夕日に赤く染まった教室。 そして、その夕日よりも赤く頬を染めてうつむく、制服姿の少女。 彼女が上目遣いにちらりと視線を送った先には、こちらも制服姿の少年が、緊張も露に立っていた。 遠く、グランドから運動部のかけ声が聞こえてくる。 少女は意を決して、真っ直ぐに少年を見つめた。 「好きです」 「……は?」 我ながら、相当に間抜けな顔をしているのだろう、と彼は思う。 今のだって、ずいぶん間抜けな返事だという自覚はあった。 少年の名は、深山直人。 ここ、晴空高校に通う二年生だ。 顔立ちも運動神経も人並み、勉強のほうは……控え目に言って、少し人並みより落ちる。バカがつくほどの飛行機好きという特徴こそあるけれど、決して人目を引く存在ではない。 その自己評価は、それほど的外れなものではないはずだった。 だから、誤解しようがないくらいストレートな好意の表現にも、喜びよりもむしろ意外の念が先に立って、それ以上の返事をできずにいる。 なにしろ、直人の目の前にいる少女の名は、綾小路澪。今、校内で最も人気のある女生徒の一人なのだから。 澪から手紙が届けられたのは、六月も半ばに差しかかろうかと言う、この朝のことだった。 早くに両親を亡くし、叔父夫婦の庇護の下、一人暮らしに近い生活を送っている直人は、遅刻寸前で教室に駆けこむことが少なくない。それが、珍しく余裕を持って教室に到着したのは、後になって思えばよくできた偶然と言えるのかもしれなかった。 「お、早いな、直人」 「別に、いつも通りだよ」 クラスメートの冷やかしに軽く言葉を返しながら、自分の席に着く。 そして直人はそれを見つけた。 机のなかに、ひっそりと忍ばされた、淡い藤色の封筒。 え、と思った瞬間、心臓が跳ねる。 さりげなく周囲の様子をうかがい、誰も自分に注目していないのを確認すると、ちらりと視線を封筒に走らせた。 間違いなく自分に宛てられたものだ。 思わず、教室のなかを見回す。 直人の様子をうかがい、笑ってやろうと待ちかまえている友人は……見当たらない。 時折、こういう茶目っ気を見せる従姉妹も、今は友達と話しこんでいる。 「…………」 直人は素早くその封筒をノートの間に押しこみ、ほどなく始まった長い長い一時間目を耐えた。 やがて、授業の終わりを告げるチャイムと共に、直人は教室を飛び出し、一散に屋上へと駆け上がる。 「落ち着け、どうせ誰かのいたずらに決まってるんだ……」 そう自分に言い聞かせながらも、「もしかしたら」という期待を抑えきれない。 ポケットから取り出すのももどかしく、封を切った。 便箋にはただ一行、「放課後、一−Cの教室で待っています」とだけ書いてある。その脇に、「澪」の署名。 「澪……?」 その名前から連想できる程度には、澪の存在を直人は知っていた。 今年、入ってきた一年生で、直人自身は見たことがないけれど、かわいいと随分な噂になっている。 まだ三ヶ月も経っていないというのに、学年の違う、しかも日頃その手の噂話に縁遠い直人の耳にまで評判が届くのだから、校内では相当な有名人だと言っていいだろう。 もっとも、校内の有名人という点では、直人も引けは取らない。 直人には、名字の同じ勇希という名の従姉妹がいる。 一人暮らしの直人の後見人を自ら以て任じる少女で、深山家(正確を期すために注釈をつけるなら「直人の」深山家)の家事のかなりの部分は、彼女がいなければ立ちゆかない。 一言で言えば「よくできた従姉妹」なのだけど、加えて勇希はショートカットの似合う「かわいい」と言ってまず文句の出ない顔立ちをしているし、スタイルも良い。性格も、好き嫌いを多少、表に出す嫌いはあるものの、さっぱりしていてつきあいやすかった。 そんな娘と子供の頃からずっと一緒に育ってきて、今年もクラスが同じだったりするほどの腐れ縁。加えて、家が隣同士で、日頃からなにかと面倒を見てもらっている。 要するに、「かわいい幼なじみ」なんて珍しいものに、直人は恵まれているわけだ。 多少のやっかみをこめて「絵に描いたような幼なじみ」と評されるのも、少しばかり尾ひれ羽ひれのついた噂が囁かれるのも、しかたないことだろう。 だから、澪が自分の名前くらい知っていたとしても、直人は驚かない。「どうせ例のろくでもない噂を聞いたんだろうな」と苦笑するくらいだ。 しかし、誓って面識はないし、呼び出されるような用件にも心当たりはない。 「俺を名指ししてきている以上、好きとか嫌いとかの話じゃないんだろうし……」 いささか情けないセリフだが、事実なのだからしかたない。 校内でも無数のチョコレートが飛び交った今年の二月某日、直人の収穫は、勇希が半ば強引に押しつけてくれた一つきりだった。 容姿、性格、その他を考えても、それほど「終わっている」わけではないにせよ、ろくにつきあいのない下級生が憧れてくれるほどのものが、直人にはない。 自信を持って断言してもいい。……そんな自信、欲しくはないけれど。 釈然としないまま教室に戻った直人を、クラスメートの白菊疾風の声が迎えた。 「どうしたんだよ、授業が終わるなり飛び出して。そんなにトイレ我慢してたのか?」 「そんなんじゃないよ」 ちらりと疾風の顔を見やりながら、直人は自分の席に腰を下ろす。 そう、この少し風変わりな友人なら、下級生からラブレターが届いたとしても、なんの不思議もない。 背も高いし、整いすぎていない「二枚目半」な顔立ちもいい感じだ。運動神経も良ければ、定期試験の五教科平均も常に八十点以上をキープしており、人当たりも良い。しかも、どフリー。 「……なぁ、疾風」 「ん?」 「綾小路澪って知ってる……よな?」 「知らないわけないだろ」 コホン、と軽い咳払いを一つ。 「綾小路澪。晴空高校一年C組。 容姿端麗、成績優秀、品行方正。 家は、なんとか流って茶道の家元。正真正銘、折り紙付きのお嬢様だ。 身長一五三センチ、体重四一キロ。 スリーサイズは七九−五八−八二」 べらべらと情報を垂れ流す疾風の口を、直人は唖然として眺めていた。 「……お前、どこからそんなの聞きこんで来るんだよ」 「どこからともなく」 しれっと言った疾風に、直人は冷たい視線を向ける。 「記憶力の無駄遣い」 「中間テストの日本史、俺の半分だったお前に、それを言う資格はないな」 「…………」 憮然とする直人に、「絵に描いたような幼なじみ」の片割れこと勇希が、笑みを含んだ声をかけた。 「それより、どうしたの、直人。なんか難しい顔して帰ってきたけど」 「……ん、いや、果たし状をもらっちゃって」 直人の答えに、勇希はきょとんとする。 「果たし状……? そりゃまた、ずいぶん古風なものをもらうね」 「差出人は?」 疾風の問いに、直人は投げやりに肩をすくめた。 「さぁね。一応、女の子みたいだけど」 勇希と疾風が目を見交わす。 そして二人は、野次馬根性丸出し、喜色満面の笑顔で直人の机に寄ってきた。 「なによ、なによ。『果たし状』なんて、謙遜しちゃってぇ」 「いや、違うよ、勇希ちゃん。こいつ、照れてるんだよ」 「あ、そっかぁ」 一応、声を潜める程度には気を使っているものの、面白がっているのは明らか……、と説明するまでもないだろう。 「……あのな」 勝手なことを言うな、と言いかけた直人に、二人は声を揃えて問いかける。 「で? なんて書いてあったの?」 「で? なんて書いてあったんだよ」 「…………」 「ね、教えてよ。誰にも言わないから」 「俺の口の堅さ、親友のお前ならわかってるだろう?」 「……こういうとき、日頃の行動が物を言うよな」 普段、からかわれてばかりの従姉妹と、都合のいいときだけの自称親友に、直人はささやかな反撃を試みる。 しかし……。 「なぁに、直人。あたしの言うことが信じられないっての?」 「ひでぇなぁ。心から心配してやってるってのに」 「なにが心配……」 弱々しい抗弁は、たちまちのうちにかき消された。 「ほら、疾風君だって、直人のことを思って相談に乗るって言ってくれてるじゃない」 「勇希ちゃんを信じられなくなったら、お前、終わりだろう」 「…………」 抜群の連携で、よってたかって非難され、二人ほどには口が回らない直人は黙りこむ。 だが、それはさらなる攻勢を誘うだけだった。 「あ、黙秘権!?」 「卑怯だぞ、直人」 もはやなにを言っても無駄と、貝のように口を閉ざす直人に、勇希がじと目でボソッと呟く。 「ご飯、作ってあげないよ」 「……!」 さすがに、いつもいつも勇希や彼女の母、つまりは叔母さんの世話になっているわけではない。 まだ試したことはないが、一人でも、栄養失調にならない程度に自分を養えるとは思う。 ……しかし。 どうせ食べるならおいしいもの、というのはこの世の真理だ。 つまり直人は、どうしようもない急所を、勇希に押さえられていることになる。 二人の幼なじみは常々、互いへの恋愛感情について明快に否定しているが、こんな関係を端から見れば「尻に敷かれている」としか表現のしようがない。癪だけど、直人にもその程度の自覚はあった。 渋々、直人は手紙の内容について白状する。 「放課後、教室で待ってる……って」 「……それだけ?」 訝しげな勇希に、直人は少し投げやりに頷いた。 「そう。他にはなにも書いてない」 実を言えば、文面自体は隠さなければいけないほどのものでもない。 しかし、疾風は要点を忘れていなかった。 「でも、女の子からなんだろう?」 「……と、思うけど」 苦い顔で頷く直人の肩に、疾風はポン、と手を乗せる。 「だったら、用件は決まってるじゃないか」 「そうだよねぇ〜」 にんまりと笑って、勇希は直人の顔をのぞきこんだ。 「それで? お相手は?」 「……綾小路澪、かな?」 その答えに返ってきたのは、冷たい視線と白けきった沈黙だった。 「…………」 「…………」 我がことながら、そのリアクションには納得する。とはいえ、本当のことだから、弁解のしようもない。 すると二人は急に立ち上がり、まるで何事もなかったかのように、世間話など始めてみせた。 「疾風君、リーダーの宿題、やってきた?」 「あぁ、やってきたよ」 「今日、あたし、当たるかな? この前、誰で終わったっけ?」 「えぇと、確か……」 「お前ら、信じてないな?」 わざとらしいやりとりを直人が遮ると、即座に勇希が冷たい返事を返す。 「そのハテナマーク、いらない」 そして二人はまた屈みこみ、声を潜めた。 「直人ぉ、見栄張りたい気持ちはわかるけど、もうちょっと考えて物言いなよ。うちのえっことか、弓道部の高原さんとかなら、まだ現実味あるけどさ……」 勇希の言う「うち」は、自分が所属する馬術部のことだろう。しかし、あいにく直人に「えっこ」と呼ばれる女の子に心当たりはない。 その代わり、「弓道部の高原さん」なら知っている。黙っていれば、とっつきづらいほどの美人なのに、少しばかり品のないジョークも平気な顔で口にする、気さくで人なつこい娘だ。当然、人気もある。 直人は首を捻った。 可能性の低さを言うなら、綾小路が高原でも五十歩百歩のような気がする。 しかし、疾風も勇希と同意見のようで、腕組みをして深く頷いた。 「よりによって綾小路はないだろう」 「言いたいことはわからないでもないけどさ……。他に誰か『澪』って名前の女の子に心当たり、あるか?」 「…………」 「…………」 勇希と疾風は互いの顔を見合わせる。 ようやく、直人が見栄や冗談で澪の名前を出したわけではない、と悟ったらしい。 「『澪』って書いてあるの? 本当に?」 「うん。もしかしたら、他にも『澪』って名前の女の子がいるのかもしれないけど……」 「いや、それはない」 自信たっぷりに疾風が断言した。 「今、校内に『澪』という名前の女の子は、綾小路澪ただ一人だけだ」 「……根拠は、聞かないほうが良さそうだな」 「そうだね。怖い答えが返ってきそう」 勇希は引きつった笑みを浮かべ、「でも」と言葉を継ぐ。 「あたしも、『澪』って名前の女の子に、他に心当たりはないなぁ」 「うーん……」 直人は首をひねった。 仮に本人だとしたら、それこそこんな手紙をもらう理由が思いつかない。 「……となると、彼女の名を騙ったイタズラ……というのが、一番ありそうな線かな?」 最初の推測に逆戻りしたわけだけど、結局、それが一番可能性が高いように思える。 疾風も頷いた。 「そうだな。綾小路と言えば、直人でさえ名前を知ってるくらいなんだ。餌にするには最適だよ」 「俺『でさえ』って、なんだよ」 「細かいこと気にするなって」 「細かくない。