伝道の課題としての死
熊澤義宣

 わたしが、神学をはじめて学ぷようになりましたのは、東京神学大学に入学した1949年からです。従って、ことしで、丁度、48年間にわたることになります。

 その歩みを振り返って見ますと、わたしの場合には、神学研鑽の期間と肉体的な病いの期間とが、つねに並行してきました。

 パウロは”肉体のとげ”という言葉で彼の場合の類似の状況について語っていますが、わたしの場合も、このような肉体的な疾病との共生が、神学研鑽を妨げたのではなくて、わたしの神学研鑽はそれなくしては考えられないような仕方で進めることを主がお求めになったことを感謝をもって受け止め、病いとそこから必然的に生じる死の間題を、否定的な要素としてでばなくて、積極的な要素として受けめることが許されておりますことをこの最終講義の主題の中で表現させていただきたいと思っています。

 実際、とりわけ、ここ十年余りは、学長としての職務をお引き受けして、実質的には2カ月余りしがたっていない時に第1回の心筋梗塞で倒れ、救急車でこの三鷹の杏林大学病院付属病院に運ばれて、辞任のやむなきに至って大変な御迷惑をおかけして以来、この東京神学大学での教授としての職責を定年まで続けることができるかどうか、そのことを危ぷむ状況がなかったといえば、やはり、真実ではないように思います。

 しかし、主の憐みのもとで、このような形でそれが可能となりました。欠け多い身の反省は、もちろん、山ほどありますが、しかし、今あるのは、何よりもただ感謝です。

 スピノザ流の表現を用いるさせていただくならば、

‘死の相のもとで(sub specie mortis)’で、

この48年間のわたしの神学研鑽の歩みが一切マイナスであったと考えることはできません。

 そうして、もしも、このように‘死の相のもとにある’わたしたち人間の姿が、けっして、マイナスではないのだとすれぱ、そのことを確信をもって告げることこそが伝道の課題であります。

 サマーセット・モームが指摘しているように、まやかしの統計も多々ある中で、

「絶対に間遵いのない統計がある。それは<人間の死亡率は100%である>という統計である」

という事態を見据えながら、そのような人間の避けがたい運命の中に、キリストの姿を示され、人間の罪と死の彼方に、十字架と復活の出来事を見る視点を確立されることにおいて、伝道の神学と神学的死生学の課題は一致するのです(NHK教育テレビ人間大学、柏木哲夫I死を看取る医学」参照)。

 この数年のうちに定年を迎える多くの、昭和1桁は例外なく、太平洋戦争をくぐりぬけて生き延びてきた戦中派です。

 わたしはアメリカ・ニューョークで生まれて、幼年時代をそこで過ごした、アメリカ市民でした。わたしが国外に出ることになった時に、わたしに交付されたパスポートは、アメリカのパスポートだったのです。

 そのようにしてアメリカを出国して、わたしは日本帝国が進出のためにつくった旧満州国の奉天(現、瀋陽)で小学校に入学しました。

 平安小学校という学校で4年まで学びました。そこでは二つの経験をしました。一つは、日本語の不十分な帰国子女の生話を経験したことであり、もう一つは、現在、関西学院大学神学部で教鞭をとっている高森昭兄弟を同級生としてもったことです。

 その後、上海に転校して、北部小学校を卒業し、上海日本中学校に途中まで学び、結局、少年時代の8年間は中国で過ごしました。上海では中日教会の日曜学校に通い(牧師は古屋孫次郎牧師、つまり、lCU教会の古屋安雄牧師の御尊父)、小学校の同級生は、東神大で学んで、カナダの合同教会で引退まで働いた、古屋望牧師です。

 従軍慰安婦という言葉こそは知りませんでしたが、慰安所と呼ばれる、ほとんどバラック建の建物の前に、毎日、何十人もの未だ若い日本の兵士が列をつくって並んでいた様子は、子供心にも焼きついています。

