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 取り残された柿の実が、ふたつ、みっ…。
 寒風に晒された奥山の一角にも真冬の気配が忍び寄り、辺りの静寂が冬の寒気を誘い込んでいる。
 ――静のしじまを、けたたましい叫喚が破る。
 1月の自然に響き渡る百舌の高鳴きは、希代の経世家でありながら、この地に私学・仁寿山校を創設した河合寸翁、その人を思い出させる。






河合寸翁河合寸翁像


寸翁神社。
姫路城内にある姫路神社に合祀されている寸翁神社。昭和32年の創建。姫路藩が生んだ名家老河合道臣は、晩年に寸翁と称したため、寸翁さんと姫路市民から慕われている。






 藩の累積債務73万両。
 日常の賄出費にさえも困り果てた姫路藩の救世主として、寸翁は酒井忠以、忠道、忠実、忠学の4代の城主に仕えた。
 藩主忠道は憂苦の余りに床に伏し、弟の忠実を藩政代理に立てるほど困っていたというから、尋常なことではない。
 徳川に近い親藩の酒井諸家、その宗家、姫路藩酒井のお殿様が、日常の出費さえままならなくて財政危機に喘ぐ。文化11年(1814)のことだった。
 
 寸翁は、明和4年(1767)5月24日、姫路城の中御門内の侍屋敷で生まれている。
 河合道臣。晩年に寸翁と称したため、現在でも寸翁さんと市民から親しまれている。
 父は姫路藩家老席にある宗見、母は長野氏。11歳になると、藩主酒井忠以の命で出仕し、幼少のころから、利発をもって知られていたという。
 17歳で、年寄見習。21歳の天明7年(1787)、父の病死を受けて家督1千石を相続、家老職に就くことになるのだが、後世、卓越した経世済民の手腕を振うのは、文化5年(1808)、江戸の忠道に呼び寄せられ、財政再建を担う諸方勝手向に就任してからだった。
 42歳で藩政を任された、寸翁の責任は重い。





 ――この身を捨てても、藩の改革を。
 寸翁は、思い切った行財政改革の断行を考えていた。
 その手始めが倹約令で、音信贈答を控え、絹着用の禁止、年忌法事の一汁一菜、慶事は肴一品など、3年間の徹底した質素倹約の励行だった。士風はもちろん百姓町人に至るまで、生活の引き締めを求めるものだった。
 と同時に寸翁は、民生安定、産業振興、金融安定を三本柱に、果敢な施策を打ち出していく。
 まず民生安定では、米麦の備蓄に着手。拠出米などをできるだけ蓄えることで非常時に備える、固寧倉の創設だった。
 ――民は惟れ邦(国)の本、本固ければ邦寧し。
 名の由来は『書経』にあって、民が富めば国も富む、そんな寸翁一流の考えを端的に現した命名だった。
 その実態はというと、村々の庄屋や豪農のうち志ある者から米や麦を提供してもらい、凶作や水害、災害による飢饉に備えたほか、平素においては貯蔵された米麦を安い利息で貧農に貸し付け、生活の基礎を確保することでその安定を図る、そんなアイデアだった。
 初めは藩内に20か所、2か村にひとつぐらいの割合を目指していたのだが、文化12年(1815)には60余か所、天保14年(1843)には92か所を数えるまでに増えていた。
 寸翁の改革の理念は、足元をしっかり固めることで人心を安定させ、産業の振興、そして奨励へと繋がっていく。





 ――姫路木綿を、江戸で直売。
 寸翁は、加古川流域で早くから栽培されていた綿花を素材とした姫路木綿が、極めて良質であることに目を付けていた。布を織る技術に優れ、薄地で柔らか、しかも白さが目立って特筆に値するものだったが、問題は流通にあった。
 大坂の問屋が介在することで、仕入れ時の買い叩きや、かなりの中間利益が吸い取られていることを知った寸翁は、大坂市場に見切りをつけ、藩が独占して江戸直送。
 江戸表で売り捌く専売権獲得を思いついていた。

