![]() ルシタニア号の撃沈(アニメ) |
第一次世界大戦(2) |
戦車・飛行機の登場 ソンムの戦い
1916年7月から11月にかけて、北フランスのソンム川流域で、イギリス・フランス連合軍がドイツ軍に大攻撃をかけた。しかし、ドイツ兵も重機関銃で撃ちかえしたので、にらみ合い、殺し合う状態がえんえんと続いた。戦線は動かなかった。だが、戦死者の数だけはうなぎ登りにふえ続けた。塹壕戦がくりひろげられるソンムの会戦で、イギリス軍は新兵器のタンク(戦車)をはじめて使用した。水を運ぶタンクだとごまかそうとして、この名前が付けられた。キャタピラを回して敵の塹壕を乗り越え、鉄条網を踏み破って前進する戦車には手榴弾も役立たない。やがてイギリス軍の戦車の1台が、ドイツ軍に捕獲されると、ドイツ軍にもたちまちタンクが現れた。
ソンムの戦いではまた、飛行機が戦闘に参加し、飛行機による空中戦がはじめて行われる。飛行機は大戦が始まった頃はもっぱら偵察用に使われ、敵味方がすれ違うときはたがいにハンカチをふってあいさつしたとさえいわれている。そのころは飛ぶのがやっとだった。それが1、2年で機関銃で武装した戦闘機が現れ、空中戦が始まった。 ソンムの戦いだけで、日露戦争で日本軍が費やした砲弾の20倍にあたる約2000万発が消費された。死傷者はイギリス軍が約40万人、フランス軍が約20万人、ドイツ軍が約50万人、双方合わせて、110万余りというおびただしい数にのぼった。
潜水艦の登場 ルシタニア号の撃沈
1915年5月1日夜、イギリスのキュナード汽船会社のルシタニア号は、イギリスのリバプールへ向けて、ニューヨークを出港した。同船には、乗客1250人(そのうちアメリカ人179人)と船員600人あまりが乗り組んでいた。
出港前に、駐米ドイツ帝国大使館から、イギリス近海を航行する連合国の船は、商船であろうとも、攻撃が行われるという警告が発表されていた。しかし、ほとんどの乗客は、たんなるおどかしと思っていた。5月7日明るくおだやかに晴れた昼下がりだった。乗客のほとんどは、ちょうど「おやつ」をすませ、デッキに立って、ルシタニア号がアイルランドの海岸に近づくのをながめていた。その時突然白い1本の線が青い海をつっきって船にせまってきた。その直後の様子について攻撃したドイツ潜水艦Uボートの航海日誌に次のように記されている。
「1915年5月7日、午後3時10分。発射、ブリッジ後方の舷側深く命中。異常に大きな爆発音、きわめて強烈な爆発の炎。火災発生、濃煙が高いブリッジを包む。船はただちに停止し、急速に左舷に傾き、同時に前部から沈みゆく。短時間に転覆するもよう。船上に大混乱発生。多くのボートが満員で、逆さに落ち、船首や船尾から海水に入り、すぐさま満水になる。午後3時25分。汽船はもはや短時間しか浮いていられないようすであったから、20mまで潜航し沖の方へ航進。ともあれ、私には、助かろうとひしめいている人々の群に、次の魚雷を発射することはできなかった」
こうして、ルシタニア号の沈没によって、1198人(アメリカ人128人)の命が失われた。ドイツ潜水艦は、中立国アメリカの市民も乗る非武装の商船を事前の警告もなく、また救助もせず、撃沈してしまった。
空襲はじまる 総力戦・消耗戦
1915年5月31日、ドイツはツェッペリン飛行船を使って、軍用飛行船団をつくり、ロンドンに飛ばせた。夜になってロンドン上空にあらわれた飛行船団は、人口密集地区をめがけて爆弾を投下した。歴史上はじめての夜間空襲である。やがて、飛行機による都市の空襲が始まった。いちだんと運搬能力の大きい爆撃機が作られると、都市爆撃による市民の犠牲はいっそうふえた。戦場から遠く離れた市民が大量に殺戮されるということは、それまでの歴史にはなかった。武器も防備もない市民を攻撃することは、国際法でも許されないことであった。では何故、違反を承知で、市民を無差別に殺戮したのだろうか。それは、第一次大戦から、戦争が総力戦という性格をもち、戦争の勝敗は、戦場での戦いだけでなく、後方の国民による軍事生産力との総合できまるようになったからだ。このため、相手国の総合的な戦闘能力を全体にわたって消耗させようという消耗戦略がたてられるようになった。
アジア・アフリカも巻き込んで
戦争が長期化すると交戦国は、植民地・従属国に漸進的に自治権を与えることを表明してそのための条件として人的・物的な資源を戦争に動員しようとした。イギリスはエジプトから100万人以上の労務部隊を、インドから80万の兵士と40万の労務者を提供させた。インド人は10万人の死傷者を出した。フランスは、ベトナムから15万人の労務部隊を出させた。中国も10万人以上の苦力部隊をヨーロッパ戦線に送った。また植民地・従属国には食糧や原料・資材の提供が強要されたうえ重税をかけられたり、多額の国債を買わされたりした。
ドイツ領東アフリカ(現タンザニア)とイギリス領東アフリカ(現ケニア)とは南北にとなりどうしの国だった。大戦が始まると両国の白人植民者たちも母国のために戦った。兵隊はアフリカ原住民が徴兵される。多くの場合黒人たちはわけもわからず強制的にかき集められた。ヤリの代わりに旧式の銃をかつぎ、上半身裸のふだんの姿に軍靴だけをはいた黒人兵。彼らは数千人を単位とする部隊に編成され、それを白人の将校が指揮した。植民地にされる前は、同じ東アフリカの原住民だった人たちが、今はドイツ側とイギリス側との敵味方に分かれて戦わされるはめになったのだ。東アフリカ戦線ともいえるこの戦争に合わせて16万人のアフリカ人が動員された。戦場となったドイツ領東アフリカの住民は村を焼かれ、家を壊された。アフリカ人兵士は戦死しても何の手当も保障も支給されなかった。死傷者の大半がアフリカ黒人で、自分とはまったく無関係な戦争のために死んでいった。しかも戦争の結果は、ドイツ領東アフリカを統治する植民地庁舎の旗がドイツの国旗からイギリスのユニオンジャックに変わったにすぎなかった。アフリカ人の払った大きな犠牲は少しもむくわれなかった。

第一次大戦の捕虜墓碑