 この時代に経験したことを二つあげますと、一つは、日本基督教団の成立を小学生時代に経験したことです。

 市内の各教会の日曜学校の生徒たちが、野戦病院でクリスマス劇を合同で行いました。もう一つは、太平洋戦争の勃発を身近に経験したことです。

 1941年12月8日、日本の抜きうち的な宣戦布告と同時に、上海の黄浦江上に停泊していたイギリスの軍艦プリンス・オヴ・ウエルズが即時占領され、市民の大変な話題となったからです。

 とりわけ、アメりカ市民でもあり、7月4日のアメリカの独立記念目には大使館から招待状をうけてきたわたしにとっては、自分の中にある二つの国の闘いを身近に経験しないわけにはいかなかったのです。

 ともかく、わたしは人生のこの時まで、日本で生活したことはまだなかったのです。

 もしも、わたしにコスモポリタン的なものの見方があれば、このようなところから来ていると思っていただいてもいいでしょう。

 この時代の経験から、エキュメニズムと、世界伝道への関心の芽が次第に芽生えてきたといえましょう。

 中国への特別な関心もそこから御理解いただけることと思います。日本人が中国人を見下すことの多かったことも、友人とがお店などで気づいていました。わが家にも中国人の親子のお手伝い「アマ」が住み込みで働いていましたが、日本人の多くはそのような生活だったように思います。

 自分の我侭にいまさら顔を赤らめてももう手遅れですが、ようやく、当時の中国人がどんな思いでそれに耐えていたかを考えるようになってきて、これらが思い起こされるのです。

 魯迅の庇護者として今日でも中国社会で高く評価されている日本人クリスチャン内山完造さんの書店(書籍部)は、北四川路の行き止まりのところにありましたが、そこで、はじめて、自分の小遣いで買った新約聖書は、わたしが自分で買った最初の聖書です。

 いまの日本人だけではなくて、中国の若者、アジアの若者たちに、内村-魯迅精神が伝達されるような国際学院ができればなどと思い巡らす昨今でもあります。

 このようなわたしが、はじめて日本で生活をするようになり、まだ必要な物資や、日本国内では反戦決画として上映を禁止されていた「風とともに去りぬ」が上映される程度の自由があった上海とはまったく違った戦時状況に直面しなくてはならなくなったのは、敗戦色も濃くなった1943年の秋でした。

 わたしにとって幸いであったのは、軍関係者の子弟が多かったために海軍兵学校、予備兵学校、陸軍士官学校、経理学校、幼年学校などの軍関係学校に中隊編成で入学者を送る、その意味で名門校であったにも拘わらず、同時に英語教育の名門校として岡倉賞を受け、教練の教官の総合評価では“質実温和”と評されるような湘南ボーイズの集まる湘南中学校に転校できたことでした。

 川村輝典牧師はそのころの先輩で経理学校に進んだ方でしたし藤掛豊盛、石原保彦、小室徳夫などの諸牧師は湘南中学でわたしの同級生かすぐの下級生たちです。

 そろそろ進学を考えなくてはならなかった私は、軍の学校へ行こうとした多くの学友、あるいは、徴兵猶予の特権を認められた理科系を志顧することをこばみ、アジアで外交官として、平和のために勧きたいと考え、海外、といっても、当時では、旧満州国かもとの中華民国ですが、そのうち旧満洲国の建国大学への留学を考えていました。

 この湘南中学校での生活も、大半は、学徒動員のために、工場での労働の日々でした。わたしが行かされたのはある木工場でした。

 平和な時代にはヨットを製作していた茅ケ崎のその工場には、町の大工さんたちが徴用され、わたしたち中学生はその人々のもとに数人ずつ配属されました。

 要するに、大工の親方のもとに弟子いりさせられ、カンナの使いかた、のこぎりの目立ての仕方などなどを仕込まれ、イエスさまの弟子となる前準備をさせられたわけです。

 そのもとヨット工場では本製機を造っていました。カゼインをつかってベニヤを造り、さらにそのべニヤを使って、桜花4号という木製機を造っていたのです。それは当時使われていた銀河という爆撃機の下につけられ、敵の上からロケットで発射される特攻機だったのです。

