日本基督教団 千歳船橋教会礼拝説教
2017年2月19日 待降節第9主日


聖書:イザヤ書11:1〜5、ヨハネ福音書14:15〜14:31
説教題:「弁護者」

須田則子 牧師


  「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」
 
  主イエスは、最後の夜、「わたしは間もなく世を去る」と弟子たちに言われました。弟子たちはどれほど心細かったでしょうか。これまではイエス様について行けばよかった。攻撃の矢面に立ってくださったのはいつも主イエスだった。その方がいなくなったら・・・。言葉は悪いですが、ただただ腰巾着のような心持ちでついていた弟子もいたかもしれません。それなのに、自分たちだけになってしまったらどうしたらいいのか。
 
  そのような弟子たちに主は、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とおっしゃいました。弁護者とは聖霊です。「聖霊はあなたがたの弁護者だ」とイエス様はおっしゃいます。弁護者ということで色々なイメージをお持ちになると思いますが、わたしの場合は弁護士さんにお世話になったこともあって、弁護士という言葉を思い浮かべます。弁護士にお世話になったなどと申し上げると、須田は何かやらかしたのかと思われるかもしれませんが、そのようなことはないのでご安心ください。一応、弁護士の主な職務をここで確認すると、民事訴訟では、原告、また被告の訴訟代理人になって主張や立証を行い、また様々な法律上の手続きを行う人です。刑事訴訟では、弁護人として被告人の無罪を主張し、あるいは適切な量刑が得られるように検察官と争う人です。悪徳弁護士という言葉もありますが、弁護士ということでわたしたちが描くのは、頼りになる存在ということだと思います。
 
  弁護士さんに相談事をしたときのことを思い起こすと、たまたまその方が親切だったのかもしれませんが、とにかく話をよく聞こうとするのだなあと思いました。正確に事情を知らないと正しいアドバイスもできないということでしょう。誰かを正しく弁護するというのは、その事情をよく理解し、受け入れることを前提とします。
 
  相談事とかではなく、刑事事件だったら、どうなのだろうと思います。ドラマや映画から想像するしかありませんが、弁護士と言えば被告の無実を証明したり、情状酌量を求める存在です。被告の皆が皆、無実ということはありません。弁護士にも本当のことを言わない人もいるかもしれませんが、恐ろしい犯罪を告白される場合もあるでしょう。それでも、事情を知った上で弁護する。もちろん報酬というのがあるわけですが、罪を犯した人の弁護人として弁護するというのは、やはり素人にはとても難しいことに思えます。
 
  わたしたちが神様の法廷に立たされたらどうなるのか。神様が裁判官、わたしたちが被告席に立たされる。以前、日本語の聖書で悪魔と訳されている言葉は、サタン、デーモン、ディアボロスなどがあり、ディアボロスとは悪口を言う者、中傷する者、告発する者という意味だと申し上げました。悪魔は、わたしたちに相手の悪いことを吹き込んで人間関係を壊すこともしますし、神様の法廷では、わたしたちが行いで、心の中でしてきた悪事を次々に告発するでしょう。
 
  そのような法廷でわたしたちを弁護してくださるのが聖霊です。一体どうやって弁護してくださるというのでしょうか。黒いものを白と偽りの弁護をなさるのでしょうか。「この人、悪気はなかったんです。この人、生まれ育った環境が悪かったんです。相手も悪かったんです。今は、すごく反省してるんです」と弁護なさるのでしょうか。そんな言い訳が通るものはいいです。けれども、そんな言い訳が通らない罪があることをわたしたちは知っています。真っ黒です。絶対、明るみに出されたくないことがあります。できれば消えたい、けれども罪は残る、恐ろしくて自分から地獄に堕ちていくしかないと思えるような罪があります。
 
