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   タコに骨なし ナマコに目なし
   ベニ屋のおっさん 首がない

 維新を目前にして、ひとつの首が飛んだ。
 深夜の姫路城下、橋之町。確かにそこで白刃が舞い、鮮血が散っていた。






姫路藩勤皇志士終焉の地碑。
元治元年(1864)12月26日処刑され、大正5年(1916)、もと藩の獄舎があったこの地に記念碑がたてられた。志士たちの血と涙を吸った処刑場は、現在は児童公園に変わって、大きな石碑を残している。





 ――天誅。
 翌日になって大日河原に晒された生首の主は、鍵町紅粉屋の主人又左衛門。手を下したのは、河合屏山、江坂行正ら7人の若い勤王派の面々だった。
 酒井家の御用商人として苗字帯刀を許されるほどの6人衆でありながら、筆頭家老の高須隼人らと組んで米を買占めるなど、悪くどい商売に手を汚していた児島又左衛門政光を、藩内左幕派に通じる奸賊とみての暗殺だった。
 ――天満西瓜の真っ赤のを、見せてやる。
 又左衛門が、網干今在家の田畑見廻りをする。その帰りを待ち受けての暗殺だった。
 首を風呂敷に包み、威徳寺町の愛妾おたきの所へ持ち帰って、その顔をゴロリと転がしていた。

 文久3年(1863)1月12日、姫路で起きた紅粉屋暗殺事件は、国論を二分する勤王と佐幕の対立が、藩内にも及んできていることを強く印象づけただけでなく、城下の人々を戦慄させた。
 尊王派の中心をなしていたのは河合寸翁の婿養子屏山、好古堂教授の秋元安民、好古堂肝煎役の河合惣兵衛らだったが、彼らの多くが姫路藩の上士階級だった。
 仁寿山校開校の影響もあってか、尊王思想は藩内にも着実な広がりを見せ、その指導者となっていた屏山は、家老職を勤め上げるほどの人物だった。
 少なくとも元治元年(1864)までは、藩論の主導権は尊王攘夷派の志士が握るところで、佐幕派の勢力を凌駕していた。
 それではなぜこのような人たちが、どのようにして勤王運動に飛び込んで行ったのか、その心の傾斜を探ってみよう。





 嘉永6年(1853)、ぺリーのアメリカ艦隊が浦賀に来航してきた。姫路藩にも江戸警護の要請がきて、志士たちは勇躍果敢に出兵していた。
 万延元年(1860)、桜田門外の変。水戸浪士が、大老井伊直弼を殺害した。
 翌、文久元年(1861)2月、ロシア艦隊が対馬に接近してきた。
 5月、水戸藩士がイギリス人を襲撃。
 さらに2年(1861)1月15日、江戸城坂下門外の変。水戸の攘夷派が老中を襲う。
 4月には島津久光が、藩兵1,000人を率いて上洛した。
 寺田屋事件が起きる。ついで8月、生麦事件。薩摩藩士の島津久光が、江戸からの帰国の途中、騎馬のイギリス人が行列を乱したとの理由で3人を殺傷した。

 ほぼ同じころ、姫路城下では酒井家の姫路所替え100周年の祝賀行事と、藩主と将軍の姪との華燭の式典で、藩内は二重の祝事に酔っていた。
 ――激動の世の中だというのに、藩上層部の連中はいったい何をやっているのだ。
 そんな思いが、彼らの心を揺さぶり続けていた。
 松下源左衛門の次男として生まれ、3歳のとき寸翁の養子となった屏山は、ことあるたびに藩主忠績に直談判し、熱っぽく尊譲を説いていた。
 ――祖(おや)を思うごとく、国を思え。
 仁寿山校という自由な雰囲気の中で育ち、頼山陽、合田麗沢、村田継儒、林述斎、大国隆正らと広く深く親交を持っていた屏山は、日ごろから寸翁にこう教えられていた。
 ――実に得がたきは人材。人材こそは国の宝なり。