……まぁ、とりあえずこれは」 言いながら封筒に手を伸ばしかけてやめ、 「シカトしたほうがいいのかな」 「そうだな。まかり間違っても、本物ってことはないだろうし」 「……それ、どういう意味だ?」 男二人が半ば結論づけた横で、勇希は首を傾げる。 「でも、誰が?」 「え?」 「あたしでも疾風君でもないとしたら、直人をからかうために、そこまで手のこんだことをするのって、誰だろ?」 「いや、それは……」 「なぁ……」 顔を見合わせる二人に、勇希は言葉を重ねた。 「それに、直人を引っかけるつもりなら、あたしの名前を使うんじゃない?」 「うーん……」 直人は思わずうなった。 二人を冷やかす声がかけられるのは、クラスでは日常茶飯事だ。担任からして、二人を夫婦呼ばわりする。 直人をからかうつもりなら、全く縁のない澪を担ぎ出すより、勇希の名を騙るほうが遙かに効果的なのは確かだ。 それに、署名が「澪」でなく「勇希」だったなら、「なんの用だろう?」と訝しみながらも、とりあえず出向いたと思う。当然、直人が引っかかる確率も、そのほうがグッと高くなっただろう。 わざわざ澪の名を持ち出すのは不可解だという意見には、説得力があった。 「じゃぁ、あれは……?」 「わかんない。けど……」 一度言葉を切り、勇希はいたずらっぽく笑った。 「もしかしたら、本物かもよ」 「……おい。さっき、現実味がないって言ったのは誰だよ」 「うん。ないと思う」 あっさり頷く勇希に、直人は憮然とする。 勇希はクスリと笑って、軽く手を振った。 「だけど、万が一ってこともあるじゃない。ほら、世の中には、宝くじで一等当てる人だっているんだから」 「……そこまで珍しいことか?」 「違うって言える?」 恨みがましい目を向ける直人に、勇希の声音が一転、柔らかな響きを帯びる。 「本人とは限らないけどさ、差出人は本当に女の子かもしれないよ」 「……?」 「綾小路さんには引っ込み思案な友達がいて、その娘のために、直人を呼び出すことに協力してる……とかね」 今時そんな話があるのだろうか。仮にあったとしても、その対象が自分というのは、ちょっと考えにくい。 疑わしげな直人の視線を受け、勇希は笑ってみせた。 「『もしも』の話だよ。だけど、そうだったら、行ってあげないとかわいそうでしょ? 誰かのイタズラだったらさ、『あぁ、やられた』って笑ってればいいじゃない。そんな、ひどい恥かくわけじゃないんだし」 「そりゃ、まぁ……」 ばりばりに期待して行ったらバカみたいだけど、そうじゃないことは、少なくともここにいる二人は知っている。 「試しにちょっと、顔だけ出してみたら?」 「そうだぜ、直人。女の子を傷つけちゃいけないな」 「……お前、さっき俺の意見に賛成しなかったか……?」 「臨機応変な対応が売りでね」 澄まして言う疾風を軽く睨み、直人は椅子の背に体重を預けた。 そんなに都合のいい話があるわけがない。だけど……。 チャイムが鳴り、自分の席へ戻る前に、勇希はにこりと微笑んだ。 そして迎えた放課後。 部活に行く級友達が出払い、帰宅部組が教室を離れるのを待って、直人は手紙に書いてあった通り一−Cの教室を訪れた。 こちらにも、人影はほとんどない。たった一人、窓辺に立ってグランドを見下ろしながら、そわそわしている女の子を除いては。 まさか、と思うより早く、気配を察して少女が振り返る。 その瞳が、直人の姿を認めて輝いた。 「深山先輩……! 来てくださったんですね」 緊張を隠せないその声は、しかし、首筋にくすぐったさを感じさせるほど甘い。 「ん、あぁ、いや、その……」 曖昧に言葉を濁しながら、今さら立ち去るわけにもいかず、直人は教室に足を踏み入れた。 「えぇと、俺に手紙をくれたのは……?」 「はい……! 私です……!」 感激の面持ちで小さく頷く少女に、直人は思わず目を奪われる。 そして悟った。 彼女こそ、噂の綾小路澪その人なのだと。 澪にのぼせたクラスメートが、「天使のようだ」とか「あんなにかわいい娘、見たことがない」と言うのを聞いたことがある。 なにを大げさな、と思っていたけれど、実際に本人を目の当たりにしてみると、それが実はずいぶん控え目な表現だったことがわかった。 二重瞼のぱっちりした目は、濡れたように光っている。鼻筋は嫌みにならない程度に通っていて、形の良い唇は薄い桜色をしていた。髪は肩までの艶やかなセミロング。耳の辺りから左右一房ずつ、リボンを巻きつけてアクセントをつけている。まだ少し全体に幼さが残るものの、ほどなく、とんでもない美少女からとんでもない美人になるのは、誰の目にも明らかだった。 「綾小路澪さん……だよね?」 一応、確かめる直人に、はい、と少し照れたように澪は頷く。 「突然、お呼び立てして、申し訳ありません」 「……いや」 短くそう答えるのが精一杯だった。 「……ウソだろう。あの手紙が本物で、しかも、本当に差出人が綾小路澪本人……?」 呆然とする直人をよそに、澪はしばらく一人で百面相をしていた。 照れて、決心しかけて、躊躇って、直人をじっと見つめたかと思うと、目を逸らして。 もちろん直人には、それを楽しむどころか、冷静に観察する余裕すらない。 イタズラだと決めてかかっていたのに、まさか本当に女の子の呼び出しだったなんて。 しかも相手は、噂に違わぬ……どころか、大げさとさえ思えた噂すら色あせる、かわいらしい女の子。 その上、そういうことには疎い直人にすら明白なくらい、素振りの端々に好意をにじませて。 狼狽える直人と、踏ん切りのつかない澪。 二人の間に流れるいたたまれない空気に、澪が愛想笑いを浮かべた。 「あ、暑いですね」 「……そうだね」 「…………」 「…………」 やがて澪はきゅっと唇を結んで、直人を見上げる。 「……あの」 来る、と直人は精神的に身構えた。 なにを言おうとしているのか、大体想像はつく。 聞きたい。 でも、心のどこかが大声で「聞くな」と叫んでいる。 そんな直人の葛藤にはお構いなしに、澪はごくシンプル、かつストレートに告げたわけだ。 「好きです」 「……ウソみたいだ……」 その夜。 直人は一人、二階にある自室のベッドに寝転んで、澪が渡してくれた封筒を、ためつすがめつしていた。 驚き、慌てる様子をどう誤解したのか、澪は直人の手にそれを押しつけると、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。 「かわいかったよな、本当……」 顔立ちはもちろん、顔を真っ赤にして恥じらう様子は、思い出すとこちらまで赤面してきてしまう。 「勇希なんか、つきあい長いから、お互い気安いもんな。一緒にいても、全然緊張しないって言うか、一緒にいて当たり前って言うか……」 女の子のことになると、つい隣に住む従姉妹が基準になる。 疾風はきっぱりと「間違ってる」と断定するけど、それは直人にとってごく自然なことだった。 勇希なら、手紙を書くなんて遠回りなことはしないだろう。多分、晩ご飯の支度でもしながら、「あたしさ、なおちゃんのこと、好きだよ」なんて具合に、あっけらかんと……。 頭に浮かぶその場面を、直人は慌てて振り払う。 「なに考えてんだよ、俺は……。大体、なんで勇希が俺に……」 だけど、それは妙にリアルな想像だった。 最近は、だいぶ使われることが減った呼び名さえ、目を閉じれば耳に響きそうな気がする。 「バカバカしい……。やめやめっ!」 勢いよく身体を起こして幼なじみの幻想を頭から追い出し、直人は何度読み返したかわからない手紙に、もう一度目を落とした。 「拝啓。初夏の候、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます」 「これ、ラブレターか、本当に……?」 読む度に、最初は面食らう。とはいえ後に続く内容は、高一の女の子が書いたにしては少しばかり古風な出だしとは裏腹に、強烈に甘いものだった。 自分がいかに直人のことを慕っているかを、あらゆる表現を駆使してしたためていて、免疫のない直人には、一行読み進めるごとに頬の熱が一度上がるのではないかと思えるほどだ。 そして、まぁ、平たく言えばつきあってほしいと、そう結ばれている。 直人の脳裏に、澪の姿が鮮やかに蘇った。 愛らしい顔立ち、ほっそりした華奢な身体つき。抱き寄せたら、腕のなかにすっぽりと収まってしまうだろう。そして、あの甘い声で「直人」なんて囁かれたら……。 その妄想を、チャイムの軽やかな音色と、聞き慣れた声が遮った。 「直人ー」 思わず直人は飛び上がる。 なんだか、考えていたことを全部、見透かされたような気がした。 とっさに手紙を枕の下に隠すと、ベッドから飛び降り、だらしなく緩んでいる頬を慌てて引き締める。 もちろん、玄関先の勇希に、自室の直人の表情が見えるわけもないのだけれど。 それから、深呼吸をしながら、ことさらにゆっくりと階下へ降りた。 努めて冷静を装いながらドアを開ける。 「なんだ?」 「あのさ、英語の辞書貸してくんない? 学校に置いてきちゃって」 そう答える前に一瞬、勇希が自分の表情をうかがったことに、直人は気づかなかった。 だけど、勇希の用事に察しはついている。 「素直に『手紙の差出人は?』って聞けよ」 「あ、バレた?」 勇希は小さく舌を出した。 「鏡、貸してやろうか?」 「なにそれ」 「好奇心いっぱいって顔してるぞ」 勇希は軽く頬を膨らませる。 「好奇心って……。そんなんじゃないよ。せっかく、慰めにきてあげたのに」 「慰め……?」 そう聞き返すより早く、勇希は芝居っ気たっぷり、右の拳に左手を添えて胸に当て、目をつむってみせた。 「かわいい女の子からラブレターもらったと思ったのに、実はイタズラだった。きっと、直人の繊細な心は傷ついて、助けを求めているはず。あたしが行って、慰めてあげなくちゃ。あぁ、なんて優しい勇希ちゃん」 「誰が繊細で、誰が優しいんだか……」 苦笑して踵を返す直人の後ろ、当たり前のように勇希は上がりこむ。 ちゃんと事情を聞くまで、帰るつもりはないらしい。 しかたなく、直人は足を一階の居間へと向けた。 どの道、この家には直人しか住んでいないのだから気にしても始まらないのだが、自分の部屋で勇希と二人きりになるのは、少しバツが悪い。 「で? やっぱり、イタズラだったんでしょ?」 「まぁね。傷ついた。慰めて」 おどけて言ってソファに腰を下ろす直人の顔を、勇希がのぞきこむ。 「……直人?」 「ん?」 「…………」 「なんだよ」 「……女の子からだったんだね」 「女の子からだったの?」でも、「女の子からだったんでしょ?」でもない。わかりきったことを確かめる口調だった。 唖然として、直人は勇希の顔を見返す。 長いつきあい、最後まで隠しおおせるとは思っていない。それにしたって、たったこれだけのやりとりで見抜かれるとは、予想外だった。 「……最初からわかってたのか?」 「うぅん。直人の顔見て、そうかなって」 「なんで、顔見ただけでわかるんだよ」 ため息混じりの返事に、勇希は困ったように眉を寄せる。 「なんでって言われても……。なんとなく」 「なんとなく、ね……」 苦笑する直人に、勇希は珍しく遠慮がちに尋ねた。 「聞いても……いい?」 直人の苦笑が微笑に変わる。 普段はうるさいくらいお節介なくせに、こういうときは神経質なくらい気を使う、勇希のそんなところが嫌いではなかった。 直人は意識してさらりと告げる。 「本人だったよ」 「え……」 「綾小路澪、本人だった」 「えぇーっ!? ウソ!? だって、あたし、一度見たことあるけど、すっごいかわいい娘だったよ!?」 目を丸くする勇希に、直人は少しだけいい気分で答えた。 「うん、まぁ、噂になるだけのことはあるよな」 「ストレートのセミロングで、ちょっと小柄な娘でしょ?」 「そうそう」 「……エイプリルフールは、二ヶ月以上前に終わってるんだけど」 「……言うことはそれだけかい」 「だって……」 「しょうがないだろ、本当のことなんだから」 直人は、少し険のある口調で、勇希の言葉を遮った。 勇希の言いたいことはわかる。実際に澪をこの目で見た今、昼間の勇希や疾風の態度も納得できるし、信じろと言うほうが無理なのも実感した。しかし、呼び出されて手紙をもらったのは事実だし、話が話だけに、軽く扱ってほしくない。 「……うん」 勇希は小さく頷いた。 少し悄気ているようにも見える。 