 毎日、そのような特攻機を作らされながら、次第に生と死の問題に直面しないわけにはいかなくなっていきました。教会や地域社会からは男性の姿は極瑞に少なくなりました。

 出征、そして、戦死、やがて、空襲にさらされ、毎日、顔を合わせていた同級生の中にも、生命を落とす友人も出てきて、死はいわば日常的な事柄となってきました。

 教会の礼拝でも、婦人が大半を占めるようになり、週日には工場に徴用されていた牧師が行う説教を熱心にメモをとって、終わると待ち構えるように質問をしていた熱心な求道者風の男性の姿が目立ちました。やがて、この男性は特高警察だということがわかってきましたが。

 週日の祈祷会は、部屋の灯りが外部に漏れないように、カバーを掛けられた電灯の下で行われ、警戒警報のサイレンと共に、灯は即座に消されて、解散し、暗い夜道を帰っていかなくてはなりませんでした。

 そのように死が日常化していくにつれて、元来はおっとりとしていたこの中学生も、周りでは次々に死んでいくのに、自分は死なないで生きているのは、一体何のためだろうか、と問わないわけにはいかなくなりました。工場ではやはりべニヤで輸送船を作っていましたが、昼休みなどにそこに入り込んでは、小さな手帳に

「人は何のために生きるのか」

といったことを書き連ねていました。

 そのころ平塚の海岸に芳賀さんというお宅がありました。病気療養の必要があった神学生の芳賀真俊さんがその母上芳賀つるさんと一緒に住んでいましたが、教会の若者の溜り場となっていました。

現在の芳賀力教授の父上と祖母上です。

 腹を空かせた青年たちは、芳賀のおばあさんの手作りの雑炊に飢えを満たしながら、はなはだ不自由になっていた当時の戦時下の社会では言えなかったようなことを、思い切り自由に吐き出していました。

わたしは、当時、胸につかえていた

「人は何のために生きるのか」

という問題を、この芳賀つるさんに思い切ってぶつけました。すると、芳賀のおぱあさんは、実に事もなげにこう答えたのでした。

「そりゃ、決まっているじゃないか。神の栄光のためだよ」。

 これは、当時のわたしには何が何やら、さっぱり分かりませんでした。まるで禅問答でも聞くように、不可解な答えでした。しかし、その答えは、五十年以上たった今日でもはっきりと脳裏に刻まれています。しかし、この問いに一応の解決が示されたのは、次のようなパウロの言葉を聖書の中に見出した時でした。

 「わたしたちの中には、だれ一人自分のいために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:7〜8)。

 わたしは、平塚富士見町教会において、あの仲間たちと一緒に麻生信吾枚師から洗礼を受けたのです。1945年クリスマスのことでした。

 わたしは幼時、ニューヨークのリヴァーサイド教会において、ハリー・エマーソン・フォスデイック牧師(ユニオン神学大学実践神学教授)から献児式を受けましたが、今や、このようにして洗礼の恵みに与かったのでした。

 キリストのために生さる、ということは、わたしの長年の夢であった、政治家、とくに外交官となって、アジアの平和、世界の平和のために貢献したいという願いに変化をもたらせました。

 わたしはキリストの外交官として、遣わされることを願うようになりました。つまり、伝道者としての献身です。

 このようにして、わたしは1949年4月に、新制大学となって第一回生として東京神学大学の門をくぐることになりました。

 その年は新制度への改革で、わたしのいた旧制の第一高等学校は、東京高等学校と共に東京大学教養学部となりましたが、それは7月入試、秋入学でしたが、わたしはそれを待つことなく主の召しに御答えして、4月に東京神学大学へと歩みを進めたのでした。驚いた一高の教務課は、東大進学のための書類はいつでも出すから、と言ってくれましたが、わたしは一度も後を振り返る気持ちにはなれませんでした。

 第一高等学校では中寮18号部屋にいましたが、その後、そこからはさらに神は、次々とすぐれた御国の働き人をお召しになりました。

 加藤常昭、高森昭のお二人です。

 このようにして、わたしの神学徒としての48年ははじまったのです。敗戦と同時に父を天に送ったわたしには未だ幼かった弟がいました。

 母はそのために働さに出なくてはなりませんでした。わたしも自分のことは、自分で責任をもたなくてはなりませんでした。一高の先輩官僚のつてを頼って、学校の傍ら、閉鎖機関整理委員会で仕事をさせていただきながら、それなりに充実した日々を送っているつもりになっていました。

