主イエスの誘惑の中でも繰り広げられるのです。荒れ野に出て、主イエスは神の霊に励まされ、父なる神との交わりを深め、同時にその直後に、同じ荒れ野で悪魔の誘惑に遭われました。40日40夜飲食を断ち、極度の空腹に陥った瞬間を狙って、悪魔は、人が生きていくために不可欠なパンの問題を持ち出しました。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうですか?」と。それは、石をパンに変えて体の命を繋ぎたいと強く願った瞬間にささやいた声でした。
 
  ドストエフスキーの代表作の一つである『カラマゾフの兄弟』では、、語り手のイヴァンと聞き手のアリョーシャという対話形式によって、大審問官がイエスに向かって、「自由よりもパンの問題こそ、人間の生存にとっての要なのだ」と詰め寄る場面を見事に描いています。これによって、今朝の4章3〜4節を現代風に取り上げているのです。
 
  「あなたが神の子メシアであるなら」という大前提を揺さぶることは、これら三つの誘惑に共通しています。第三の誘惑である悪魔崇拝の要求もまた、そこでは「あなたが神の子ならば」という問いかけの言葉は欠けていますが、内容的には、第1と第2の誘惑と同じく、「イエスが神の子であること」に対する攻撃がなされます。 
 
  この根本的な問題は、後で繰り返し人を介して出されます。ペトロが主イエスに言い表した16章16節の告白の言葉がそれでありますし、またイエスが最後に捕らえられ、ユダヤ教最高法院の前で大祭司カイヤパから鋭く尋問された26章63節の、「お前が神の子メシアであるのか」という質問がもう一度繰り返されます。
 
  人間を救う神の子メシアに期待する人々の要求、すなわち人間が求める「神の子」の理解は、この悪魔の誘惑に代表されています。しかしそれはまた、神の子であるイエスが人の子として人間の弱さを担う方でもあることを考えますと、それはイエス自身の極度に空腹に陥った状態の中で、心の底から起こってくるそそのかしでもあります。「パンがなければ、お前も生きていけないではないか。おまえがメシアなら、早く石をパンに変えて、自分と他の飢え渇く人々に供給して、救いなさい。」と、ささやくのです。これは、心理的に理解することも可能です。神からの使命を受けた神の子が、人の子としてまったく反対の声を聴く訳です。この対照的な姿が、一人の人間存在の中に起こっています。
 
  現代の精神的病いの一種に、解離性人格障害と呼ばれるものがあります。もちろん、主イエスが多重人格障害に陥っていたというようなことを言うために、この言葉を引き合いに出している訳ではありません。それはまったく正しくないことです。しかし、悪魔的なささやきによって、人間が本来意図していたこととはまったく反対の言動に突如走ることがあり得る人間の肉的脆さを、主イエスがこの荒れ野で身を持って感じ取っておられ、それに立ち向かっておられることが暗示されます。
 
  私どもの教会員のお一人が10年ほど前に、犯罪真理に関する一冊の大変興味深い書物を書いて出版なさいました。この書物の書き出しの所で、今述べました問題を扱っています。それは、古くから多くの人が馴染んで知っているあのイギリスの作家スティーブンソンが著した「ジキル博士とハイド氏」と言う小説の話から始めています。女性は男性に、悪は善にといった具合に、現在の自分と全く正反対のものに変身したいと願っているジキル博士は、自分の内なる分身で悪の権化であるハイド氏に変身したいと願いました。その結果、夜ハイド氏に変身したジキル博士は、悪の限りを尽くして夜明けに戻り、再びジキル博士に変身します。こうして作品を描いた作家のスティーブンソンは、人間には強く悪に惹かれる要素が存在することを言いたかったのです。心の中に描いている悪へのファンタジーを満足させるために、ハイド氏を創造したわけです。
 
  今日、暴力への不健全な興味や関心を抱き、人々にそう抱かせて吹聴するのは、実にインターネットをも含むメディア界ではないか。いやメディア界にまで罪悪への関心が浸透して、健全な青少年の心を阻んでいる。それは青少年ばかりか母親の心も蝕んで、子に悪影響を及ぼし、悪魔的な力の虜になっていると、書物の著者は嘆かわしい現実を描きます。
 
  さて、主イエスが、荒れ野での悪魔の誘惑に遭った時、暴力や殺人のことが問題となっているわけではありませんが、自己分裂を起こし兼ねない人間の弱さや罪悪の誘惑を皆目ご存知でない遠い所に留まっておられたのではありません。むしろその逆に、人と同じ肉をとった一人の人間として立っておられます。それは、悪と罪の誘惑に身を晒されるほど、人間の中に深く浸透して、甘いささやきの誘惑が目指す滅びの縄目から人間を贖い出すためです。
 
  イエスに向かって、「石をパンに変え、神殿の屋根から飛び降りて、怪我をしないように奇跡を見せつけ、私を拝んでこの世の権威と栄華を手に入れたら、人類はこぞって彼を神の子として崇めるに違いない」と誘いかける悪魔の三つの提案は、神の子、メシア(救い主)として神の国運動を地上で成功させるのにもってこいの条件です。しかし主イエスは、そのように誘い込む道が人類の救いに至らず、滅びをもたらすことを知っておられました。
 
  荒れ野のただ中で、主イエスはこうした悪魔の誘惑を、「神の言葉」によって退けます。その神の言葉とは、かつて40年荒れ野の旅を続けてイスラエルを導いたモーセの口から語られた神の言葉、すなわち申命記の言葉でした。神の生きた言葉による勝利は、荒れ野の旅路のただ中で起こるものです。主イエスは4章4節で申命記8章3節を引用して、こうお答えになります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。神の言葉によって、私たち一人一人もまた、荒れ野の人生の旅路を生き抜くことが赦されています。
 
  いや、神は私たちが神の言葉によって生きようとしているかどうか、その真価を試し実験するため、聖霊によって私たちを敢えて安住の場所から、荒れ野に追いやることがあります。それは、荒れ野の試練の中でイスラエルの民が、そして私たちが身を屈めて神に従順となるように教えるためです。飢えと渇きの中で、神こそがイスラエルの人々の自己保全を打ち破り、神こそが御言葉によって与えるマナを食し、着物を得、靴を履かせることを、彼らが悟るようになるためです。神の言葉に信頼する心の備えを見届けるため、神は敢えて「試み」の冒険をなさいます。  
 
  こう考えますと、神が私たちを荒れ野に追いやる時、悪魔の試みの背後で、いや、悪魔の試みを凌いで、神の冒険的な試みがあることに私たちは気づかされます。父親が子を鍛えるように、神は私たちを荒れ野という道場で、神の言葉への信頼と信仰が真実なもの、本物であるかどうかを試されるのです。私たちの信仰がほんものとなるために、そしてそのことの模範となるために、主イエスは神によって、聖霊によって、荒れ野に押し出されて行かれたのです。そのことを覚えましょう。