そんなに強く言ったつもりはないけれど、ちょっと言い方がきつかっただろうか。 直人は軽く笑ってみせた。 「いや、実は、俺も未だに信じられないんだけどさ」 「そ、そうだろうね」 勇希も笑顔を浮かべるものの、どこかぎこちない。 それでも、いつものように冗談めかして、身を乗り出す。 「それで、それで? なんて言われたの?」 「バ、バカ、そんなこと言えるわけないだろ」 「へぇーっ、そうなんだぁ。言えないような、嬉しいことを言われちゃったんだ」 「そういうわけじゃ……」 否定しようとした瞬間、「好きです」という澪の言葉が脳裏をよぎった。 思わず言葉に詰まる。 「あ、やっぱり」 「う、うるさいなー。いいだろ、放っといてくれよ」 そっぽを向く直人の横顔に、一瞬、勇希は複雑な表情を浮かべた。 それでも、強いて明るい声を出す。 「良かったじゃない。あたしの言うこと聞いといて、正解だね」 「……まぁな」 「感謝してよ。あんな……かわいい彼女ができたのは、あたしのおかげなんだから」 「え……」 思わず振り向いた直人の視線から逃れるように、勇希は窓の外に目をやった。 「ま、でも、これであたしも少し、直人の世話から解放されるのかな」 「勇希……?」 「……手のかかるやつだけど、それはそれでちょっと……」 その後に続く言葉を飲みこみ、勇希は直人に笑ってみせる。 「娘を嫁に出す父親の気分ってやつかもね」 「な、なに言ってんだよ」 「アハハッ、照れない、照れない」 「違う! そんなんじゃない!」 勇希が驚いて笑顔を引っこめた。 なぜそれほど強い口調で否定したのか、自分でもわからないまま、直人は言葉を継ぐ。 「……あんまり先走るなよ」 「えっ……?」 「確かに、手紙はもらったけどさ。そしたら、あの娘、すぐに帰っちゃって……」 「帰った? なんで……?」 「知らないよ、そんなの」 「……それで?」 「それでって……、それだけ。一応、手紙のほうは読んだけど」 「……なにそれ」 アハ、と小さく勇希は笑った。 「わざわざ呼び出されて、手紙を受け取っただけ?」 「うん」 「……バカみたい」 「そうかも」 「…………」 「…………」 ぷっ、と勇希が吹き出す。 そのまま、身体を二つに折って笑いだした。 「アハ、アハハ、アハハハハ……」 「な、なんだよ……。そんなに笑うことないだろ」 不満げな直人をよそに、勇希は笑い転げる。 なにがそんなにおかしいんだか、と少し戸惑いながらその様子を眺めるうち、思わず直人は声をあげた。 「お、おい、勇希。お前、なに泣いてるんだ」 「えっ? あ、やだ、本当だ」 言って、勇希は目尻を拭う。 「笑いすぎちゃった」 「涙が出るほど笑うことかよ……」 呆れる直人に、勇希は照れ笑いを向けた。 「そうだよね。でも、なんか、ハマっちゃって……」 「人の不幸を笑いやがって」 「不幸じゃないでしょ。学校一の美少女から、ラブレターもらったくせに」 「…………」 「謎だよね。なんで、あんなかわいい娘が直人なんかを……」 すっかりいつもの調子に戻って、勇希は腕組みをする。 意識して直人はそれに合わせた。 「いや、それは否定しないけど、『直人なんか』って、ちょっとひどくないか?」 すかさず勇希が切り返してくる。 「逆の立場だったら、同じことを言うくせに」 言われて直人は、勇希の言葉をひっくり返してみた。 なんであんないい男が、勇希なんかを。 「……確かに言いそう」 「ほら」 「でも……」 「でも?」 今さら勇希のことを女の子として意識しろと言われても、急には難しい。 だけど、客観的に見ればそれは決して不思議な話ではないことは、直人にもわかっていた。 「黙ってれば結構かわいいし、お節介だけど面倒見はいいし、手は早いけど気を使わなくていいし……」 心のなかで指折り数え、思わず苦笑する。誰に言うわけでもないのに、どうしても素直に褒めることができない。つい余分な但し書きをつけてしまうのは、我がことながら、どうかと思う。 「なぁに、人の顔見てにやにやしちゃって」 「悔しいから言わない」 勇希はじっと、横を向いた直人の顔を見つめ、微かに頬を緩めた。 「悔しがることはないと思うよ」 「……どういう意味?」 振り向いた直人に、勇希はいたずらっぽく笑ってみせる。 「癪だから言わない」 「ちぇっ」 再びそっぽを向いた直人に、勇希は含み笑いをもらした。 「お互い様ってことだよ」 笑顔を作ったまま、勇希の頬に微妙な翳りが落ちる。 「だって、そうでしょ?」 「え?」 「綾小路さんの用事。……そういうことなんでしょ?」 直人は答えなかった。 なにも言わなければ、それは肯定の返事になる。それに、今さら隠そうとしたって、無駄なことはわかりきっていた。 だけど、それでも、認めることに躊躇いがあった。 勇希は、答えないままの直人の横顔を少し見つめ、ふいと立ち上がって窓辺に歩み寄る。 「……どうするの?」 「どうって?」 「返事。そのままにしとくわけにはいかないでしょ?」 「うん……」 直人は曖昧に言葉を濁した。 だけど、勇希は黙って返事を待っている。 迷った末に、直人はほとんど無意識に……あるいは習慣的に、逃げを打った。 「……どうしたらいいと思う?」 答えはない。 そのことで、勇希が望んでいた言葉ではなかったのがわかる。 だけど、一度口にしてしまった問いをそのままにしておくと、ますます気まずくなるような気がして、直人は言葉を重ねた。 「なぁ、勇希」 「……なんであたしに聞くのよ」 やっと返ってきた返事も、どこか拗ねているような響きが隠せない。 「なんでって……」 「それは、直人の問題でしょ。あたしが口出しする筋合いじゃないよ」 「そりゃそうだけど……」 直人はわずかに不満を抱いた。 その微かな不快感がどこから来るのか確かめないまま、聞こえよがしにため息をつく。 振り向きかけてやめ、視線を窓の外に向けたまま、勇希は聞き返した。 「直人はどうしたいの?」 「わかんないよ」 「わかんないわけないでしょ」 「わかるわけないだろ。ろくに話したこともないんだぜ? なんで俺を気に入ったのか、心当たりがないよ」 「そうじゃなくて」 勇希の声に苛立ちが混じる。 「あの娘がどう思ってるかじゃなくて。『直人は』どうしたいの?」 「どうって……」 「手紙、読んだんでしょ? 嬉しかったの、嬉しくなかったの?」 「そりゃぁ、まぁ……」 嬉しくなかったはずはない。 あんなにはっきりと女の子から好意を示されたのは初めてだ。 それに澪は、評判以上にかわいい女の子だった。少し話しただけだが、性格も悪くはなさそうに思える。 自分で言うのもなんだけど、こんなチャンスはもう一生来ないかもしれない。 しかし、それを口に出せずに言葉を濁す直人に、勇希はなおも言い募った。 「まぁ、なによ」 「……突っかかるなよ」 「突っかかってないよ。直人がわかんないって言うから、はっきりさせようとしてあげてるんじゃない」 もう、不機嫌さを取り繕うこともできないほど尖った勇希の口調に、直人はようやく我に返る。 まずい。このままだと、ケンカになる。 直人は強いて笑みを浮かべた。 多少、引きつってはいるものの、意図は通じるはずだ。 「よそうぜ。ケンカするようなことじゃないだろ」 「誰もケンカなんかしてないでしょ」 「いや、だから、このままじゃケンカになりそうだから……」 「なに? あたしがケンカ売ってるって言いたいの?」 「そうじゃないよ。……ごめん。勇希の言う通りだ。これは、俺の問題だもんな。自分で決めなきゃいけなかったんだ」 直人が頭を下げると、勇希は悔しそうに唇を噛み、絞り出すように呟く。 「……そんなこと、言ってるんじゃないよ……」 「えっ?」 聞き返す直人を、勇希はキッと睨みつけた。 「知らないよっ! 直人なんか、誰とでも勝手につきあえばいいじゃない!」 叩きつけるように言い、憤然と身を翻す。 その勢いに飲まれ、呆然としている直人の耳に、乱暴に玄関のドアが閉められる音が響いた。 直人は困惑する。 なんで、そんなに怒るのだろう。自分は、なにか悪いことを言ったのだろうか? 確かに、完全に個人的な問題で、勇希に相談するのは筋違いだったのかもしれない。しかし、これまでも、困ったときは勇希のほうから力になろうとしてくれていたのに。 「なんだよ……」 渦巻く疑問を頭から閉め出して、ようやくそう呟いたのは、「隣」という言葉から連想するには少し遠い勇希の家へ、彼女がたどり着くのに十分な時間が過ぎてからだった。 直人は身を起こし、ため息をつく。 「はぁ……。本っ当、女ってわかんねぇ……」 綾小路澪はもちろん、家族同然に育ってきた勇希でさえ、こうなのだ。 直人はもう一度ため息をつき、自室へ引き上げた。緩慢な動作でベッドに寝転ぶ。 先ほどまでの浮かれた気分がウソのように、胸になにかがつかえていた。 澪からの手紙を枕の下から引っ張り出し、蛍光灯の灯りにかざす。 「好きです……か」 直人はそっと手紙を机の上に押しやった。 今は澪のことより、勇希のことが気にかかる。 話の内容を最初から順番に思い返してみた。 冗談交じりに切り出してはきたけど、「慰めに来た」というのは本当だったと思う。そして、直人が澪のことを話して……。 「…………」 今になってみると、なんだか最初から勇希の様子は変だったような気がした。 いつもと同じように明るく振る舞ってはいても、どこか無理をしていたような印象が残っている。さして面白いとも思えないことで、涙を流すほど大笑いして……。もともと喜怒哀楽ははっきりしているほうだけど、それにしても、随分と浮き沈みが激しくて、なんだか不安定だった。 理由はわからない。 「勇希は、なにが気に入らなかったんだろう……」 本当は、わからないのではなく、わからないフリをしているだけ。自分自身に対してさえ、ウソをついているだけ。 そんな自分に気づくことなく、直人は、心のどこかで知っている答えを求めて考えを巡らすうち、いつしか眠りに落ちていった。 翌朝、教室に着くなり、疾風がにやにや笑いながら声をかけてきた。 「直人〜。あの手紙、本物だったんだって?」 「……勇希に聞いたのか?」 「いや。お前に聞けって。だけど、いたずらだったらそう言うだろうし、それをわざわざ『直人に聞いて』って言うからには、そういうことなんだろうと思ってさ」 疾風の問いには答えず、直人は勇希の姿を探す。 教室の前の方で、数人のクラスメートと談笑していた。特にいつもと変わった様子はない。 だけど、ちょうどそのときチャイムが鳴り、席に戻ろうとした勇希と目が合う。いつもなら微笑と共に小さく手を振ってくれるところで、しかし、勇希は「フン!」とばかりに顔を背けた。 笑顔を作りかけた直人の表情も、中途半端に固まる。 足音も荒く席に着く勇希に、疾風は声を潜めた。 「おい、また夫婦ゲンカか?」 「お前もしつこいな。俺達は夫婦じゃなくて、いとこだっての」 「それはそれとして……。なんかしたのか、お前?」 「……いや、わかんねぇ」 直人はため息混じりに答え、勇希が様子を見に来てくれたときのことを、ごくかいつまんで説明する。 「ふぅん……」 疾風が曖昧に頷くのと前後して、担任が姿を現した。 二人はそれぞれの席に着く。 その間、勇希は一度も直人の方を振り返らなかった。 結局、その日一日、直人は勇希とまともな話ができなかった。 休み時間になれば、「勇希」の「希」の字が直人の口から発せられたときにはもう、教室のドアに手をかけている。 昼休みは、友達と一緒に出ていったきり、授業ぎりぎりまで戻らない。 帰りのホームルームが終わった後にようやくつかまえたものの、怒りを満々とたたえた瞳でじろりと睨みつけられ、直人はすごすごと退散するしかなかった。 「俺がなにしたってんだよ……」 ぼやきながら階段を下り、二階と一階の間にある踊り場に差しかかったとき、直人の背に遠慮がちな声がかけられる。 「あの、深山先輩……?」 振り向くと澪が、嬉しさと気恥ずかしさと期待と不安と、そんないろいろな気持ちを詰めこんだ笑顔を浮かべていた。 少し息が弾んでいるのは、もしかしたら、直人を追って走ってきたせいなのかもしれない。 「綾小路さん……」 「今、帰りですか?」 「あぁ、うん」 直人の答えを受けて、澪はニコリと微笑む。 その笑顔は春の陽射しのように温かで、しかも輝いていた。 一瞬、勇希のことも、それどころか昨日、彼女自身からもらった手紙のことすら忘れて、直人は呆けたように澪の顔に見惚れる。 