 このころの流通の仕組みを概観してみよう。
 農民が収穫した綿を糸にして綿布を織ると、木綿商人がそれを買い集める。
 荷物は江戸回船で送られ、江戸積仲間に。江戸積仲間は、晒屋仲間にこれを回し、晒木綿にして荷扱所に送るのだが、ここで荷物受取証をもらい、藩札を取り扱う御切手会所で代金の7〜8割を藩札で、残金は江戸で品物が売れてから支払われるという、そんな仕組みだった。
 国許では藩札を、江戸での取り引きは幕府の正金銀に換算しての決済だったが、これは姫路藩札の信用度が高くなると同時に、その利益も急激に膨れ上がることになる。
 ――薄地で柔らかく、品質に優れた姫路木綿。
 文政年間(1818−30)に入るころになると、御国産木綿会所を設けて木綿札を発行するまでになっていた。
 全国市場を席捲きし、姫玉、玉川晒などの商標で遠く奥州にまで販売されていた。





 それでは、寸翁が姫路木綿の専売権獲得によって利益を上げるに至った経緯、その前置きを探ってみよう。
 その前置きとは、文政5年(1822)の11代将軍家斉の25女、喜代姫と姫路藩主の嫡子・忠学の結婚にあった。
 この婚約を成立させるために寸翁は、急速に一橋家に近づく。当主が馬好きであると聞けば、名馬を献上し、酒好きと聞けば、銘酒を…、という具合だった。
 政略結婚の根回しに奔走し、天保3年(1831)3月、喜代姫はめでたく酒井家に嫁いでくるのだが、このとき寸翁は、酒井家の家格を上げることに成功した功績で上席家老に任じられ、家禄も5千石に加増された。
 これが先ほどの前置きで、文政6年(1823)の姫路木綿、専売権獲得に至る背景なのだが、このころになると江戸藩邸には、木綿だけで年24万両の正金銀が入るようになっていた。    
 73万余両もあった累積債務も、専売開始から僅か7年後には完済できた。

 しかし、こんなことを他藩が黙っているはずがない。
 天保2年(1831)ごろには、全国から木綿専売権割り込み申請が続いていた。
 ――姫路藩だけが、いい思いをしている。
 このような問題を管轄するのが江戸町奉行で、いくらなんでも頭を抱え込んでしまうのだが、ここでも先ほどの前置きが効を奏していた。
 ――もたらす利益は、喜代姫の化粧料。
 こう抗弁することで、寸翁は他藩の割り込みを押え込んだ。





 改革は、時にこうした強引さが必要なのかも知れない。
 同様な手法で寸翁は、絹、皮革、藍、砂糖、東山焼、竜山石などを、藩の専売特産にしていった。
 次に目を付けたのが、新田開発による生産力の増大だった。中島の庄助新田、広畑の新鶴場新田、妻鹿、白浜の大佐新田。そのいずれもが海岸沿いの遠浅で干拓が容易な地域だったが、約3千ヘクタールにも及び、米の増収に大きく寄与するばかりか、
 藩経済の基礎は着実に強化された。
 飾磨の湛保(飾磨港)が開かれたのも、このころだった。満潮時の水深が3.6メートルというから、大型外洋船が出入りできる港の築港で、運河を利用することで姫路藩内陸と大坂、江戸が直接結ばれたことになる。
 さらに寸翁の才覚を伺わせたのが、金融の整備だった。
 公営の頼母子講ともいえる御国用積銀制度で、資金の藩外流失を防いだほか、併せて御切手会所を設けて藩札の多量発行にも踏み切った。
 瀬戸内海の重要港・室津では、藩が出資した室津銀元会所。いわゆる金融機関のようなものまで設置していた。
 民間人を起用して、経営を委託してみたり…。庭のある領民に7株ずつの桑の木を植えさせて、絹織物の下地を作ってみたり…。
 4代の藩主に仕えながら、大胆かつ細心に骨太改革を実行に移していた。