 そんな彼らにも、出番がきていた。
 文久2年(1862)、忠績が京都所司代補佐に就任したのを受けて、風雲急を告げる京都御所の警護という名目で、姫路藩士の一団が入洛することになった。
 河合屏山、河合惣兵衛、秋元安民、河合伝十郎など志士十数人が、この一団に潜り込んで京に随行した。
 御所の警備に当たる、そんな職務を装って、他藩の志士たちと交わっていくには格好の機会だった。
 幕府の後見人、一橋中納言が京に入ると、河合惣兵衛は萩原虎六、伊舟城源一郎、江坂元之助、松下鉄馬、市川豊二、近藤薫ら6人を伴って姉小路公知を訪れ、幕府の攘夷について生命をかけて促した。
 一方、河合伝十郎、江坂栄次郎、武井守正、永田伴正ほかの姫路残留組にとっても、城主に尊譲を説く苦しい日々が続いていた。
 一時は隠居中の屏山を、執政に復帰させるなど勤王派の言動にも寛容な様子を見せた忠績だったが、しかし藩論は既に決していた。
 ――われら累世、徳川の臣として、徳川家とともに存亡を共にすべし。
 この決定が、遂に破局を迎えることになるのだが、6月には老中首座、2年後には大老職に就任するなど幕府の中枢へと突き進んでいく忠績と、惣兵衛ら勤王派との距離はますます遠ざかっていくように見えた。
 そんな中での、政治テロだった。

   タコに骨なし ナマコに目なし
   ベニ屋のおっさん 首がない

 紅粉屋の首を刎ねた。
 児島又左衛門の屋号は、紅粉屋といい、こんな里謡が生まれたのは、この一件によってだった。





 8月に入ると、京都で姉小路公知、暗殺。勤王派の巻き返しが始まった。
 三条実美以下の七卿が西国へ走る。いわゆる七卿落ち。
 姫路藩主は、相変わらず幕命に従って飾磨津や室津、福泊、高砂などに砲台を築いていた。
 9月、河合惣兵衛ら姫路藩の志士たちは、京都退去を命じられる。
 10月、生野義挙。
 明けて元治元年(1864)4月、河合屏山が江戸巣鴨の染井村に幽閉された。
 ――脱藩。
 河合伝十郎、江坂栄次郎の2人の脱藩を契機として、筆頭家老高須隼人は攘夷に沸騰する藩論の沈静化に出た。
 養父、河合惣兵衛を禁錮に処し、と同時に同士たちにも追及の手を伸ばした。
 河合、江坂は、9か月の逃亡生活の末に捕らえらる。
 ――何事も自分が指示した。
 激しい拷問に耐えながらも河合伝十郎は、こう言い続けるのだが、それは空しい主張に過ぎなかった。
 志士たちは一斎に囚らえられ、船場川近くの西魚町の獄舎に送られた。

 寒風吹き荒ぶ12月26日の早朝、獄使が藩の沙汰を伝え、刑は即日に執行。元治元年(1864)甲子の年のことで、世にいう、甲子の獄だった。
 ≪斬首の刑≫ 河合伝十郎(24)、江坂栄次郎(23)
 ≪自刃の命≫ 河合惣兵衞(49)、松下鉄馬(30)、伊舟城源一郎(35)、市川豊二(24)、萩原虎六(23)、江坂元之助(27)
 ≪家名断絶終身禁獄の刑≫ 永田伴正、武井守正、三間半二、西村武正、近藤啓蔵、山口太藤平
 ≪蟄居謹慎の命≫ 河合屏山、佐久間秀修、宇津木謹吾、本多正知、片山龍雄、河合元蔵、河合三五平、斎藤五平、根岸謹七郎、細井度常、村田行中、坪井岨次郎、田所千秋、出淵新吾、砂川貫一郎、北村義貞、河合清次郎、山本正蔵





 河合、江坂の2人は、脱藩ゆえに首切られた。
 河合伝十郎は拷問によって同志の名を問い詰められたが、一言も洩らさなかったという。境野求馬の次男として生まれ、見込まれて河合惣兵衛の養子となっていたが、残る辞世の歌が壮絶だった。享年24。
 今にして思えば、だれもが驚くほどに若い。