ストレート過ぎる見つめ方に、澪は照れたように眉を寄せた。 「あの……」 「え? あ、あぁ、ごめん」 直人は自分の間抜けさ加減を自覚して、無理矢理に引きはがした視線を足下に落とす。 「いえ……」 小さく首を振る澪に、盗むようにちらりと目を向け、直人は胸中で感嘆の吐息を漏らした。 誇張抜きで、こんなに綺麗な女の子をこんなに間近で見る機会は、高校を卒業したらないかもしれないとさえ思う。 場違いな感想が伝わったわけでもないだろうが、澪は居心地悪そうに身じろぎし、それで直人はようやく自分が口にすべき言葉に気づいた。 「あ、えーと……。今、時間、平気?」 「はい、少しなら」 「うん、じゃぁ、ちょっとその辺まで」 直人の不器用な誘いに、澪は再度、顔をほころばせる。 考えるまでもなく、澪の用件は明らかで、そのことになかなか気づかない自分は「鈍感」ないし「気が利かない」と評される人種なのだろう。 そう思って苦笑する直人の顔を、澪が不思議そうにのぞきこんだ。 「あの、どうかしましたか……?」 「なんでもないよ」 それから校門を出るまでの、そう長くもない時間、直人は身の細る思いをした。 あの綾小路澪が、男と連れだって歩いている。しかも二人で。まして、その男が(本人達は否定しているにせよ)有名なカップルの片割れ。 驚愕、好奇心、嫉妬、様々な色合いをした視線が自分と澪に注がれているのを、痛いほど感じる。 足早に校門をくぐり、逃げるように学校を離れ、周囲から晴空高校の制服姿が見えなくなってようやく、直人はホッと息をついて歩調を緩めた。 澪はと見やれば、三歩下がってついてきている。 目が合うと、小首を傾げてニコリと笑ってみせた。 注目されるのには慣れているのだろうか、特に気にしている様子はない。 直人はげんなりした気分のまま呟く。 「……よそう」 一度、口にしてしまうと、澪への答えが自分のなかで既に用意されていたことに、直人は気づいた。 え、と聞き返す澪から視線を逸らす。 「家の近くにさ、泉があるんだ。まだ少し歩くけど……。そこまで行こう」 「はい」 もう、その返事で自然に脳裏に浮かぶほど、澪の笑顔は強い印象を残していた。 自分はこれから、その笑顔を曇らせなければいけない。 そう思うと、気が沈む。 直人は懸命に理由を探した。 ……そう、この娘のことを、自分はほとんど知らない。 かわいいのは認めるし、正直、ちょっともったいないかも、という気はする。 だけど、昨日今日、初めて話をした女の子とうまくやっていける自信はない。 だからつきあってみるんじゃないか、という考え方もあるらしいけれど、自分にそんな器用なマネはできない。 それで結局「合わないな」と思って別れることになれば、期待を持たせる分、余計に彼女を傷つけるだろう。 それに、告白されて嬉しいからって、それだけでOKしてしまうのは、この娘に対しても失礼な気がする。 なにより、今はバイトで忙しい。 「……そうだ、夏休みに入ったらULPの講習を受けに行かなきゃいけないんじゃないか。他のことに目を向けてる余裕なんか、あるはずがないんだ……」 直人は自分を納得させる、格好の口実を見つけた。 ULP、略さずに言うとウルトラライトプレーン。超軽量動力機と訳されるそれは、一言で言うなら、なにもかもが極めてシンプルな飛行機だ。 その操縦資格は、十七歳になれば取ることができるようになる。 あと一週間ほどで十七の誕生日を迎える直人にとって、目下のところ最大の関心事は、ULPの飛行資格を得ることだった。 そのために、叔父夫婦を説得し、バイトでお金を貯めるなど、準備を整えている。 あれこれ考えを巡らす直人の沈黙をどう解釈しているのか、澪もまた黙って後をついてきた。 ほどなく、二人は目的地に到着する。 直人の家と勇希の家からほぼ等距離にある、木立に囲まれた小さな泉。 「わぁ……。素敵なところですね」 直人の「あぁ」とも「うん」ともつかない曖昧な返事には構わず、澪は水辺に屈みこんだ。 手をそっと泉に浸し、「冷た〜い」と直人に笑いかける。 直人が頷き返すと、澪は手を振って水を払い、ハンカチを取り出した。 ……今なら、言える。 その背に向けて、直人はわずかに声に力をこめた。 「手紙、読んだよ」 澪の後ろ姿がわずかに強張る。 「……はい」 直人は小さく息を吸いこみ、一気に吐き出した。 「悪いけど……。他を当たってくれ」 ぶっきらぼう……あるいは乱暴とも取れる表現が、つい口をつく。 誤解の余地がないことくらいしか取り柄のない、ストレート過ぎる言葉を、直人は澪にぶつけた。 「…………」 華奢な肩が震える。 静かな湖面に、押し殺した嗚咽が広がった。 覚悟はしていたけれど、泣かれると罪悪感が直人を苛む。 だからと言って、逃げ出すわけにもいかない。 しばし、直人は無言の責め苦に耐えた。 「……やっぱり、噂は本当なんですね」 やがて澪は立ち上がり、涙に濡れた瞳で無理に笑ってみせる。 「……噂?」 「友達には止められたんですよ。深山先輩には、お似合いの素敵な彼女がいるから、告白しても無駄だって……」 こんなときまでそれか、と直人は内心盛大にため息をついた。 「違うよ。それ、デマだ」 「えっ? だって……」 「勇希のことだろう? あいつはただの幼なじみ。いとこで、名字が一緒で、だからよくからかわれるけど……。俺とあいつはなんでもない」 「……そうなんですか?」 「向こうも普段からそう言ってるよ。俺と恋人だなんて言ったら、大笑いするはずだ」 これまで何度繰り返したかわからない説明を、いささかうんざりした気分で積み重ねる。 しかし澪は、それを聞いて表情を曇らせた。 「でも、他に好きな人がいるんですよね……?」 「……いないよ」 そう、誰か他に好きな娘ができれば、あるいは勇希が彼氏を作れば、こんなつまらない噂からは解放されるのだろう。 前者はともかく後者なら、そんなに可能性が低くないことを直人は知っている。 だけど……。 直人の物思いは、澪が静かに流した涙によって中断させられた。 「…………!?」 「どうして……?」 「えっ?」 「それじゃ、どうしてダメなんですか……?」 「どうしてって……」 それはこっちが聞きたい、と直人は思う。 どうして、大した取り柄もない自分に。 どうして、なんの接点もなかったはずの自分に。 どうして、澪のようにかわいくて人気のある女の子が。 「……お願いします。せめて、本当のことを言ってください。誰にも言いませんから」 「本当のことって……」 「好きなんでしょう? 幼なじみの……」 「勇希は関係ない」 つい、直人は強い口調で遮っていた。 ……あるいは、勇希をかばったように聞こえたかもしれない。 そんな考えがちらりと頭をかすめたけど、それはそれで構わない、と思い直す。 別に勇希のことなど、なんとも思っていない。 しかし、勇希は大切な家族みたいなもので、だから、自分のせいで変な誤解を受けるのは不本意だ。 そうでなくても、つまらない噂のせいで、勇希から恋人ができるチャンスを奪っているかもしれないのだから。 頑なな直人の横顔に、澪はこらえきれず、しゃくり上げた。 それは胸に直接突き刺さったけれど、まさか耳をふさぐわけにもいかない。 直人はグッと奥歯を噛みしめた。 「……失礼します……」 軽く頭を下げ、身を翻す。 澪は涙を拭おうともせず、走り去っていった。 「……かわいそうなこと、しちゃったな……」 あっと言う間に木立の向こうに消える後ろ姿に、後悔と自己嫌悪が群れをなして襲ってくる。 しかし、直人にはなにもできない。 今さら呼び止めて慰めを言っても、偽善もいいところだ。 「……バイト、行くか……」 強いて言葉にして自分を奮い立たせ、気分同様、重い足取りで直人は泉を離れた。 バイトを終え、いつにも増して疲れて帰ってきた直人を待ちかねていたかのように、自室の電話が鳴った。 「誰だよ、一体……」 ぼやいた瞬間、ちらりと澪の面影が脳裏をよぎる。 直人は一つ首を振って、それを追い払った。 そんなはずはない。あれだけはっきり断ったのだから。 「はい、深山です」 電話を取って名乗ると、聞き慣れたお気楽な声が返ってくる。 「あ、直人か?」 「あぁ、疾風か。なに?」 「お前、綾小路澪をフったんだって?」 直人は受話器を手にしたまま、ばったりとベッドに倒れこんだ。 それが早くも疾風の耳に届いたという驚きも、もちろんだけど、セリフの内容にふさわしい口調というものがあるんじゃないだろうか。 あっけらかんと軽〜いノリで言うべきことではない気がする。 「どうした?」 「……いや、ちょっと行き倒れてみた」 「ふざけてる場合かよ」 「こっちのセリフだ」 言い返して、直人はベッドの上であぐらをかいた。 「もう、お前の耳に入ったのか……」 「あぁ、妹が聞きこんできたらしいんだ」 そう言えば、と直人は思い出す。 疾風の妹も、晴空高校の一年生だと聞いたことがある。まだ会ったことはないけれど……。兄貴が兄貴だけに、会ってみたいような、怖いような。 「本当なんだな?」 「ん、あぁ、まぁ、なんと言うか……。そういうことになったらしい」 「もったいねぇなぁ……」 疾風は大げさに嘆いてみせた。 その点に関しては全く同感だから、直人は黙って肩をすくめる。 「まぁ、お前には勇希ちゃんがいるから、いいんだろうけどさ」 「またそれか……」 澪と言い、疾風と言い、どうして勇希を引き合いに出すのだろう。 直人はいい加減うんざりして、投げ出すような口調で訂正した。 「俺と勇希はなんでもないって……。何度も言ってるだろ」 「ま、それはおいといて」 「…………」 あっさり流しやがったな、この野郎……と、内心毒づく直人をよそに、疾風はしたり顔で頷く。 「あの手紙が本物だったってのも驚きだけど、それを断ったってのは、もっと驚きだよ」 「あ、そう……」 最早なにを言い返す気力もなく、投げやりな相槌を打ったところに、 「ショッキーング! ショッキーング!」 突然、聞こえてきた素っ頓狂なフレーズに、直人はずるずるとベッドからずり落ちた。 「……なんだ、それは……」 「いや、お前のことだから、落ちこんでるだろうと思ってさ」 「そりゃ、落ちこんでるけど、それとこれとどういう関係が……?」 「ここは一つ、明るいギャグで和ませてやろうかと」 「明るいって言うより、ただの変なやつだぞ、それじゃ……」 「ハハ、まぁ、憎まれ口を叩く元気があれば平気だな」 「あんまり平気じゃねぇよ……」 電話口でため息をつく。 フられたほうはもちろん、フったほうにも相応の、後悔なり後味の悪さなりが待っているのだと、今日初めて直人は知った。 「辛いか?」 「……あぁ」 「苦しいよな」 「うん」 この前振りに、多少なりとも慰めに似た続きを期待した直人に、疾風はごく軽い口調で、容赦のない言葉を続ける。 「じゃぁ、のたうち回って苦しめ」 「…………」 「多分、向こうはお前の百倍以上、苦しい」 「……きついなぁ」 だけど、疾風の言うことは正しい。 澪の辛さは、直人の比ではないだろう。 ……なのに、考えてみれば、自分は「ごめん」の一言さえ言わなかった。 自分のことでいっぱいいっぱいで、相手の気持ちを考えていなかったことに、直人は今さら気づく。 「ごめん、綾小路さん……」 胸のなかで頭を下げ、落ち着いたら謝りに行こうと、直人は決めた。 「……疾風」 「ん?」 「サンキュー」 フ、と受話器の向こうで疾風が笑う気配がする。 「ま、しばらく周りはうるさいだろうけど、来月になればテストもあるし、すぐに夏休みだ。みんな、そっちに気を取られて忘れるさ。二、三週間の我慢だ」 「……なんとまぁ、ありがたいお言葉……」 「綾小路澪に告白されるような果報者には、そのくらいの試練が付き物なんだよ」 「くそ、他人事だと思って、楽しそうに……」 「他人事だも〜ん」 そうして、二人は笑った。 しかし直人は、このとき疾風の言葉をそれほど真剣にとらえていなかったことを、思い知るハメになる。 それも翌朝、早速。 「……?」 最初は、通学路で。 「……??」 校門をくぐるあたりから、頻繁になって。 「……???」 教室にたどり着くときには、気のせいなどではないことを、直人は確信していた。 なぜだろうか。今日はやけに視線を感じる。それも、あまり好意的なものとは言えない。 「なぁ、勇希」 何気なく声をかけると、険しい視線が返ってくる。 「……なによ」 どうやら、まだ機嫌が悪いらしい。 直人の背筋を冷や汗が滑り降りた。 