 やがて、日本育英会が奨学生を募集し、わたしもその後、長い間、この奨学金のお世話になりました。

 その手続きのために、レントゲン写真を取り、当時、校医であった赤星進先生に日本育英会に提出する診断書をお願いいたしました。ところが簡単に済むと思った事柄が思いがけない方向へと向かったのです。赤星校医の診断書は

「要療養、要手術」

というものでした。肺の左右に空洞が出来ており、即刻、入院しなくてはならない、という厳しい診断だったのです。

 赤星先生は、現在は精神科の医師ですが、当時は胸部専門の外科のお医者さんでしたので、即刻、胸部成形手術を、ということになったのです。

「両測成形で、大丈夫でしょうか」

とおずおずと尋ねたのに対して、校医の先生は

「肺活量はずっと少なくなりますから、今までのように動くことはできないでしょうが、まあ、生きていることはできますよ」

とお答えになりました。憶病なわたしはこの外科の先生を離れて、内科の先生を頼ることにして、信濃町教会の長老でもあった国立中野療養所の新海明彦先生のもとに行き、そこに入院しました。

 東京神学大学に入学して、まだ、一年もたっていない時でした。

 正直なところかなり参りました。志半ぱにして挫折と言うにしては、まだ、ほとんど何もやっていないうちのことでした。一体、あれほど堅く信じていた神の召命はどうなったのでしょうか。わたしは、本当に神から伝道者として召されているのだろうか。あるいは、それはただわたしがそう望んだといった、願望に過ぎなかったのだろうか。

 ともかく、早く直して、大学に戻らなくては,などなど、様々な患いが胸中を駆け巡りました。

 その頃、母教会の先輩は、もう牧師となっていました。

 同じ病気で十年かかって神学校を卒業して芳賀真俊牧師は、ベッドサイドで

「おい、熊澤、よかったな」

といきなり言うではありませんか。わたしは驚き、そうして、恐らくは不機嫌になっていたに違いありません。献身の挫折者に対して「よかったな」とは何事か、と思ったからです。

 しかし、芳賀牧師はそんなことにはお構いなく、

「ここでしっかり、勉強してこいよ。お前には神さまはここでなくては学べないような、特別カリキュラムを用意してくださったのだから、お前は何と幸せな男だ。これで、お前は牧師になっても、ベッドで横たわっている病人の気持ちを少しは分かる牧師になれるだろう。よかった、よかった。」

といって帰って行きました。この一言は、わたしに後々にまで残る大きな意味をもつこととなりました。

 病気の期間をマイナスの期間と考えないで、それを積極的に神の計画の中で受け止めると言うことです。

 その後にも、わたしは病いとの付き合いをずっと続けることになりますので、もしもその期間がすべてマイナスでしたら、わたしにとっては、わたしの人生の殆どすべてがマイナスであった、積極的な意味は見出し難いことになります。

 そうでしたら、死亡率100%という人間の現状は、まさしくマイナス100%ということにもなってしまいます。

 死は、このような人間に対して、それがキリストにおいてプラスであることを告げる伝道の課題となるのは、このようにわたしが神学研鑽のプロセスにおいて学ばさせられた事柄であったのです。国立中野療養所では、ごく数人の方々ではありましたが、信仰の喜びを分かり合い、その結異、洗礼をうけて、クリスチャンになった人々がおります。その喜びを抱いて天に旅立った兄弟もおりますし、それぞれの仕方で力強い歩みをしておられる姉妹方もおります。

 当時、学長であった、桑田秀延先生が、わたしたちによく言われたことの一つは、神学生の間に、たとえ少数であっても、実際にだれかをキリストに導く、伝道の経験をもつように、ということでした。

 挫折とも思えるどん底で、神はそこで伝道の喜びを味わわせてくださったことを感謝をもって振り返っています。

 内科的な療法を主としていましたから、ヤコベウス焼灼手術という簡単な手術は受けましたが、多くは気胸とか気腹に化学療法(パス、ヒドラジッド、テイピアンなど)を加えて冶療を、その後、ドイツに留学するまで続けました。

