日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年2月26日  (降誕節第10主日)


聖書:詩編127:1〜2、エフェソ書4:9〜16
説教題:「教会を建て上げる」

朴 憲郁(パク ホンウク) 牧師


   旧約聖書の箴言は、神の知恵に基づく洞察に富む教訓的な言葉によって構成されています。その中の10章22節にこう書かれています。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」。人の努力と労働が必要であることは、言うまでもありません。しかし、神を度外視した労働のむなしさを洞察したこの言葉は、人間が独力ですべてを遂行し得るし、しなければならないという生き方を、神への不信として批判しています。
 
   自己過信は、それが成功への道のように見えても、思い通りにならない時の苛立ちと思い煩いを、人間の心に限りなく引き起こします。わたしたちはここで、主イエスが山上の説教で「思い煩い」を戒めた言葉を思い起こします。この箴言の言葉を裏返した言葉が、有名な詩編127編1〜2節です。朝起きて一日の働きに必要なことを、神は人間が無意識で無為の状態である夜の眠りの中で備えておられるではないかと、2節終わりは語っています。
 
   ここには、自分の思い煩いのすべてを神に委ね、神が必要と見なしておられるものを感謝して、神から受ける信仰の謙虚さがあります。神の祝福はしばしば、人間がまず探すところとはまったく別の所に隠されていることがあります。人間に隠されたこの神の御支配は、私たちが夜眠っている間にも起こっています。
 
  1節では、建築の労苦に喩えてこう言われます。「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」と。
 
  主イエス・キリストの体なる教会もまた神の家、神の霊が宿る神殿です。神御自身が建ててくださる神殿であり、祈りの家です。洗礼によって、御子キリストの体に連なって肢々とされた信徒一人一人は、神の恵みにお応えして教会に仕え、心を一つにして、キリストの共同体を建て上げるために様々な奉仕の働きに努めます。頭である御子キリストから聖霊の賜物を一人一人異なる仕方で与えられていますので、それらを用いて教会にお仕えします。今朝は、エフェソ書4章9節以下の御言葉が与えられていますが、9節に先立って7節で、そのことをこう述べられています。「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」。その賜物の一つとして、指導的な賜物も注目されています。それが11節において、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」と語られます。
 
  体の頭である御子キリストを通して、父なる神は各自に恵みの賜物をお与えになり、信徒一人一人の奉仕の応答を求めて、神の家をお建てになるのですから、頭なしに、また父なる神なしに、信徒が自分たちの熱心や一致結束によって、自己流の教会を建て上げるのではないのです。ところが、現実の教会はそのような過ちをしばしば繰り返すことがあります。一方で、教会の指導者が独裁的に教会を支配することがあり、他方では逆に、古株の信徒たちが気に入らない新任の牧者、教師を追い出してしまう忌まわしい出来事が生じたりします。最近もそのようなことがありましたので、とても心を痛めています。
 
  一体どうしたらキリストの体が健全な体として維持され、成長し、成熟していくべきかを、13節以下が語っていますが、まず何よりも13節でこう語られます。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」 ここでは、教会はいつしかその目標に到達して、真の知識と完全な愛を得ることができるであろう、というのではありません。4〜6節までの御言葉から確認できますように、すでに神から招かれ与えられている一致に基づく知識と愛へと駆り立てられ、事実そのために励むことになります。これは、頭である御子キリストから溢れ出る霊の賜物で、それが体と肢体全体に循環していきます。こうして、しなやかで力動的な共同の体が保たれ、成長していきます。
 
  教会という体全体が成熟するだけでなく、それに連なる信徒一人一人の信仰が生活の隅々まで、そして隣人との交わりと会話の中で常に成熟し、献身的に仕えていくことを、頭なるキリストは望んでおられます。決して信仰者の傍観的な信仰を促してはいません。これは、私たちに先立つ一致の恵みに基づく信仰者の倫理的、献身的な生き方と言えるでありましょう。それが13節の語る意味です。
 
  13節において、一人一人が体の頭である御子キリストに対する信仰と知識において一致し、成熟した共同体となるよう、主の導きに応えて成長することが求められています。それは、17節の「わたしは主によって強く勧めます」という言葉にも繋がっています。このような霊的成熟が強く求められるのは、14節で語られるように、教会がこの世の様々な思想や試練に見舞われて、未熟な状態に留まる危険性があるからです。だから、その誘惑に陥らないよう警告を発するのです。
 
  当時のエフェソ教会を襲う誘惑がどのようなものであったのかは定かでありませんが、教会は荒波に飲まれそうな危険な状況におかれていたことは確かでした。14節後半においては、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく」と言われます。この箇所をギリシャ語原典に沿って訳しますと、こうなります。「私たちを欺いて悪賢く振る舞う人間のあらゆる策略的振る舞いの風によって、激しい波に揺り動かされ、漂流することのないように」と書かれています。つまり、エフェソの教会は、悪賢い人間の欺きという嵐による荒波に襲われて激しく揺れ動く船に喩えられています。しかし、船員と乗客たちは、嵐のような強風に抗して、目標に目指して進んでいかなければなりません。正しい認識に基づく信仰の一致と愛の実践による円熟した共同体として、一人一人が緊急動員されなければなりません。神は、その誰をも必要とします。船に乗っている人は皆、一致結束してそれぞれ役割を果たしつつ、その船は目標を目指して進んでいきます。
 