今度のことは、相当、根が深そうだ。一度、本格的に謝っておいたほうがいいかもしれない。 「それにしても、綾小路さんと言い、勇希と言い、どうしてこうなにもかもいっぺんに……」 思わず、ぼやきモードに突入する直人に、勇希は眉根を寄せた。 「直人? なんなの?」 「あ、いや、俺……なんか変かな?」 言いながら、自分の制服を改める。 勇希はプイッとそっぽを向いた。 「別に。いつも通りだよ」 「……なんか、朝から、妙に視線を感じるんだけど」 「また、どっかの誰かが熱い視線を送ってるんじゃないの」 刺々しい返事に、直人は少し語気を強める。 「違うって。どっちかって言うと、白い目で見られてる感じが……」 そのとき不意に、聞こえよがしなひそひそ声が、直人の耳に届いた。 「ほら、あれが例の……」 「朝っぱらから、仲がいいわよねぇ」 「だからって……」 「ん……?」 振り向くと、複数の女生徒がそそくさと逃げ散っていく。 本来、このフロアでは見かけないはずの、制服のリボンの色。 「一年生……?」 「心当たりがないわけじゃないんでしょ?」 勇希の、冷静な口調の指摘に、直人は目を丸くした。 「もしかして……?」 「もしかしなくても」 「ウソだろ……?」 しかし、その日は一日中、周囲から冷たい視線とひそひそ囁き交わす声が消えることはなかったのである。 放課後を告げるチャイムが鳴ったときには、直人はげっそりとやつれていた。 「……疲れた……」 高校入学以来、これほど疲れた一日が、あっただろうか。 教室にいても、廊下に出ても、トイレに行っていてさえ、非友好的な空気が満ちていて、押しつぶされそうだった。針のむしろという言葉の意味を、イヤと言うほど思い知った気分だ。 ともあれ、とりあえず今日のところは、これで解放される。 直人は緩慢な手つきで鞄を取り上げた。 立ち上がるその背後で、クラスの女子がまた勝手なことを言い始める。もう声を潜めようとさえしていない。 「ほら、帰るみたいよ」 「二人でどっか行くんじゃない?」 ……二人と言っても、澪のことではないだろう。いつの間にか、勇希まで巻きこんで、噂が一人歩きしているようだ。 「どっかって?」 「野暮ね、決まってるでしょ」 けたたましい笑い声が上がった。 遠慮もなにもあったものではないけれど、咎める気力もない。 それに噂話なんて、いくら訂正しても無駄だということは、普段から身にしみている。 力無い足取りで教室を出ようとした直人の背中に、心ない言葉が浴びせられた。 「やっぱり、親がいないと好き放題よね」 「……!」 直人は猛然と振り返り、声の主を睨みつける。 しかし、それと同時に、その娘の後頭部になにかが、ものすごいスピードで叩きつけられた。 激しい物音に、シンと静まりかえる教室。 ……鞄、だった。 見事なコントロールを披露した勇希が、つかつかと歩み寄り、それを拾い上げる。 「言っていいことと悪いことがあんじゃないの?」 鋭い眼光に射すくめられ、女生徒達の答えはない。 しかし勇希は、強いて答えを求めず、踵を返し教室を出ていった。 それを機に彼女達が一斉に非難の声を上げようとする、その機先を今度は疾風の声が制した。 「親がいないのが直人の責任か?」 「……だ、だからって、あんな、鞄を投げつけることないじゃない。野蛮よ!」 そんな涙声混じりの非難に、疾風は肩をすくめる。 「確かに、暴力をふるうのは褒められたことじゃないけどね。誰かを守るために暴力をふるうのと、誰かを傷つけるためだけに陰口を叩くのと。どっちがマシか……なんて、聞くだけバカらしいと思わない?」 悔しそうに口をつぐむ彼女に、疾風は不敵な笑みを浮かべた。 「それに、女の子の力で鞄を投げつけられる程度で済んで、良かったじゃん。俺、手加減するつもり、なかったよ」 それは、普段から仲の良い直人でさえ、ぞくりとするほど剣呑な微笑だった。 ぎょっとする女生徒達に、疾風は指をポキポキと鳴らしながら、足取り軽やかに近づく。 「ま、そういうわけで……」 クラス全員が息を飲んで、疾風の言葉を待った。 普段の軽い調子からは、女の子に手をあげるとは思えない。しかし、その可能性を否定できない苛烈な気配を、今の疾風は放射していた。 辛うじて直人だけが、当事者としての責任感から、声を絞り出す。 「おい、疾風……」 しかし、直人がなにか言うより早く、疾風は一転、いつものお気楽な表情に戻った。 「仲直りしに、これから一緒にカラオケでもどう?」 「……は?」 声に出したのは直人だけだったけど、その場に居合わせたほぼ全員が、そう言いたげな顔をしている。 呆気に取られている女の子達……改めて数えると四人いる、その名前を順に呼んで、疾風は急き立てた。 「さぁ、百合ちゃん、慶ちゃん、麻美ちゃん、陽子ちゃん。行こう、行こう」 「あ、おい、ちょっと……」 「ん? まだなんか言いたいこと、あるのか?」 直人は頷くと、そっと深呼吸をする。 正直、まだ腹立たしいし、こんなことを言いたくはない。けれど……。 「……痛かっただろ。ごめん」 顔を見合わせる四人に、直人は軽く頭を下げた。 「あいつ、怒ると見境なくすからさ。……ただ、あれは俺をかばおうとしただけで、悪気があってのことじゃないんだ。あまり悪く思わないでほしい」 必ずしも心から納得したわけではないだろうけれど、それでも四人はそれぞれに頷く。 それを確認して、疾風は満面の笑みを作った。 「ん、じゃぁ、そういうことで。さぁ、みんな、イヤなことは忘れて、ぱーっと騒ごうね」 肩を抱かんばかりにして、疾風が四人を教室から連れ出す。 「……どこまで本気なんだか……」 場を収めてくれた友人に感謝しつつも、そのやり方に直人は軽い頭痛を感じた。 それでも、五人の姿が視界から消えると、ホッとした空気が教室に流れる。皆、一斉に部活の準備や帰り支度を始め、にわかに騒がしくなった。 そんななか、思わずため息をついた直人の肩を、サッカー部の大石という生徒が叩く。 振り向くと、大石は人なつこい笑顔を浮かべ、親指を立ててみせた。 照れくさい気分で、それでも直人が控え目にやり返すと、大石は小さく頷いて廊下へ走り出る。 多分、部室へ向かうのだろう。 その後ろ姿を見送って、直人も教室を後にした。 「今日もバイトか……」 そう呟きながら校門を出たところで、横合いから二人分の声がかけられる。 「あ、深山君」 「……ん?」 目を向けると、同級生の女の子達が並んでいた。 いつも一緒にいるけれど、揃って控えめで、クラスではほとんど目立たない。名字が北と南という冗談のような取り合わせなのが、唯一の特徴だ。 「あのさ、深山君って、白菊君と仲がいいよね」 「うん、まぁ」 直人が頷くと、北はちょっと恥ずかしそうに笑う。 「あの、ね。えーと……。その、白菊君って、好きな人とか、いるのかなぁ」 「……いや、いないって聞いてる」 「そうなんだ……。ありがと。じゃぁね」 二人は、なにやら嬉しそうに笑いさざめきながら、商店街のほうに足を向けた。 先ほどの一件で、疾風はまた株を上げたらしい。 「俺は……。大暴落だな」 自嘲気味に呟いてはみたものの、先ほどまでのどん底気分からは、すっかり抜け出せたようだ。 数は少ないながらも、自分には絶対の味方がいる。クラスメートだって、変な噂を鵜呑みにするやつばかりではない。 そのことが、どれだけ支えになることか。 バイト先へ向かう直人の足取りは、少し軽さを取り戻していた。 バイトで疲れて帰ってきた直人を、追い打ちのような留守電の数々が待っていた。 「死ね」だの「人間のくず」だのといった真っ向ストレートなもの、五件。無言電話、二件。判別不可能なもの、一件。 「アグロン・テタグラム・ヴァイケオン・スティムラマトン……」 「…………」 なにかの呪文だろうか。 ……俺を呪い殺す気か、と口のなかで呟く。 「ふん、やれるもんならやってみろ。呪いが怖くてULPが飛ばせるかってんだ」 我ながら意味不明なセリフを発しつつ、暗記している数少ない電話番号をダイヤルする。コール三回で叔母が出た。 適当に挨拶して、勇希を呼び出してもらう。すぐに電話は切り替わった。 「はい、代わりました」 「あ、俺」 「……なに?」 直人からだとわかった瞬間、勇希は無理に不機嫌を装おうとする。 多分、「さっきはかばったけど、あたしはまだ怒ってるんだからね」という意思表示のつもりなのだろう。 だけど、たとえ仲違いしている最中でも、理不尽な言いがかりには間違いなく直人の肩を持つ。それを態度で示してしまっては、仲直りするなというほうが無理な注文だった。 直人は素直に礼を言う。 「今日のこと。……ありがとな」 「別に、直人をかばったわけじゃないよ。元々あの子達、気に入らなかっただけ」 「そんなウソ、つくなよ」 「ウソじゃないよ」 「勇希は、そんな理由で人に鞄を投げつけたりしない」 きっぱりと断言すると、勇希は黙りこむ。 「今日、あんなだっただろ? 味方してくれて、本当に嬉しかったよ。サンキューな」 改めて感謝の言葉を口にするうち、直人の口元に、無意識に微笑が浮かんだ。 「……うん」 「それで、あの、さ……」 本題に入ろうとすると、どうしても照れが邪魔をする。 ケンカしても、「なんとなく」「いつの間にか」仲直りしていることが多いだけに、改めて「ごめん」を口にするのは、意外と難しかった。 「えーと……」 「どうしたの? 今さらあたしに、遠慮なんかすることないでしょ」 「そ、そうだよな。えーと、その……。ごめん」 勇希に促され、やっとその一言を吐き出すと、フッと気持ちが軽くなる。 「……なにが?」 「この前、なんか怒って帰っちゃっただろ? 理由はよくわかんないんだけど……」 「わかんないのに謝るの?」 「多分、その『理由がわかんない』とこも含めて、怒ってるんだと思うから。ごめん」 わずかな間があって返ってきた答えは、決して甘やかなものではなかったけれど、いつも二人の間で交わされる色合いを取り戻していた。 「別に、怒ってなんかないよ」 「そうか?」 「ちょっと機嫌悪かっただけ」 「……勇希さん。それを世間では『怒ってる』って言うと思うんですが」 「いいの、とにかくあたしは怒ってないの」 「……難儀なやつ」 ボソッと直人が呟くと、すかさずツッコミが入る。 「聞こえてるよ、直人」 勇希お得意の、笑顔で額に青筋……という器用な表情が、目に浮かんだ。 おなじみの間合いのやりとりに、直人の口も滑る。 「えっ? 今、『勇希って素敵な女の子だなぁ』って言ったんだけど、聞こえちゃった?」 「なんか、混線してるみたいだね。もう用事は済んだんでしょ? 話、しづらいし、切るよ」 え、と思ったときにはもう遅い。 受話器からは、回線の切れた無機質な音が聞こえてきた。 「……冗談の通じないやつ」 聞こえるはずはないけれど、そう呟かずにはいられない。 直人は受話器を置くと、直接、隣家へ赴いた。 チャイムを押して、出てきた叔母に勇希を呼び出してもらう。 つい先ほどは電話で、今度はわざわざ出向いてきて。笑いながら理由を尋ねる彼女に、直人はとぼけてみせた。 「いや、なんか、電話が混線してるみたいなんで……」 「混線してるのは直人の脳みそでしょ」 呆れ顔で叔母の背後から勇希が姿を現す。入れ替わりに、叔母は家のなかに戻っていった。 「……今日も綺麗だね、勇希」 「そういうこと、一度くらい言い訳以外のシチュエーションで言ってみたら?」 「俺に言われて嬉しいか?」 そうだね、と勇希は腕を組む。 「雑誌の懸賞が当たった程度には嬉しいよ」 「……それって、単に滅多にないことだから嬉しいってだけじゃ……」 わかりやすく別の言葉に置き換える直人に、勇希は突然、目を潤ませた。 「こうして見ると、なおちゃんて、結構カッコいいよね……」 囁くような甘い声。 冗談だとわかっていても、思わずドキッとする。 口ごもる直人に、勇希は意地の悪い笑みを浮かべた。 「どう? 嬉しい?」 「……『フライング・スポーツ』の発売日が来た程度には嬉しい」 「なにそれ」 「ULPのことが載ってる雑誌」 雑誌から離れられないあたり、気の利いた切り返しとは言い難い。 それでも勇希は、不満そうに頬を膨らませる。 「なによ、あたしより嬉しさのグレードが下がってるじゃない」 「そうかな」 「その雑誌って、月刊?」 「二ヶ月にいっぺん」 「ほら。懸賞に当たるほうが、ありがたみがあるじゃない」 わかるようなわからないような理屈だが、とりあえず話が逸れていることは間違いない。 