 国立中野療養所での治療仲間の中には、一高の先輩であった秋田稔さん、植村環先生の息女の川戸挨子さん、亡くなった、仏教学者の渡辺照宏、政治学者の丸山真男、塩田庄一などの諸先生がおられました。

 やっと、東京神学大学にも戻れましたが、実は、学生の間では結核患者が蔓延し、療養所帰りは危険人物と見なされ、牟礼の地にできた新しいキャンパスでは、医務室に隔離され、食堂でも特別なところに別におかれた食事を食べるようになり、療養生活を続けながら授業に出るようになりました。

 ちょうど、その後にわたしの母校ともなったハイデルベルク大学に学生牢が作られ、入牢させられた学生が、そこから講義を聞きに行ったような感じです。

 当時の医務室には2名一部屋で4名が隔離され、わたしは九州日南の西田隆義くんが一緒でしたし、その隣の部屋には、三枝佳奈さんの父上の三枝禮三先生と同じく北海道の函館出身の工藤親重(?)さんがおられたと思います。

 今の学生諸君が手にとって見たこともない鉱石ラジオを組み立てて、息を潜めてその徴かな音に聞き入り、わずかな楽しみを見出していたのはこの頃です。あまり皆のいるところには顔を出さないように、という御注意もあり、

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:2)

と言った苦難の僕の心境をちょっぴり味わったように感じたのもこの頃でした。このころの同病の仲間たちには、亡くなった松井稔、竹井剛くんの父上、竹井祐吉、退学して進路を変更しましたが、Cコースで教師となり、北海道で郷里伝道に献身している能美敏彦、東京の下町で二度目の開拓伝道に取り組んでいる大塩清之助牧師などです。

 神がこの時代の欠け多い者たちをどのように憐れんで伝道に用いておられるかは驚くぱかりです。いずれにせよ、隔離、病気療養ということと無関係にわたしの神学生時代を到底考えることはできません。この時代に、大きな出来事としては母教会が教団を離脱したということでした。

 わたしに洗礼を授け、この大学に推薦をしてくださった麻生信吾先生は、わざわざ医務室まで足を運こび一緒に教団を離脱するようにお勧めくださいました。

苦しい選択でした。

わたしのエキュメニズムの背後にはこのような苦しい選択があったことを御理解いただきたいと思います。

 わたしはこの時、日本キりスト教団を選んだのです。このようなわたしが、似たような決断をされて教団に残られた北森嘉蔵先生の後任として千歳船橋教会に牧師としてのお招きを受けたことは不思議な神の摂理と言う他はありません。

 病気と共生しながらなされた勉学の中で、サークルとして関わったのは、‘教理研究会’と共に‘現代神学研究会’でした。

 後者は特に近代神学の研究を手分けして行い、その頃の修士(卒業)論文にはヘルマン(佐藤敏夫)、シュライルマッハー(加藤常昭)、トレルチ(高森昭)、カフタン(花房泉一)などが見えます。

 わたしは出席教会の牧師でもあった熊野義孝先生のお勧めにより、リッチルを取り上げました。

『神学』10、11号に連載されました。

 後輩の宍戸達牧師は、やはり、熊野先生の御勧めによってりッチルを取り上げています。佐藤敏夫先生はその研究の成巣を『近代の神学』でまとめていることはよく知られています。もう一つは、雑誌『セオロギア』の編集発行です。

 この当時は年4回発行され学生の研究発表誌としてそれなりの働きを果たしたと自負しています。

 たとえばデイダケー研究をめぐって、鷲山林蔵牧師と新約聖書の本文批評の第一人者である関西学院大学の蛭沼教授との論争を掲載できたこともあり、まだプルトマンの非神話化論が知られていなかった時代に、R・G・スミスの「非神話化とは何か」を翻訳紹介したのもわたしでした。

まさかこの時にはこれで博士論文を書くとは夢にも思いませんでしたが。

 しかし、この時代に経験した大きな出来事とはE・ブルンナー先生との‘出会い,でした。ブルンナーから学んだ人格主義は、彼がエリステイークと呼んだその弁証学的な関心、伝道神学的な関心と共に大きなものだったと言えましょう。