  聖霊は、そのようなわたしたちを、主イエスの十字架の死を引き合いに出して、弁護してくださいます。「この人たちが受けるべき罰は御子が既に受けました。どうか罪に問わないでください」と、父なる神様の前で悪魔と戦ってくださいます。イエス様が十字架にかかってくださったらからこそ、わたしたちに弁護する方が与えられました。主イエスが、負うべき罰を受けてくださらなかったら、誰もわたしたちの弁護のしようなどありません。手の施しようがない。
 
  裁判ということで、裁判官席に神様、被告席にわたし、たとえは悪いですが検察が悪魔、聖霊が弁護人と申し上げてきましたが、原告のことを挙げていませんでした。原告席には、わたしが罪を犯した人、傷つけた人がいます。何より本来ならイエス様がそこにおられます。イエス様を十字架につけて殺したのは、当時のユダヤ人だけではありません。わたしもその一人です。そうであるにも拘らず、主イエスはわたしを訴えず、また、わたしが傷つけた人を癒し、救ってくださるというのです。弁護者を与えてくださると言うのです。イエス様は、「わたしが父にお願いして弁護者を遣わし、永遠にあなた方と一緒にいるようにする」と約束してくださいました。わたしたちは後ろめたさに生きるのでなく、感謝に生きます。
 
   また、不遜な言い方になりますが、聖霊は、わたしたちに神様を弁護することもなさいます。わたしたちは、神を裁きます。「なぜ、神様はこうしてくれないんだ、ああしてくれないんだ」と文句を言います。「こうすべきだ、ああすべきだ」と指図をしようとします。嘆き、また、怒ることもあるでしょう。そのようなわたしたちに聖霊は真実を伝えてくれます。エフェソ書のパウロの祈りの一節をお読みします。
 
  「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ1:17−19)
 
   聖霊はわたしたちに神様のことを理解させてくださいます。キリスト教は、今お読みしたような希望によって救われていると告白する信仰です。わたしたちは現世ご利益がありそうだとキリスト者になったのではありません。聖書を読めば読むほど、主を信じて生きるのは大変だなあと示されます。それなのに、分かっているはずなのに、苦しいことがあると、「なぜ」と不安になり、神様に不満を持ちます。そのようなわたしたちに聖霊は、御言葉を示してくださいます。イエス様の姿を映し出してくださいます。イエス様を信じて生きるのは頼りないと思ってしまう者に、十字架の死がどれほどの意味を持っているか、そこにどれだけの愛があるか、力があるかを示してくださいます。
 
   弁護者と言うことを申し上げてきましたが、元の言葉、パラクレートスは傍らに呼ぶと言うのが直訳で、励ますとも、助けるとも訳される言葉です。聖霊は励ましてくれる。励ましてもらう嬉しさをわたしは年を取ってから実感しました。例えば、今から7,8年前、東京マラソンが始まって2,3年だと思うのですが、高校の同級生に東京マラソン走ろうと誘われたことがありました。当時も今ほどではありませんが、通常の申し込みでは抽選に当たらないと走れないので、その気になっても、走れるとは限らない話なのですが、とにかく誘った理由は、「自己ベストが更新できるから」というものでした。わたしの場合は一度もマラソンを走ったことがなかったので、自己ベストも何も関係ないのですが、とにかく、「あんなに多くの人が沿道で応援してくれる大会はない。だから自己ベストが更新できちゃう」という話でした。そういうものなのかなあと思ってその時は、確かめることもなく終わりました。スポーツ選手が勝利者インタビューで、「皆さんの声援のおかげで」と、よく言っているのを聞いても、ファンへの社交辞令、礼儀だろうと思っていました。
 
   ところが自分が走るようになってからは、本当に励ましが力になると実感します。小さな大会しか出たことがないので、大勢の声援というのはまだ経験したことがありませんが、全く予想もしていないところで、小さな子供さんに、「がんばってください」などと声をかけられ手を振られると、もう、「ありがとう」とピョンピョン飛び跳ねるように体が軽くなるというか、元気が出ます。
 
  応援があろうがなかろうがタイムには関係ない、応援要らないという方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、スポーツ選手が、応援してくれる人に感謝をするのは単なる社交辞令だけではないというのは事実だと思います。その人にとって本当に力になったのです。
 