直人は無理矢理、話をまとめようとした。 「まぁ、お互い様ってことで」 「やだ」 勇希はプイッと横を向く。 「訂正してくれなきゃ、相談になんか乗ってあげない」 直人は思わず言葉に詰まった。 こちらから言う前に、話を元に戻してくれたのは助かる。 だけど……。 「……なんで相談に来たってわかるんだよ……」 「直人があたしのとこへ来るとき。その一、お腹が空いた。その二、宿題忘れてた。その三、人間関係のトラブル」 勇希は直人に向かって、人差し指から順に指を三本、立ててみせた。 例の当否はともかく、なにか困ったことが起きたら勇希に相談しているのは事実だから、反論のしようもない。 「……その四、テスト前。その五、金に困っている」 付け加えて自爆する直人を、勇希は腰に手を当てて睨めつける。 「あたしをなんだと思ってるのよ」 「ワラ」 「……はぁ?」 「溺れる者は、ワラをも掴む……って言うだろ」 「頼りにされてるんだか、されてないんだか……」 ため息をつく勇希から、直人は目を逸らした。 「してるよ。俺のために怒って鞄投げてくれるやつ、他にいないもん」 勇希はちらりと直人の横顔に視線を走らせ、決して聞こえないように「うん」と頷く。 それから直人を促し、庭の外れへと場所を移した。 「まぁ、だいたい想像はついてるんだけど……」 「うん。綾小路澪のことなんだ」 「それはわかりきってるの」 冷たく言い放ち、勇希は「やれやれ」と言いたげにため息をつく。 「そうじゃなくて、なんであんだけ大騒ぎになったかってこと」 「……あの娘が人気者だから」 今度は直人のほうが「それは、わかりきってる」と言いたくなった。 しかし勇希は、直人の答えに△をつける。 「それもあるけど……。なんて言って断ったの?」 「……言わなきゃ、ダメ?」 「ダメ」 「えーと……。手紙、読んだよ」 勇希は頷き、先を促した。 「悪いけど、他を当たってくれ」 ピシッ。 石化する勇希に、直人は恐る恐る声をかける。 「勇希……?」 「このバカ!」 真っ向ストレートな罵声にひるんだところへ、容赦なく追い打ちが浴びせられた。 「バカバカバカバカバカ!」 「そ、そんなに連呼するなよ……」 「もう少し、言い様ってもんがあるでしょう!」 「そんなこと言ったって……」 「なに考えてんのよ、もう……」 がっくりと肩を落とす勇希に、直人は黙りこむ。 どうやら、自分の対応がよほどまずかったらしい。 「それでか……。うん、納得。想像はしてたけど、想像以上だよ」 勇希は呆れ果て、投げやりに何度も頷いた。 直人は控え目に疑問を呈する。 「やっぱり、ちょっとまずかったかな……?」 自覚の足りない直人に返ってきたのは、冷た〜い視線だった。 「『ちょっと』?」 「……かなり?」 「これ以上ないくらい最悪よ」 で、と勇希は額に手を当てて続ける。 「『ありがとう』は?」 「言ってない」 「『ごめんなさい』は?」 「今度、言おうと思ってた」 力無いため息。 勇希は、噛んで含めるように諭した。 「とりあえず、今度会ったら、全力で謝り倒すこと。いい?」 「うん」 「それで、ちゃんと話を聞いてもらえるまで頑張る」 「どうやって?」 勇希の眉が急角度に跳ね上がる。 「知らないよ、そこまでは。髪、坊主にして誠意を見せるとか、なんかあるでしょ?」 「え゛……」 思わず頭に手をやった直人に、勇希は顔をほころばせた。 「あ、それいいなぁ。そうしたら、毎日、手触りを楽しめるもん。そうしなよ、ね?」 「あのな……」 「やだ?」 「当たり前だ」 「残念」 勇希は舌打ちし、指を鳴らしてみせる。 直人は思わず苦笑した。 「今は、綾小路澪にどうやって謝るかって話だろ」 「ん、だから、とりあえず話を聞いてもらわなきゃいけないでしょ?」 もしかして、自分のしたことは、そこまで極悪なことだったのだろうか。 頭を丸める云々は、さすがに勇希の冗談だとしても。 今さらながら、直人は事態の重さに気づく。 「……そこまで持っていったとして」 「あとは、ちゃんと説明すること」 「説明? ……なにを?」 「なんで断ったの?」 一瞬、言葉に詰まった。 相談に来たのは自分だけど、話したくないことというのは、ある。 「いいだろ、別に」 だけど、その答えは勇希の予想通りだったらしい。 「ほら、それがダメなの」 顔をしかめてそこまで言い、勇希は真面目な顔になる。 「あたしはいいよ? 直人がなに考えてるのか、だいたいわかるから。だけど、あの娘はそうじゃないでしょ?」 まして、と勇希は冗談めかして、 「なにが気に入ったんだか未だに納得できないけど、おつきあいしてくださいって言ってくれたんじゃない」 それから、もう一度真剣な表情に戻って、言葉を結んだ。 「断るなら断るで、ちゃんと理由を説明してあげなきゃ」 「そう、かなぁ……」 「そうなの」 不承々々飲みこんだ直人に、ピシリとダメを押す。 そして勇希は優しく微笑んだ。 「言い訳するの、イヤなんでしょ?」 直人は答えない。 「理由はどうあれ、悪いのは自分なんだから、言い訳するのは男らしくない。違う?」 また直人は答えなかったけれど、勇希は意に介さず先を続けた。 「あたしは直人のそういうとこイヤじゃないし、そういうふうな考え方するってのもわかってる」 そして、ちょっと照れたような、困ったような表情で呟く。 「だけどね。それでも……ケンカしたときとか、ちょっと寂しい」 「え……?」 「言い訳もしてくれないなんて、あたしと仲直りできなくてもいいって思ってるのかなって」 思いもかけないことを言われ、焦る直人に、勇希はさらに言葉をかぶせた。 「そうじゃないってのはわかってるよ。その分、行動で示すほうだし」 そして、もう一度、照れたような笑みを浮かべる。 「ただ、もう少し『自分がなに考えてるか』って、言葉で伝えるようにしてもいいんじゃないかと思う」 うぅん、と勇希は小さく首を振った。 「そうしてくれると、あたしなら……嬉しい」 「…………」 照れ隠しか、勇希はからかうような微笑を浮かべる。 「恥ずかしい?」 「……やなやつ。そこまでお見通しなんだもんな……」 直人はぼやいてみせたが、本心は別のところにあることを、微苦笑めいた表情が物語っていた。 勇希は優しい声で笑う。 「わかったよ。俺も彼女にはちゃんと謝っておこうと思ってたし。……そんときに話すよ」 「うん」 「でも、ちゃんと話せるかなぁ……」 たちどころに弱気になる直人を、勇希は笑顔で突き放した。 「話せるかなぁ、じゃなくて、話すの」 「わかってるって。だけど……」 「『でも』も『だけど』もなし。ちゃんと話してくるまで、うちの敷居はまたがせないからね」 はいはい、と苦笑して直人は頭をかく。 結論が出たところで、勇希は明るく笑った。 「さーて、この貸しはどうやって返してもらおうかなー」 「げ」 「『げ』ってなによ」 「勇希。俺達はそんな、貸し借りがどうとか言うような、乾いた関係だったのか?」 大げさなセリフに、勇希は不思議そのものの表情で聞き返す。 「あれ? 違うと思ってた?」 「……いとこだろ」 「うん」 「幼なじみだろ」 「そうだよ」 「お隣さんじゃないか」 「だから?」 二人の関係を確認する言葉を、ことごとく一言で切って捨て、勇希は貢献度を自己査定する。 「今回の貸しは、かなり大きいよねー」 無理難題を吹っかけられそうな気配に、直人は先手を打った。 「……肩叩き券進呈」 「はぁ? なにそれ。父の日、母の日のプレゼントじゃあるまいし」 首を傾げる勇希に、直人はしれっと言う。 「いや、凝ってるかと思って」 無言のまま見つめ合う二人。 ややあって、直人の視線が微妙に下にずれた。 「直人っ!」 意図を悟った勇希が、顔を真っ赤にして怒鳴る。 「ダメか?」 「もう! なに言い出すかと思えば……」 「お金もかからないし、いいアイデアだと思うんだけどなぁ」 「どこで、そういういらない知識を仕入れてくるのよ」 「どこからともなく」 「そんなこと覚えてる暇があったら、数学の公式の一つ、英単語の一つや二つも覚えたらどうなの?」 「喜ぶかと思ったのに」 「喜ぶかっ!」 翌日の放課後、直人はなんとか、澪を連れ出すことに成功した。 噂の渦中の二人が並んで歩けば、否応なしに周囲の視線は突き刺さってくる。 直人は人目を避けるため、あのときと同様、泉のほとりを選んだ。 「ふぅ……」 足を止め、直人は思わずため息をつく。 とっくに好奇の視線からは解放されていたけど、なじみのある場所に来て、ようやく一日分の気疲れを吐き出すことができた。 一息ついて澪の様子をうかがうと、ただ静かに直人の言葉を待っている。 教室まで迎えに行ったときも、ただ息を飲んで顔を伏せただけだった。 ここへたどり着くまでも、よそよそしい態度を取るわけでもなく、恨みがましいことを言うでもない。 本当にいい娘なのだと思う。 自分のしたことがどんなにこの娘を傷つけたのかと思うと、今さらながら、いたたまれない気がした。 直人は、息を大きく吸いこんで、それからゆっくりと吐いた。 勢いをつけて振り向き、そのまま深々と頭を下げる。 「ごめんっ!」 「え……」 軽く目を見張る澪に、直人は謝罪の言葉を繰り返した。 「ごめん、この前のこと……。俺、なんて言うか、その……。ごめん」 「あ、あの、そんな……。どうしたんですか? 謝らないでくださいよ、私、気にしてないんです、本当に……」 「えっ……?」 顔を上げると、澪が慌てふためいて両手を振っている。 今度は直人が面食らう番だった。 「だって、そんな、最初から無理目なのはわかってたし、深山先輩の気持ちを強制する権利なんて誰にもないし……。それなのに、私ったら、聞き分けのないこと言っちゃって……。謝らなきゃいけないのは、私のほうです」 「そんな、俺のほうこそ、そんなの全然気にしてないよ」 「そうなんですか……?」 「うん。ただ、この前のあれは、ちょっとなかったんじゃないかって人に言われて……」 直人は、しどろもどろになりながらも、自分の考えを澪に伝えた。 澪の気持ちは、とても嬉しかったこと。ただ、全然知らない女の子だから、好きとか嫌いとか言えないこと。もしつきあってみて合わなかったら……と思うと、悪くてOKの返事はできないこと。そして、変な意地でちゃんと謝れなかったこと、などなど……。 お世辞にも筋道立ててわかりやすくしゃべれたとは思わない。どうしても照れくさくて、話があっちこっち飛んで、時間ばかりがかかってしまった。 それでも澪は、黙って、時折頷きながら最後まで聞いてくれた。 なんとか伝えたいと思っていたことを全部吐き出してしまい、直人はため息をつく。 「えっと、これで全部かな……。最初から、ちゃんとうまく話せれば良かったんだけど、俺、こういうの苦手で……」 軽く頭をかき、それから直人は改めて頭を下げた。 「と、とにかく、ありがとう。それから……ごめん」 「……はい」 小さく頷いた気配に直人が顔を上げると、澪は涙を拭ったところだった。 「あっ……! え、えーと、俺、またなんか変なこと言ったかな?」 焦る直人にクスッと澪は笑う。 ふるふると首を振り、まだ少し無理をして笑顔を浮かべた。 「私、涙もろいんですよ。そのためにわざわざ来てくれたんだな……って思ったら」 「そう……」 「深山先輩」 胸を撫で下ろす直人に向かい、澪は深々と頭を下げた。 「私のほうこそ、今回は色々ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」 「そ、そんな。俺は全然、迷惑なんか……」 澪は心配そうな顔で、少し首を傾げる。 「でも、口さがない人達が、あることないこと言いふらしているって……」 「それは、まぁ……。でも、それは綾小路さんのせいじゃないよ。謝ってもらうようなことじゃない」 「いいえ」 澪はツンと澄ました顔で横を向いた。 整った顔立ちだけに、そんな仕草も妙に似合っていたりする。 「深山先輩だって、自分は悪くないのに私に謝ったじゃないですか。それなのに、私には謝らせてくれないなんて、ダメです。ずるいですよ」 直人が答えに困っていると、澪は破顔した。 「冗談です」 あぁ、こんな笑い方もできるんだ、と思いながら、直人は笑い返す。 澪は、大して魅力的でもないはずの直人の微笑を見つめ、少し切なそうに笑顔を翳らせた。 「やっぱり、思った通りの人でした。