仁寿山校。
崩れた土塀に熱気が忍ばれる。傍らに残された井戸の水は、青春の心のように澄んでいた。





 ――民の所得、貯蓄を増やすことで、藩の実収入の増加を図る。
 改革とその実行は、寸翁一流の考えに基づくものだったが、それらを成功させた功績によって文政4年(1821)、奥山の阿保屋敷を与えられた。
 このとき寸翁は、感涙に咽んだという。
 ――山を、仁寿山と名付けよう。
 論語の、『知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。
 知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し』に因んで、仁寿山と名付けた。
 保養を名目として山荘の地を与えられたにもかかわらず、寸翁は仁寿山と麻生山の谷間に、私設の学問所建設を思い描いていた。
 新たに私学校を創設することで、藩主の恩に報いんとしていた。

 9月、起工。翌5年(1822)4月に学舎2棟。さらに11月には、書院までもを竣工させていた。

  与えられた地所は、元より己の遊息の地にする気はない。
  一木一草といえども、私納するつもりは更々ない。
  学問所を建てることで君恩に沿う





  実に得がたきは人材。
  一時先頃の田、万金の宝をもって購い候とも、
  一人の賢材を得られ候は難く…。
  いささか御費をかえりみ奉らず、欲がましく願い奉り候…。 

 藩主忠実に出した仁寿山校取立願書のその長文には、寸翁の熱い思いが綴られていた。
 翌々6年(1823)正月、教場、図書倉、教師館、食堂から塾舎、医学寮までが整然と整い、朱子学を基にした伸びやかな教育が開始された。
 ふたり一部屋の全寮制で、一時は150人もの青年が塾舎生活を送り、武道から医学までを学んだという。
 もともと子弟教育に熱心だった藩主酒井家は、前橋時代から藩校としての好古堂を持っていたが、姫路移封後も総社門内に藩校を開校していた。藩士の子弟らは、8歳になるとここに入学して文武に励み、今でいう義務教育に近いかたちで教育がなされていた。
 ところが寸翁の仁寿山校の開校によって、藩校・好古堂と私学・仁寿山校が競合することになってしまったのだが、寸翁は山校を、こう位置付けた。
 ――好古堂は人材を取り立てる御花畑。仁寿山は植だめ下畑。
 人材の養成に時間とお金がかかるのは、いつの世でも同じことだろう。
 寸翁は、次の世代の人材を確保し、それを開花させるための種まき役になろうと考えていた。
 が、時代の流れは、それだけで納まるはずがなかった。





 仁寿山校に学んだ青年たちは、寸翁が意図するところとは別のところで、勤王運動へ突き進んだ。
 文政7年(1824)、初めて山校を訪れた頼山陽は、8年、10年、天保2年(1831)の四たびに亘り教授していた。
 闇斎学派の合田麗沢、折衷学派の村田継儒らのほかにも、林述斎、大国隆正らが頻繁に山校を訪れ、門下生たちを教育していた。
 ――藩の将来のために。
 寸翁が一石を投じようとした仁寿山校での教育は、開学の精神を反映してか、漢学、国学、史学、医学と開放的な教育方針を、その基本に置いていた。
 ――自由濶達に、天下国家を。
 山校で学んだ学生たちは巣立って行ったが、果たして寸翁の慧眼は、彼らの結末までをも見通していたのだろうか。
 
 仁寿山校は開校20年後の天保13年(1842)、財政難を理由として藩校・好古堂に吸収された。
 天保12年(1841)6月24日、寸翁が75歳で永眠した1年後のことで、まるで寸翁の死を待ちかねたかのような閉鎖のタイミングだった。
 ――いくら幕府譜代の姫路藩でも、功ある寸翁の存命中は、表立って仁寿山校に干渉できない。
 今、仁寿山の麓には、真冬の枯れ草に埋もれて山校の崩れた土塀が残されている。
 そして、その傍の井戸の水は、山校で学んだ学生たちの青春の心のように澄んでいた。
 けたたましい百舌の高鳴きに、寸翁が描いた夢を想像してみよう。





















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