(わたしの八王子講演「基礎神学としてのキリスト教弁証学」を御参照ください)。

 このブルンナーとの出会いは、やがて、その後、チューリヒのフラウミュンスター教会で、その司式で結婚式を挙げていただくようになり、ヨーロッパ留学中のいわぱ親元となっていただくという形で展開しました。

 また、さらには、その帰国後には、ICUに助手、さらには講師として関わる機縁ともなっただけではなくて、修士課程修了後には、東京の下町(深川)で開拓伝道をする、という形で具体的な実を結ぷことになります。

 当時のICUの学生諸君はこの下町伝道を喜んで応援してくれたことも感謝に満ちた思い出です。1期生であった松永希久夫現学長は、学生たちと一緒にフランネルグラフを深川バタヤ部落の子供たちに見せてくださいました。

 会堂が小さいながらも出来、その借金も御返しした段階で、わたしはハイデルベルク大学神学部に留学することとなりました。

 最初の一年はWCCのエキュメニカル奨学金の支給を、とりわけファルツの領封教会から受け、二年目からはアレキサンダー・フォン・フンポルト財団の奨学金によって、

「ブルトマン解釈学におけるプロ・メー動機について」

書き上げられました。指導はギュンター・ボルンカム教授でした。教義学の教授の中ではとくにエドムント・シュリンクとは日夜接する機会があり、その著『エキュメニカル教義学』に結晶されたそのエキュメニズムを学ぶ貴重な機会をもったわけです。

 深川での開拓伝道の期間は、毎週1回通院を続けていましたが、留学に際して一切の処置を終わり、ただレントゲン写真をハイデルベルク大学病院に提出して健康管理を受けることを条件として、主治医のお許しをいただきました。

 留学中にはいろいろな先生方の訪問を受けましたが、その中でも、赤星先生は、ハイデルベルク大学医学部の特色を説明してくださり、医学博士であると共に、神学博士でもあった、もと西ドイツ大統領の父親、ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカーに注目することを教えてくださったことは、身体精神医学の主張者として今日のCMCCのことと重なって大きな意味をもつようです。

 いずれにせよ、この留学生活で結核との関係は一応終わったと言えましょう。ドイツでは、体重が大きく増加し、外見的にはたくましくなったかのように見えたわたしが、再び、病床に横たわるようになったのは、先ほども触れたように学長就任の2ヶ月後、1983年6月のことでした。

 その時、後任学長として、大学の危機を克服するのに最善を尽くしてくださったのが、松永現学長でした。その後、左近淑学長の急死の時も危機をあえて引き受けられたのも松永現学長であられたことを感謝をもって覚えざるをえません。

 その時のわたしの病名は、急性心筋梗塞、その発作で心臓の冠状動脈は、1本は100%詰まり、他の2本は25%〜50%詰まっています。

 入院、リハビリの半年後に秋から復学したわたしは、クリスマスの諸行事も終わって、暮れの12月30日の夜中、呼吸困難で東海大学付属病院の救命救急センターに救急車で担ぎ込まれることになりました。

急性心不全というのがその時の病名です。

 3ヶ月の入院生活の後、待ち受けていたのはNHKのラジオ放送の録音でした。とても代々木の放送センターまではうかがえない、とお断わりしたのですが、

「せめてお声だけでも残しておきたいから」

という金光ディレクターのお言葉に動かされ、自宅でイースター・メッセージを

「病床からのメッセージ」

と題して放送させていただきました。その時に申したことの要点は、

1)人は生きているのではなくて、生かされているものである。

2)キリストはどこに?どん底にあって、下から支えてくださるキリスト-キリストは

 ベッドの下におられる。

3)復活とは、いのちの交わりへの神の招きにほかならない。


といったことでした。全国から多くの反響をえたことも、望外の喜びでした。

 1980年代は、このような二度の緊急入院で、厳しい療養の生活を求められ、当時、牧師としての務めを託されておりました井草教会は、このような牧師の弱さを共に担うことによって、そのことを可能にしてくださいました。