いいお返事もらえなかったのは残念ですけど、思い切って伝えてみて良かったです」 澪の思い描いた自分が、どんな人間だったのか、直人には興味があった。 どう考えても、不自然に美化されているような気がするのだけれど。 その疑問を澪にぶつけてみると、彼女は言い淀む。 「それは……」 「それは?」 なおも追及すると、澪はにっこり笑って人差し指を唇に当てた。 「秘密です」 「なんじゃそりゃ!」 思わずツッコミを入れると、澪はクスクスと笑う。 顔立ちもさることながら、澪を魅力的にしているのは、誰にもマネできないであろう、この透き通った笑顔なのだと、直人は思った。 苦労知らずで無邪気なだけの笑みのはずはない。現に今、澪の笑顔は彼女を傷つけたはずの直人に向けられているのだから。 なのに、こんなに綺麗に笑える。 本当に素敵だと思った。 ……そして、それと同時に、自分が澪の申し出を断ったのが間違いでなかったことも、よくわかった。 ひとしきり笑って、澪は真顔に戻る。 「でも、これだけは信じてくださいね。私、いい加減な気持ちで、あの手紙を書いたわけじゃないです。深山先輩のこと、ちゃんと知ってて、あ、いいなって思ったからなんですよ」 それは、もちろん信じたい。だけど……。 すぐに返事ができない直人に、澪は軽く頬を膨らませた。 「あ、信じてくれてませんね」 「し、信じるよ。信じるけど、でも……。俺のことを『いいな』と思ってくれたってのが、いまいち納得できなくて」 クスリと澪は笑う。 「じゃぁ、一つだけ種明かししちゃいますね。……アルバイト、してるでしょう?」 「えっ? あぁ、うん、してるけど」 「夢のために、一生懸命頑張ってるのって、素敵ですよ」 「そ、そうかな……」 照れる直人に、澪は真っ直ぐな笑みを向けた。 「はい」 ……あぁ、この眩しい笑顔を独占するチャンスを逃がしたのか。俺ってちょっとバカだったかも……。 ほんの微かな後悔を胸にしまって、鍵をかける。 「じゃぁ、俺も一つだけ言わせてもらおうかな」 「はい、なんですか?」 「ああいう手紙に、拝啓、敬具はないと思うんだけど」 「あっ……」 サッと澪の頬に朱が差した。 両手でその頬を押さえる。 「やっぱり、そうですよね。私も、もしかしたら変かな、とは思ったんですけど……」 「もしかしなくても、変」 「もう……。いじめないでくださいよ」 いじけてみせる澪に、直人が小さく吹き出した。 釣られるように澪も笑う。 二人は顔を見合わせ、屈託のない笑い声をあげた。 澪を見送った後、直人は勇希の家へと足を向けた。 泉を取り巻く木立が途切れ、視界が開けると、柵に両手を預けて夕陽を眺める勇希がの姿が目に映る。 直人は何気なさそうに歩み寄り、軽く手を挙げた。 「……よう」 「終わったの?」 なにも話していないのに、今、澪に謝ってきたところだというのは、お見通しらしい。 考えていることが顔に出るほうだと言われたことはないけど、つきあいが長いだけあって、勇希相手に隠しごとをするのは難しい。 直人は苦笑して、勇希の隣、軽く柵に背を預ける。 「ま、一応ね……」 「あの娘は、なんて?」 「……ん、まぁ、いろいろ」 直人が言葉を濁すと、すかさず勇希はにんまりと笑って直人の頬をつついた。 「あ、ごまかすところが怪しいなぁ〜。『振り向いてくれなくても、好きです』とか言われちゃってたりして」 「そんなんじゃないよ」 「じゃぁ、『お友達から始めましょう』?」 「違うって」 苦笑し、直人は勇希の手をやんわりと押し戻す。 「……お幸せに、だってさ。笑っちゃうよな」 「お幸せに?」 首を傾げる勇希に、直人は肩をすくめてみせた。 「幼なじみの彼女さんと」 「え……。あ、あたしのこと!?」 勇希は身を起こし、素っ頓狂な声をあげる。 「さぁね。ま、俺には、他に心当たりないけど」 「や、やだ、なに言ってんのよ。あたしは、そんなんじゃ……」 勇希は軽く直人の腕を叩いた。 その頬が少し赤く見えるのは、夕焼けのせいばかりではないだろう。 「俺じゃないって。あの娘が言ったんだよ」 「もう……。どうして、そういう誤解をされちゃうんだろ」 勇希は軽く眉根を寄せ、足下に視線を落とす。 いつもなら、二人のことをからかわれても、笑い飛ばすか逆にそれをネタに冗談を言って相手を笑わせるのに、珍しく照れているように見えた。 「俺が知るか。本人に聞いてくれ」 「違うって何度も言ってるのに」 「あぁ、まったくだ」 直人が相槌を打つと、勇希はちらりとその表情をうかがう。 そして、直人に背中を向けてオーバーに嘆いた。 「あーあ、あたしに彼氏ができないのは、絶対、直人のせいだ」 「なんだよ、勇希、彼氏欲しいのか?」 「そりゃぁ、ね」 「彼女じゃなくて?」 直人がおどけると、勇希は固めた拳を顔の前に構えつつ、振り返る。 「ほほぉ……。君もなかなか懲りないね、直人君」 「怒るなよ。彼氏ができないのを、俺のせいにしようとするからだろ」 これには、勇希は本気で不満そうに腕を組んだ。 「あたしに原因があるって言いたいの?」 「言うまでもない」 「あたしのどこがいけないのよ。……そりゃ、ちょっと手が早かったり、お節介だったりするかもしれないけどさ……」 直人に言われる前に自爆して、勇希は口をとがらせる。 お約束の切り返しを封じられて、直人は苦笑した。 「でも、勇希、その気ないだろ?」 「なんで? そんなことないよ」 さも意外なことを言われたというように、勇希は目を丸くする。 直人は直人で首を捻った。 「そうかなぁ」 「そうだよ」 「だって、勇希さえその気なら……」 相手には不自由しないだろう。あまり選り好みさえしなければ。 そう言いかけて、思いとどまる。 それを口にするのは、やっぱり少し癪だった。 「あたしさえその気なら……?」 「……いや、別に」 「なによ。あたしさえその気なら、俺がなってやってもいいぞ……って?」 「バ、バカ、なに言ってんだよ」 澪に言われたことが頭に残っているせいか、いつもなら一笑に付すジョークに、少し狼狽えてしまう。 勇希はそれに気づいたのかどうか、いつも通り明るく笑った。 「冗談、冗談」 「俺にも選ぶ権利はあるぞ」 「そうねぇ〜。なんたって、あの綾小路澪に告白されたんだもんねぇ〜」 型通りの反撃を、勇希は軽くあしらう。 直人は内心、舌打ちした。 しばらく、このネタでからかわれることだろう。 しかし、それは必ずしも、不快感ばかりを伴う予想ではなかった。 ふと、勇希が笑みを収める。 「でも、ちょっともったいなかったな、とか思わない?」 「思う」 「……素直ね」 直人が意地を張るのを予想していたのか、少し意外そうな顔をした。 「だって、見た目はあの通りだし、素直そうだし、いい娘だと思うよ」 「じゃ、今からでも追っかけたら? まだ、間に合うかもしれないよ」 冗談半分にけしかける口調とは裏腹に、勇希の目は笑っていない。 その目の色の理由を、直人はまだ半分しか理解していなかった。 それでも、軽く首を振り、二人にとっての正解を選ぶ。 「いや、いいよ。すごくいい娘だけど、俺には合わないと思う」 「釣り合いが取れない?」 「それもあるけど……。純粋で、繊細で、傷つきやすくて……。触るのが怖い感じ」 「それって、あたしへの当てつけ?」 勇希は少し頬を膨らませた。 直人はそれを見て微笑を浮かべる。 「違うよ。勇希だって、少しは純粋だし、わずかに繊細だし、微かに傷つきやすいし……」 「……それでフォローしてるつもり?」 「冗談のつもりなんだけど、そう聞こえない?」 「聞こえない」 フン、と鼻息も荒く横を向く勇希に、直人は小さく笑みを漏らした。 すかさず険悪な視線が飛んでくる。 軽く手を振って謝罪の意志を表し、言葉を継いだ。 「でも最近、やっぱり勇希も女の子なんだな……と思うことはあるよ」 「ご飯作ってあげたときとかでしょ」 「否定はしない。だけど、それだけじゃないよ。なんか、最近、いろいろ」 そう、と呟いた勇希の横顔は、どこか嬉しそうだった。 「でも、あの娘といると、勇希といるときとは比べものにならないくらい、気を使いそうで」 「あたしと比べちゃダメだよ。つきあい長いんだから」 呆れ顔で、勇希は腰に手を当てる。 「そんなこと言ってちゃ、いつまで経っても彼女できないよ」 「つきあいの長い短いじゃなくて、なんて言うか……、相性、かな」 直人がなにげなく口にすると、勇希は一瞬、言葉に詰まった。 それから、慌てて目を逸らす。 「その言い方だと、あたしと相性がいいって言ってるように聞こえるけど」 「悪くはないだろ」 しょっちゅうケンカもするけれど、その度、なんとか仲直りしているし、あまり後を引くこともない。 言葉で確認したこと、してないこと、いくつかの約束が二人の間にはあって、それなりに折り合いをつけてやれていると思う。 「……そうだね」 呟いて勇希は、上気した頬をごまかそうとするように、明るい笑顔を浮かべた。 「まぁ、ほら、あたしって心が広いから。そうじゃなきゃ、直人みたいなワガママ坊主の相手は務まらないよ」 「言ってろ」 直人は苦笑する。 「なによ、なんか文句あるの?」 「あれ? 心が広いんじゃなかったのか?」 「あっ……」 直人が大笑いすると、勇希は家に向かって歩き出した。 「あっ、おい、なにもそんな……」 「母さーん、直人、やっぱり夕飯いらないって」 「えっ? 夕飯?」 「直人が来ないなら、あたし、支度を手伝わなくても平気だよねー」 「ちょ、ちょっと待てよ、勇希」 「残念だけど、直人は一人でカップラーメン食べるみたいだから」 「そんな、ねぇ、心の広い勇希さん。冷たいこと言わずに……」 勇希の家で夕飯をごちそうになり、満ち足りた気分で帰宅した直人を、待ちかまえていたかのように電話のベルが鳴った。 「はい、深山です」 電話を取って名乗ると、聞き慣れたお気楽な声が返ってくる。 「あ、直人か?」 「あぁ、疾風か。なに?」 「お前、やっぱり綾小路澪とつきあうことにしたんだって?」 直人は足を滑らせ、頭からベッドに突っこんだ。 勢い余って、ベッド脇の棚から、本やら飛行機の模型やらが落ちてくる。 しかし、そんなものに埋もれている場合ではない。 素早く起きあがり、直人は受話器に向かって叫んだ。 「なにぃーっ!?」 「お前と彼女が二人っきり、ただならぬ様子で歩いていく姿。目撃証言多数」 「誤解だーっ!」 直人の叫び声は、誰の耳にも届くことなく、空しく夜の闇に吸いこまれていった……。 九月も半ばを過ぎると、すっかり陽射しも柔らかくなる。 肌触りの良い風が、直人の頬を撫でて通り過ぎた。 白いテーブルの向かい側で、勇希が優しく微笑む。 澪の告白から三ヶ月余りが過ぎ、「ただの幼なじみ」だった二人の関係から「ただの」という言葉が外れてから、一月近くになった。 「あの噂が消えるまで、十日以上かかったよね」 「参ったよ……。綾小路さん、最初、否定してくれないんだもん」 「一生懸命否定する、なおちゃん。笑顔だけで誤解を拡大再生産する、あの娘。どっちが本当なのかわかんなくて右往左往する親衛隊。あれは面白い見せ物だったなぁ」 思い出し笑いをする勇希に、直人は冷たい目を向ける。 「真実を知ってるくせに、それを傍観して楽しんでる、頼もしい幼なじみもどっかにいたよな」 「いいじゃない。悪い噂じゃなかったんだし」 人の苦労も知らないで。 直人が憮然とした表情で沈黙すると、勇希は軽く身を乗り出してきた。 「ん? なぁに? もしかして、ヤキモチ焼いてほしかったの?」 「べ、別に、そういうわけじゃ……」 勇希はクスッと笑う。 「でも、あのときは、噂より先に本当のことを聞いてたからね」 まだ「ただの幼なじみ」だった頃のことなのに、まるで最初から今の二人でいたかのように、勇希は回想する。 直人もそのことに違和感はなかった。 はっきり確かめたのは、まだほんの一月ほど前のことだけど、お互いの気持ちはずっとつながっていたのだと、今ならわかる。 勇希は手元に視線を落とし、グラスのなかの氷をかきまぜた。 「それにあたし、あの娘の気持ち、ちょっとわかる」 物問いたげな視線を受け、勇希は微笑する。 「たとえただの噂だとしても、なおちゃんと恋人って言われて、嬉しかったんだよ」 「そうなのかな……」 「多分ね。そうなんだろうと思ったから、あたしも黙ってたの」 「……本当か? ただ面白がってただけじゃ……」 疑わしげに直人が言うと、勇希は小さく舌を出した。 