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河野東馬―。彼は天保6年(1835)、網干の生まれ。11歳上の兄に、河野鉄兜がいた。 鉄兜は、網干で医師を開業しながら、儒者としても名を馳せていた。嘉永4年(1851)には、林田藩9代目藩主建部政和の招きで、藩校敬業館の教授となっている。 漢詩『吉野懐古』は、鉄兜の代表作に数えられ、各地で活躍する勤王志士の精神的な支柱となっていた。 |
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山禽叫び絶えて夜寥々 限りなき春風恨み未だきえず 露臥す延元陸下の月 満身の花影南朝を夢む 東馬は、幼いときから兄の感化を強く受けたのか、早くから勤王の志を持っていた。18歳になった嘉永5年(1852)、兄とともに諸国行脚の旅に出ている。 まず、讃岐の丸亀に出た。 丸亀藩は当時、もと龍野藩主京極家の所領で、幕末までは網干を含む揖保郡南部に一万石余の所領があったというから、鉄兜・東馬兄弟にとっては、つい気軽に立ち寄れる隣国だったのだろう。 丸亀から船に乗って、浪速へと向かった東馬は、高槻、倉敷と山陽道を歴訪し、九州へ。豊前、豊後、筑前、肥前、佐賀、長崎、熊本と諸国を回った。 ちょうどそのころ、海の向こうの清国で阿片戦争が起こっていた。鉄兜は医者の立場から、その戦争に深い関心を寄せている。 ――阿片などという麻薬を使って、不当な開港と通商を清国に迫るイギリスという国は、いったいどんな国なんだ。 幕末の激動は、嘉永6年(1853)、ペリーの浦賀来航から展開されるのだが、兄弟はこの時期、各地で指導的な役割を果たす志士たちと交友を深めることで、その志を高めようとしていた。 |
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東馬は文久3年(1863)8月、中山忠光卿を盟主とする天誅組に参加した。 ――兄鉄兜が病に倒れ、どうしても密議に加わることができない。 そんなことを理由として、ひとりで参加を決めていた。 続いて10月、長州の七卿落ちのひとり、沢宣嘉を立てての生野義挙。東馬は、その計画にも進んで参加した。 ところが、この生野義挙。先の天誅組による大和義挙失敗の報の中で、激しく賛否両論が闘わされ、鉄兜の挙兵時期尚早論と川上弥市の挙兵派が衝突した。 川上らは、死を決意して生野での挙兵に踏み切る。 10月12日未明、代官所を無血占領するや、農民は続々と集まり、その数は即日2,000人を超えたという。 しかし、幕府の包囲作戦に敗れ、川上は討死した。 そして元治元年(1864)7月19日、京都蛤御門の戦い。 東馬は門弟の安東鉄馬らとともに、久坂玄瑞の配下として参加するのだが、不運にも銃弾に倒れた。 いよいよ7月23日、勅命下って、長州征伐。東馬は、偽名を使って諸国を転々、敗残の身を但馬に隠すのだが、出石藩の手によって囚われの身となった。 同じころ桂小五郎は、山陰路を西へ逃れて城崎温泉のつたやに、愛人の幾松と身を隠していたという。 慶応3年(1867)12月9日、王政復古の勅命が布告。 慶応4年(1868)正月3日、鳥羽伏見の戦い。4月11日、江戸城開城。そして9月8日、明治元年と改められた。 東馬は、郷里の網干に帰ってきた。 新政府樹立に際し、網干に帰っていた東馬に太政大臣三条実美から民部省判事としての召出しがくるが、網干に私塾稲香村舎、いわゆる誠塾を開設し、門弟約500人を教育していた東馬はこれを辞退した。 その門弟の中には、後日、枢密院へ出仕する神楽江薫、のちの衆議院副議長を務めた肥塚龍など数多くの要人がいた。 東馬と一諸に議定されたものの中に、伊藤博文や大村益二郎らがいて、伊藤は当時25歳、東馬と同じ民部省判事で、大村は軍務局判事に就任していた。 |
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明治45年6月10日、東馬、他界。享年78。同年には塾も閉鎖された。 網干にある塾跡を訪ねてみると、小さな竹を編み重ねて壁状にし、竹槍で押える単純な垣根の造形が客を迎えていた。 小さな瓦葺きの平屋。入り口の石柱に寄り添うように、サルスベリの大木が秋風に揺らいでいる。 庭の一角に石碑が立っていた。 ――稲香村舎誠塾跡。 網干方面の取材のたびに随分と立ち寄った記憶があったが、造形美の渋さに共感できる年齢でなかったことが残念で仕方がない。 しかし、そのときの印象だけは記憶の底深くに澱み、そして久しぶりに訪ねた塾跡は初夏の陽射しが照りつけていて、垣根の向こうの若葉が目に染みるようだった。 古めかしい家屋の佇まいは、家紋の付いた紋付き姿で写された東馬の記念写真に、面影が重なってくるように思える。 ――苔むした踏み石が、相変わらず明治を匂わせているな。 |
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