 そのような配慮の中で、ようやく次第に行動範囲も広がり、ブラジルや、中国にもマイペースで訪問することも出来るようになった1990年代のはじめに、わたしはCMCCの創立に向けて心身共に無理をせざるを得ない事情が起こって、1991年11月に三たび緊急入院をすることになりました。

いつもそうなのですが、それは日曜日の夜中のことでした。

 今度は東京にいたものですから、榊原記念病院にかけつけました。救急救命センターでの診断では、またまた急性心筋梗塞でした。井草教会では会堂建築を企て、それに向かって全教会が一致して当たろうとしていた時が終わって、18年余の任期を終えることが許されたのです。

 伊勢原教会を経て思いがけない仕方で千歳船橋教会にお招きを受けて今日に至っています。

 長々しい、病気との付き合いを忍耐をもってお聞きいただいて恐縮しています。これらの病気とのさまざまな形の、しかしながら、およそ神学の学ぶ始めと共に一貫して続けられてきている病気との付き合いを通して、わたしは何を示されたと言えるでしょうか。

一言で申しますと、それは自分の

《無力さ》

ということです。救急車で、救急救命センターに運ばれますと、最初はストレチャーの上に寝かされて、絶対の安静を申しつけられます。この絶対の安静というのは、寝返りもしてはならない、程度の安静です。もう何もすることはありません。もちろん、呼吸はしていますから、まったく何もしていないわけではありませんが、殆ど何もしないことに限りなく近いと言えるでしょう。

 つまり、そこでは限りなく自分が無力だということが、自覚的に認識される状態だとも言えるでしょう。

 しかし、わたしは、そのような自分の無力を示されただけではありません。

 その無力の、まさしく、その場所で、それを担っているキリストの存在をも示されたのです。それは十字架のキリストだと言えましょう。

どん底に落ち込んだキリストの姿こそが、十字架のキリストであることに気がつかされたのです。

死というのはそのような無力の極みに他なりません。

 今日、死をどう受け止めるか、ということについて、被造物は有限な存在、つまり、死すべき存在である、という観点から、すべての人間の死をその被造性から受け止める理解から理解があります。

そこからは人間の死は自然現象であった、罪の払う値ではありません。

 現代神学はこの点において、混乱しているように思われます。ルターは、人間の被造性と有限性とが結びつけられるのは、人間の堕罪によることを指摘しています(『詩編90編講義』一金子晴勇訳『生と死について』創文社参照)。

他の被造物の死は自然死です。

 しかし、人間の死は罪への裁きなのです。神はもともと人間を無限のいのちをもつものとして創造されました。被造性と有限性とは原初では無関係だったのです。創世記5章のPの系図の年代表は、

アダム(930)、セト(912)、エノシュ(905)、ケナン(910),マハラルエル(895)、イエレド(962)、エノク(無眼?)、レメク(777)、ノア(950)と無眼を示唆する長寿です。

 これらの総和が86,400週であって、バビロニアの神官ベロッススのキッシュ創設の計算とか、ヒンズーの時間周期との関係を推測する者もおります。

 しかし、この系図は神はもともとエデンに住まわせた人間を無限な長寿において創造したことを、実に不十分な象微的な仕方で表現しようとしているに過ぎないのではないでしょうか。

 被造性が有限性、つまり、死と結びつくの堕罪以来なのであるとすれば、この死の解決に福音の一切がかかっているといえましょう。

 人間の無力の極みに、キリストを見いだすとき、そのキリストを指し示す時、死からいのちへの展望が開かれるのです。

 伝道の課題としての死とは、そのような死なのです。

 わたしは、この最終講義を一種の生前葬とは考えておりません。もし、できることならきちっとした葬儀をしていただきたいと願っています。葬犠のプログラムもできており、司式者もお願いしてあります。

ただ、このことだけは申し上げられるでしょう。今日はこの48年間を振り返るとのみ多かったと思います。

もう、後ろを振り返ることは止めたいと思います。

福音の光のもとでの死は、もう振り返ることを許さないからです。

わたしたちはお互いにそこから先を見ようではありませんか。

御静聴を感謝いたします。