「最初はね」 「やっぱり」 「だけど、そんな些細なことさえ嬉しいときって、あるよ」 「……そうかもしれないな」 直人は頷く。 勇希が笑いかけてくれる、そんな当たり前に思えたことが、どんなに幸せなことなのか、今ならよくわかった。 「あたしね、あの娘が噂を否定しないって聞いたとき、初めて共感覚えた」 「なんだよ。じゃ、それまでは、嫌いだったのか?」 「嫌いっていうわけじゃないけど……」 極端に走る問いかけに、勇希は苦笑めいた表情を浮かべる。 「うらやましかった」 直人は首を傾げた。 勇希が澪をうらやむ必要など、あるのだろうか。 「あたしが持ってないもの、いっぱい持ってるから」 「そうかなぁ」 「見た目も性格も、いかにも『女の子』って感じで、かわいいでしょ」 勇希の言いたいことも、わからないではない。 だけどそれは、戦闘機と旅客機を比べて、「こっちのほうが速く飛べる」「こっちのほうが大勢の人を運べる」と言い合っているようなもので、意味がないことのように直人には思える。 「……まぁ、お前とは明らかに違うタイプなのは認めるよ」 勇希には勇希のいいところがあるのだから、と言えればいいのだけど、それを照れずに口に出せるようになるには、直人には一月では全然足りなかった。 案の定、真意は伝わらなかったようで、勇希はクスッと笑う。 「気を使ってくれて、ありがと」 「そんなんじゃないって。もう少し、自信持てよ」 「……どういう意味?」 「いや、その、なんて言うか……」 勇希にじっと見つめられ、直人は言葉を濁した。 それでも勇希は直人を見つめ、次の言葉を待っている。 瞳に、ほんのわずか、期待を乗せて。 「お前だって、十分、その、なんだ……」 「なんだ」 「そういうことだ」 「どういうことよ」 「もう、わかっただろ?」 「あん、ダメ。ちゃんと言ってくれなきゃやだ」 勇希は手を伸ばし、直人の袖をつまんで軽く二、三度引っ張った。 こいつ、汚ねぇ、と直人は思う。 そんな表情で、そんなことをされて、黙っていられるわけがない。 直人は口のなかでもごもごと「かわいいって言うか、綺麗って言うか……」と呟いた。 それだけで、ちゃんと期待に応えられたはずはないだろう。 だけど勇希は笑みを浮かべ、「わかった」と頷く。 しかし、直人が安堵する間もなかった。 「いいよ。あ・と・で」 「後で!?」 「うん。た〜っぷり追及するからね。覚悟しといて」 「勘弁してくれよ……」 直人がぼやくと、勇希は妙なシナを作る。 「だってぇ、あたし、不安なのぉ。なおちゃん、モテるんだもぉん」 「……綾小路さんの件は例外中の例外だろ」 「とかなんとか言っちゃってぇ。それから一月も経たないうちに、謎の美少女を家に連れこんだのは、どこのどなた?」 うっ、と直人はうめいた。まさにやぶ蛇。 この七月から八月にかけて、直人の家には一人の同居人がいた。 瑞雲しずく、という名前の、ちょっと天然ボケ入った綺麗な女の子だった。 どういう理由があったのか、結局なにもわからずじまいだったけど、半ば以上強引に直人の家に居候していて、それを勇希に黙っていたことが、二人の大ゲンカの原因にも、一歩前へ進むきっかけにもなったのだった。 「そ、そこまで絡むか?」 「いやぁ〜、あのときはショックだったなぁ〜」 勇希は大げさに嘆いてみせる。 その件に関しては、直人が全面的に悪かった、ということで二人の間ではケリがついた。 当然、それを持ち出されると、直人は平謝りするしかない。 「悪かったって……」 「まさか、なおちゃんが、あたしに黙って女の子を家にかくまってたなんて」 「いや、だからさ。俺だって男なんだから。かわいい女の子に『お願い』とか言われりゃ、断れないよ」 もちろん、そんな言い訳に、勇希は耳を貸さない。 勝手に、オーバーな抑揚までつけて、盛り上がる。 「若い男女が一つ屋根の下で二人っきり。あぁ、一体なにがあったんだろう……」 「なにもなかったって……。俺にそんな度胸ないのは知ってるだろ」 「……それもちょっと情けないとか思わない?」 「なんだよ、手ぇ出してたほうが良かったのかよ」 「良くない」 即答で、勇希はむくれた。 それなら最初から言わなければいいのに、とも思うけど、勇希のそんなところをかわいいと感じる自分を、直人は知っている。 「そりゃ、泊めてやったのが、純粋な親切心だけだったとは言わないけどさ。あまり家にいないから、そういうチャンスもなかったし……」 「チャンス!?」 直人が口を滑らせると、すかさず勇希が眉を吊り上げた。 「こ、言葉のあやだよ……」 「やっぱり、今度しずくに会ったら、その辺、きっちり聞いとかなきゃ」 勇希は憤然と腕組みをする。 しかし、直人が「しずくに会ったら、か……」と呟くと、肩を落とした。 二人が「ただの幼なじみ」という関係に終止符を打ったあの日、しずくという名の少女は姿を消し、帰らないままだ。 直人や勇希と同じクラスに転校してきたはずなのに、クラスメートの誰一人として彼女のことを覚えていない。 それどころか、担任に頼みこんで調べてもらっても転入の記録すら残っていない。 その事実は、再会の可能性の低さを物語っているように、二人には思えた。 「……どこ行っちゃったんだろうね、本当」 「あぁ、どうしてるんだろうな、今……」 勇希は意識してのことかどうか、イヤリングに手を添える。 それは、しずくがやってきて間もない頃、「仲良くなれるように」と一組のイヤリングを勇希と彼女の二人で片方ずつ分けあったものだ。 瑞雲しずくという女の子が存在した、証拠の一つ。 「早く戻っておいでよ、しずく……」 勇希はぽつりと呟いた。 他の誰も信じなくても、二人は信じている。 瑞雲しずくという女の子がいたことを。 そして、いつの日かまた会えることを。 「それにしても、しずくと言い綾小路さんと言い、今年の夏はとんでもない女難だったよな、俺」 直人は、少し湿った雰囲気を変えようと、おどけてみせた。 勇希もそれに応え、微笑を漏らす。 「そうだね。なんか、妙にモテたよね。一生分の運、使い果たしちゃったんじゃない?」 「いや、もしかしたら、これからモテまくる、その第一歩だったのかもしれない」 「ほほぉ……。あたしじゃ、不満だと」 すごんでみせる勇希に、直人は手を合わせた。 「ごめんなさい、すいません、もう言いません」 「ん、今回は見逃してやろう」 「ありがとうございます」 二人は顔を見合わせて笑う。 直人は照れ隠しに空を見上げ、自分なりの表現で、今の気持ちを口にした。 「……まぁ、俺に女運は、もういらないだろうし」 「わかんないよぉ〜。もしかしたら、あたしにも、すっごい素敵な人が現れるかもしれないし」 直人が思わず振り向くと、勇希は腕を組んでもっともらしく頷いてみせる。 「なおちゃんとこにしずくが来たみたいに、あたしんとこにも、謎の美青年が降ってくるかもしれない」 黙りこむ直人に、勇希はいたずらっぽく笑った。 「あ、不安になった」 それを認めるのは癪で、かと言って強がる気にもなれなくて、せいぜい不機嫌そうな顔を作って直人は言う。 「変なこと言うなよ」 「ウソ。ちょっと意地悪したくなっただけ」 「いじけてやる」 自分ではしかめっ面を作ったつもりだけど、どこまで成功しただろう。 頬のあたりは、しっかり緩んでいたような気がした。 「さっき、あたしをホラー映画に連れて行こうなんてした、お返しだよ」 思わぬところを突かれ、直人はしどろもどろになりながら、言い訳をする。 「いや、だってそれは、あの、話題作だし……」 「あたしが苦手なの、知ってるくせに」 口をとがらせる勇希に、直人は降参した。 「……苦手だからだよ」 「なにそれ。嫌がらせ?」 「そうじゃなくて。ホラーに連れてっても、怖がってくれなかったら意味ないだろ」 「……もしかして、『きゃ〜、怖〜い』って展開を期待してたわけ?」 呆れ半分に勇希は笑う。 直人は渋々、それを認めた。 「正直に言うと、そう」 「もう……。わざわざそんなことしなくたって、あたしは……」 「わかってないな。怖がってるところが見たいんじゃないか」 子供っぽい保護欲と言われるかもしれないけれど、怖がって抱きついてくる勇希、というのを想像すると、かなりかわいいと思う。 そんな男の妄想を、勇希は一言で切って捨てた。 「いじめっ子」 「『ちょっと意地悪したくなっただけ』」 「マネしないでよ」 「だから、さっき勇希も変なこと言っただろ? おあいこにしようぜ」 その申し出に、勇希はそっぽを向く。 「そんなことない。絶対、なおちゃんのほうが意地悪だ」 「いや、どっちかって言うと勇希のほうがひどいだろ。俺を見放すって言ったようなもんだぞ」 「嫌いな映画に無理矢理誘うほうがひどいよ」 「誘っただけだよ。イヤだって言うから、やめたじゃないか」 「あたしだって、冗談で言っただけだもん」 「言っていい冗談と悪い冗談があるんじゃないか?」 少しムキにさせられていることに、直人は気づかなかった。 そこへ、不意打ちで勇希が柔らかい微笑を向ける。 「……ね」 勇希の顔を見慣れている直人でさえ、あるいは見慣れている直人だからこそ、一瞬、言葉をなくしてしまった。 「こいつ、こんなに綺麗だったっけ……?」 本人に向かっては、口が裂けても言えない感想が、頭をよぎる。 見惚れかけた自分を取り繕うように、ことさらぶっきらぼうに直人は聞き返した。 「ん?」 だけど勇希は、無防備な眼差しをぶつけてくる。 「そんなに、あたしのことなくすの、怖い?」 まともな答えなど返ってこないのを知っているはずなのに、勇希は穏やかな声で問いを重ねた。 「冗談でも、そういうこと言ってほしくないほど、大切?」 「……本当、やなやつだよな、お前……」 「なんで?」 「わかってるくせに、いちいち確認したがるんだから」 勇希は含み笑いを漏らす。 「いいでしょ。どっち? イエスかノー」 求める返事をそこまで簡単にしてもらってもなお、直人は黙っていた。 勇希はそっと自分の手を直人のそれに重ねる。 「あたしはね、なおちゃんのことなくすの、すごく怖いよ」 「…………」 「冗談でも、別れるなんて言ってほしくないほど、大切」 まず自分が口にして、勇希は重ねた手を軽く揺すった。 「ほら、あたしは言ったよ」 「……イエス」 やっとの思いでそれだけ答えた直人に、勇希はほんのり頬を上気させ、本当に嬉しそうな目をして小さく頷く。 そんなにも喜んでくれる勇希に、自分の意思表示は少しささやかすぎる。 直人にもそれはわかったから、照れ隠し満載ではあったけれど、少しだけ追加してみた。 「自慢じゃないけどな」 「なに?」 「俺は、綾小路さんにもしずくにもなびかずに、勇希を選んだ天下無敵の大バカだぞ」 「本当、バカだよね」 間髪入れず、感心したように同意され、直人は少しだけムッとする。 勇希こそ、相手はいくらでもいたはずなのに、大して取り柄のない自分を選んだくせに。 「お前にそれを言う資格はない」 「そんなことないよ。あたしには、なおちゃんと比べる相手がいなかったもん」 その意味を直人が噛み砕くのに、少しだけ時間がかかった。 「……なんか今、さらりと、ものすごく嬉しいことを言われた気がする」 「まぁ、お互い、自分の気持ちに気づかないほどのバカじゃなくて、良かったよね」 微笑む勇希から直人は目を逸らし、意味もなく通りの向こうを見やる。 「本当、ストレートだよな、最近……」 「そりゃぁ、だって。十六年物だから」 「ワインじゃあるまいし、なにが十六年物だか……」 おどける勇希に、直人はため息をついてみせた。 もちろん、勇希はまるで堪えない。 「もう少しで十七年だよ」 「わかってる。ちゃんと考えてるよ」 一が四つ並ぶ勇希の誕生日まで、もう二ヶ月を切っている。 今までと全く意味合いの違うプレゼントになにを選ぶかが、目下のところ、直人の一番の気がかりだった。 「うん。楽しみにしてる」 「楽しみにしとけ」 ふと一息つくと、どちらからともなく時計に目をやる。 「そろそろ、行こうか」 「うん」 支払いを済ませて直人が戻ると、勇希は自然に寄り添い、腕を絡めた。 そのまま二人は歩き出す。 「……そう言えばさ」 「なに?」 「その服。新しいやつ?」 「あ、気づいてたの?」 「うん。見たことないな、と思って」 「そっか。なおちゃんも、あたしの服を気にしてくれるようになったんだ」 からかうような口調を、幸せそうな笑顔が裏切っている。 勇希はそっと、直人の肩に頭をもたせかけた。 |