   此のままに身はするとも生きかはり
   はふり殺さん醜(しこ)の奴ばら
 
 脱藩ゆえに自刃を許されず、斬首の刑に処せられた江坂栄次郎。同士の中では最年少だった。享年23。
 刑に望んで大声で吟じたという。

   ますらをの身は草はらに埋むとも
   何かはるべき大和たましい

 松下鉄馬は、松下家伝来の刀を持って自刃に望んだ。喉を刺すこと数回。それでも絶命できなかったという。享年30。
 仕方がないので、臨席の藩士の刀を請い受け、喉を貫いて果てた。

   国のため君のためと祈る身の
   この真心は神ぞ知るらん

 生き残る父と子へ悲愴な歌を残した、伊舟城源一郎。享年35。

   露の身のかくし消しても父と子に
   そひてや世々の君を守らん

 無外流剣術の使い手として知られていた市川豊三。たえず河合屏山のかたわらにあってその身を守ったという。新しい日本が生まれるための、覚悟のほどが痛感される歌を残した。享年24。
 死に望んでの彼の沈着さは、今日まで伝えられている。

   露となり草葉の下に消ゆるとも
   赤き心を世々に残さん





 自刃を命じられた萩原虎六。享年23。
 母と妹2人に遺書を送っていた。

 せいどの、しかどの。この歌、よくよく御まもりなされ候。
    女郎花わがしめゆひし一本の
    ほかに心はうつさざらなん  
 御母人様
    うたてやな道あるみちに迷う身の
    死出の山路の行へをぞ思ふ

 女郎花、わがしめゆひし…は、妹たちよ、私が作った一筋の道は…というような意味で、うたてやな…は、うつり進む…といった具合なのだろう。
 萩原は、死に望んで藩吏に言い残した。彼の意志を汲んでのことかも知れないが、志士の多くが景福寺山上の墓地に葬られていた。

 われ死せば、眼をえぐり、これを姫路城の西門にかけよ。
 勤王の志、その多くが景福寺山上、西より来たれり。
 この城に入るを見ん。

 志士受難の日に自分は自刃し、実弟が斬首の刑に処せられた江坂元之助。享年27。
 松の緑の節操に、志をかけた歌だった。

   降りつもる雪にみどりは埋むとも
   融けてあらはる千代のまつがえ

 首領役の河合宗元、通称、惣兵衞でさえ享年49。
 死に臨んで一服の茶を所望したという。おもむろに啜り終ってから辞世をしたため、喉をかき切って果てた。

   ひをむしの身をいかでかは惜しむべき
   ただをしまるる御世の行く末

 ひをむし…とは、朝に生まれ夕べには死ぬというかげろうのこと。心の揺れ具合がまざまざと読みとれる、絶詠だった。





 いずれも、若い勤王派の無念の思いが伝わる壮烈な最期だった。
 志士たちの血と涙を吸った処刑場は、白鷺橋の南方で福中橋のすぐ南、魚町の西端にあって、戦前には武徳殿、現在は児童公園に変わって大きな石碑を残している。
 ――朝の散歩に。
 食パンを一片持って、大蔵前児童公園に行ってみた。
 ――公園の鳩に。
 公園は、欅や桜、銀杏などが小さな黒い森を形成していて、いろんな鳥がいるようだった。
 まず鳩が寄ってきた。パンをちぎって放り投げると、たちまち樹間から襲いかかるように舞い下りてきた。
 ――鳩は貪欲な鳥だ。
 ところが、その鳩の群れがパッと散った。見渡せば鴉が一羽立っていた。
 ――鳩は鴉が恐いのだろうか。
 鴉は放り投げたパン切れを咥えてはいたが、すぐには食べない様子だった。
 かわいそうになったので、散った鳩たちのほうへパン切れを放ってみた。するとまた鴉がぴょんと飛んできて鳩を散らし、また一切れ咥えた。
 これでふた切れ咥えたことになるのだが、まだ鴉は食べないでいるようだった。
 ――もっと放るのを待っているのだろうか。
 大きな声で鴉を追ってみたが、近くの欅の大木、その枝の先端に止まって見ているだけだった。
 鴉はまだ食べたようにはなかったが、仕方がないので、持ってきたパンの全てを放った。すると、やっと食べ始めたようだった。
 ――少しづづ食べないで、みんな咥えてからゆっくり食べようというのだろうか。