  新しいひと年を迎えた教会は、船出してはや2ヶ月間航海しています。今年も、世間では新たな関心や話題が生まれ、流行語や思想・主義主張が飛び交っています。流行歌のように、人々はそれに取り憑かれることもあります。クリスチャンだからといって、世捨て人のように生きることを、聖書は求めていません。むしろ、社会に責任的に生きることを勧めています。その意味において、信仰者もまた時代の流れや経済・社会の動向を的確につかむ必要があります。教会が時代の先を見つめて、預言者的に振る舞う場合は、それらをつかみ取る能力がもっと必要になってきます。さらに、庶民的な流行や若者文化とそのセンスに鋭敏であることも、その能力に応じて、信仰者に求められます。特に、教会学校の教師たちは、ITとアニメ文化に親しみ馴染んでいる子どもたちの関心事や考えや感覚を知るために、漫画などもよく読んでおくのがよいと、先輩教師たちからも言われます。確かに、私たちも世間の有様に馴染んでおり、巻き込まれ、係わっています。
 
  しかも、これらの様々なうごめきは決して中立的ではなく、多くの場合、何かの思惑や価値観や目論見のもとに取り込まれているのは事実です。特に現代社会は、消費と内需拡大の経済優先を求めています。多くの大人や子どもまでも、情報メディアを通して、貪欲に歯止めの掛からない競争原理に取り囲まれ、利潤追求の価値一辺倒の市場経済の社会に引き込まれています。他方では、離職者や失業者、老人や障害者のための福祉次元への努力は周辺化し、二次的に扱われているように思われます。現代社会はいつの間にか、「あなたも私も」人間らしさを失って、閉塞感の漂う世界を作り上げてしまっているのではないでしょうか。
 
  もはや中立的ではない現代人の思想・主義主張は、私たちを翻弄させ、激しく揺り動かす嵐の波と化していきます。しかし、それらはしばらく時が経つと、やがて何もなかったかのようにもろく消え去っていきます。にもかかわらず、地中に根を張らない樹木のように、信仰の一致と愛に根ざさない信仰者は、それらに飛びついては振り回され、未熟な状態が続くのであります。
 
  15節に、「愛に根ざして真理を語り」とあります。樹木がしっかり地上に生え出てまっすぐ上に、たくましくそだつのは、人目につかない地中にその根がしっかり張っているからです。そこから養分も吸収します。このように、最も大切な部分は目に見えませんが、命ある生きた現実、愛に根ざして真理を語る現実があります。
 
  先日、8日間の韓国教会研修旅行に行って無事戻ってまいりました。参加した神学生たちと共に、実に多くのことを学び、語り合いを通して交わることができました。旅程の最終日に、日本の明治学院大学と姉妹関係を結んでいるキリスト教大学の崇実大学を訪れ、貴重なキリスト教博物館で、韓国プロテスタント宣教初期の数種類の翻訳聖書、そしてマテオ・リッチが17世紀初めに北京で書き上げた世界地図などを参観いたしました。最後に、私たちをご案内くださった前総長の教授が、私たち一行に挨拶してくださいましたが、その中で「福音の真理に立つ愛の業に努めてください」という言葉を二度もお話になったのがとても印象的で、一同の励ましとなりました。これは15節の御言葉と響き合っています。
 
  次の16節には、キリストの体に連なる節々が補い合ってしっかり組み合わされ、愛によって結び合わされる恵みの事実について、語られています。愛による信仰者の結びつきは、個教会においてのみでなく、教派や民族や国境を越える全体教会においても起こることです。なぜならば、1章ですでに語られていますように、頭である御子キリストは万物を治める主でもあるからです。
 
  そのことに因んで、やはり今回の研修旅行で思い起こすことがあります。旅程の7日目の夕方、1890年頃にメソジストとして最初に設立された貞洞教会を訪れて、その教会の歴史について、副牧師の方から丁寧な説明を受けました。その後休憩を挟んで、水曜日夕拝にも出席しました。休憩時間に、その副牧師が主任である張牧師に、私のことと東神大生一行のことをお伝えしたようです。夕拝の始まる少し前に、張牧師が礼拝堂の後方座席に座っている私たちの所にわざわざ歩み寄って来て、親しく挨拶なさり、私にこうお尋ねになりました。「昔、日本からソウルのメソジスト神学大学に母国留学して、へんぴな男子寄宿舎で1〜2年過ごしたことはありませんか? 自分もその頃在学しており、寄宿舎にもいたので、その人を覚えているのですが・・・」と。そこで私の在寮時期(1974〜1975年)と私の身分をお話しましたら、ぴったり合っていました。私はどうも記憶にないのですが、彼は私のことを覚えていたのです。彼は後に26年間アメリカに留学して研究し、牧会なさった後、帰国して今の貞洞教会で牧会しているとのことでした。お顔をよく拝見しましたら、何となく私の記憶に残っていました。偶然、ここで42年ぶりに再会した訳ですので、喜びの握手を交わしました。張牧師はその夕拝終わりの報告時間にそのことを会衆に報告なさり、私と研修生と東神大のために、そして日本の教会とその伝道のために、祈ってくださいました。信徒たちも同声祈祷をしてくだいました。
 
  国境や民族や教派を越えて、主にある兄弟姉妹として交わり、全体教会としてのキリストの体に連なって、共にキリストを証しする喜びで心が満ち溢れました。
 
   このことは当然ながら、個教会においても、そして千歳船橋教会においても起こっています。それは16節にある次の言葉が出来事となっている事態です。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」
 
  8節と9節で御子が地上の深みに降りてくださり、再び高い天に昇ったと言われています。地中の深みにまで降った御子キリストの愛に根ざし、地上に大きく育つ樹木のように、私たち一人一人がこの世を照らす光としての教会に仕えていく者でありたいと願います。特に、年度末の第二回教会総会を迎えた本日、そのために主が祝し導いてくださることを、心から信じ、またそれを祈り求めます。