   応援されると励まされると何であんなに嬉しいのかなあと考えました。わたしの場合は多分、辛くなってくると、その自分の世界に入ってしまって、痛さだとか、苦しさだとか、不安や怖さで頭がいっぱいになって、そこに自分一人で走っているのではない、見てくれている人がいるとハッと気づかせてくれるからだと思います。
 
   聖霊は励ましてくださいます。自分一人の殻の中で悶々としているものに、まなざしを送り、言葉を送り、風を送ってくださいます。
 
  喜ぶ心、感謝する心を与えてくださいます。わたしたちも誰かを応援するような、励ますような役割を担いたいと思います。
 
   ヨハネ福音書が書かれた状況は教会がばらばらになりそうな危機の時でした。
 
  福音書は、繰り返し、主イエスが、主を愛することと掟を守ること、すなわち人が互いに愛し合うことを結び付けて語られたことを記します。主イエスを愛しながら、隣人を愛さないということはあり得ない。
 
  わたしたちが互いに愛し合う、そこに父なる神がおられ、キリストがおられると語ります。14章の前半では、イエス様が、天に、人々の場所を用意すると語られました。14章の後半では、イエス様が、父なる神様が、聖霊において、人々のところに住むと言われます。神様がわたしたちの中に住むというのは、例えば私という一人の人間の中に閉じこもるというのではありません。わたしを広げてくださるということです。父なる神様が、主イエスが目に見えない聖霊においてわたしたちに住んでくださるとは、わたしたちが互いに弁護しあい、互いに励まし合い、互いに愛し合う交わりをつくっていくことです。
 
   イエス様は平和、シャロームと言われます。パクス・ロマーナとかパクス・アメリカーナのような武力を背景にした、大国の覇権による平和ではありません。
 
  神様との平和、そして父子聖霊の三位一体の神様の愛し合う平和です。そのような平和を主イエスはわたしたちに与えると言われます。天国、神の国にあるものです。神の国は、何か一定の土地を示すのではなくて、神様の支配が及んでいる、神様が王であるところを指します。イエス様が平和を与えてくださるとは、わたしたちがもう、その神の王国の陣地に入れられているということです。当時の教会の人々は、迫害を恐れていました。そのような人々に、あなたがたは信仰を捨てて降参する必要などない、あなたは神様の陣地におかれているのに白旗を振る必要などない、途中棄権する必要などないと慰め励まします。
 
   20章の先取りになりますが、復活したイエス様はユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた弟子たちにあらわれて真っ先に「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。そして、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と告げられました。平和と派遣と聖霊と赦しが結びついています。イエス様に、神様との間に平和を与えられ、恐れに縮こまるどころか神様の陣営のために世に派遣される。わたしたちが派遣されるというのは伝道に向かうということですが、伝道するとは、罪の赦しを宣べ伝えるということです。聖霊がわたしたちに罪を赦す役割をお与えになります。
 
   伝道するとは罪の赦しを伝えていくことです。罪に悩む世の人にキリストの赦しを伝えることです。
 
  そうであるならわたしたちも全ての人を赦すよう求められています。あなたが赦さなかったら、その人は赦されないのだ。そこまでおっしゃって、わたしたちに赦すことをお求めになります。
 
  伝道とは人を赦すことだと示され、毎日の生活が問われていると思いました。わたしが誰かを赦すなら、愛するなら、それはキリストに遣わされた者としての生き方です。けれどもわたしが誰かを赦さないなら、愛さないなら、それは聖霊に逆らっています。先ほどマラソンの話をいたしましたが、応援されたら、心持ちも変わってきます。スポーツというのは勝負、人を敵味方で捉えるところもありますが、他のランナーのことを思って、他の人も頑張っているんだ、一緒にがんばりましょうという気持になります。聖霊なる神様がわたしたちを弁護し、そして、励ましてくださっています。お互いに励まし合いながら、赦し合いながら、定められた道を進ませていただきたいと願います。お祈りします。