姫路藩勤皇志士の墓石。
もと藥師山の山腹にあった12藩士の墓石が、船場本徳寺の本堂裏に並んでいる。どの墓も名前の上に大きく姫路藩士と書かれているだけで、ほかに一字たりとも刻まれていない。そんなところが清々しい。





 ――鴉は嫌われている。
 人が山野を荒らすから、仕方がないので人里近くまで下りてくるのだろうが、濡羽色の見事な黒にはモノクロームの魅力があった。
 全身がまっ黒なのに口の中だけが赤い、女性の唇の赤のように性的で妖しかった。
 ――カァカァ、カァカァ。
 虚空にこだまするその哀しみの裏側には、沈黙が張り付いているのかも知れない。
 まるで深い河でも見ているように。

 欅の大木も日ましに色づいて、梢はもうすっかりと黄葉していた。
 先ほどの鴉を見上げていたら、赤味がかった黄色の葉が1枚、目の前に落ちてきた。
 ヒラリと舞うつもりだったのだろうが、バランスを崩してぎこちなく落下した。
 ――葉っぱ一枚一枚、デザインが異なるように、一枚一枚、ジャンプの仕方が違う。
 生涯でただ一度の葉っぱのジャンプだろうが、命がけの冒険を終えて足元に横たわった赤味がかった黄色い葉っぱは、いかにも満足気に見えた。

 地内町にある船場本徳寺には、屏山ら12藩士の墓石が並んでいた。晩秋の陽差しが、松の枝越しにまだら模様を描いている。
 河合伝十郎、江坂栄次郎、市川豊三、松下鉄馬、萩原虎六。
 どの墓も名前の上に、大きく姫路藩士と書かれているだけで、ほかに一字たりとも刻まれていない。
 そんなところが清々しくて、涙がこぼれた。





 徳川との関係深い姫路藩の中にあって、彼らは長州や薩摩のように武力で藩政を奪取できなかった。
 藩論をまとめる上げることはもちろん、勤王派として歴史の表舞台で活躍することも容易でなかった。
 結果的には、家老河合屏山に従う一派として処分されてしまう。
 後世の人々は、これら一連の出来事を『甲子の獄』とも、『姫路の党獄』とも呼んだが、彼らの心の中には、新しい時代とその動きを取り入れたくてもできなかったもどかしさがあったに違いない。

 姫路城が東望できる景福寺山中にも彼らの小さな墓があって、その山頂から望む姫路城の大天守は、弱い西陽を受けてか全体がクリーム色に染まっていた。
 外光の変化につれて大天守の白い壁が、微妙にその色合いを変えている。眺める眼差しの感情の起伏につれて、たえず変っているようだった。
 ――総漆喰塗込造。螺旋式縄張。
 たいていの姫路城のガイドブックには、城郭史上でも極めて稀なこの城のことを、繰り返し繰り返し述べられていた。
 景福寺山頂から船場川伝いに目で追っていくと、その螺旋式縄張りのおおよそが見てとれる。
 外濠がわりの船場川が南に下がり、十二所神社のところで東に折れ、さらに北条口で北折。五郎右衛門邸の東を迂回して、野里門に至る。
 ――これが、男たちの国だった。
 ここから飛び立とうとして、もどかしくも消えていた。
 維新史に輝かしい1ページを残すことなく、彼らは散った。

 男たちが最期に詠んだ歌は、国や親を思う心情に溢れているというだけでなく、寸翁の思想を身を持って実行したというべきなのだろう。
 徳川幕藩体制は、男たちの死から僅か1年10か月で崩れ落ちていた。





















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