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川面に映る旗の列






 遥か遠くに五層の天守を望む市川河原に、百姓たちが集結していた。
 ――殺せ、殺してしまえ。
 餓えの底から絞り出された怒声は、無気味な反響を呼び、周辺へと広がろうとしている。その数、3千。
 ムシロ旗の列が、市川の小波に映えていた。

 市川も、この辺りまで遡ってみると浅瀬が多い。
 陽の光が水底の白い小石に届くほど透明度が高く、若鮎の列が目で追えるほど澄んでいる。
 風が光をさざなみ立たせ、川岸の葉桜がそよいでいた。

 明るい播磨の風光…のはずなのだが、寛延元年(1748)の暮れも押し詰まった12月21日、江戸300年を通して、西日本で最大の百姓一揆が火を噴こうとしていた。
 範囲が広かったこと、参加した人員が多かったこと、期間が長かったことの、そのどれひとつとっても及ぶものはないほど、播磨に残した影は大きい。






市川。阿保橋下流付近
市川の流れ。
じつに明るい播磨の風光なのだが、ここを舞台にした不幸な出来事が白亜の城に落とした影は、あまりにも暗い。


ことの起こりは

 ことの起こりは、遡ること7年前の寛保2年(1742)3月、松平明矩が陸奥白河から姫路に転じてきたことにあった。
 明矩は、榊原家が政岑の不行跡で越後高田へ飛ばされたその後任で、二度の姫路城主を務めた松平直矩の孫だった。

 このころの姫路藩は…というと、塩、木綿、皮革などが姫路の特産品として江戸や大坂で評判を得るなど、商業経済が活発化してきた時期だった。
 ――白河のようなド田舎では藩の台所は火の車だったが、松平ゆかりの地でもある姫路に移れば、藩財政もどうにかなるだろう。松平の家にとって、これはもう望んでもないことだ。
 陸奥白河藩は姫路と同じ15万石だったが、東北の15万石は正味のところは15万石も米が獲れない。ところが姫路藩15万石は、実際はその倍以上も獲れると、そんな安堵感が家中に広まっていた。
 ――専売品のほかにも、竜山石まであるというではないか。これで松平の家も立ちいく。
 幕府としても、徳川の親藩、親戚筋にあたる松平には良い所をやろう、という配慮があったのかも知れないが、現実の松平家は、白河から姫路への引っ越し費用すら工面できないで、江戸の商人、高間伝兵衛に借金をする破目となっていた。
 姫路に移った松平は、前藩主榊原が実行していたことはみんな引き継いだが、藩財政は大きな赤字を抱えたままで出発するしかなかった。



借金が返せない

 ――米が獲れても、それだけでは借金が返せない。
 江戸の高間に、借り続けるのにも限度があった。
 それでは…と、新たに大坂商人に借金を申し込むのだが、タダでは貸してくれるはずもない。
 ――来年の年貢米を担保にしてでも、金を借りよう。
 日に悪化していく藩財政の中で、累積赤字は雪だるま式に増えていた。その赤字を補填するために、またもや借金を重ねる。
 ――ますます返せない。
 さらに困ることが重なった。
 先の延亨2年(1745)に、9代将軍となった家重祝賀のための朝鮮使節が来朝してくるという。姫路藩が、室津港滞在中の朝鮮使節一行400人の接待を受け持つはめとなっていた。当時の費用で、3万両もの接待だった。
 そこで藩は、その費用を強引にも城下に割り当てようと考えた。割り当て先は、町民に1万両、百姓に1万両、合わせて2万両に及ぶ臨時の御用金だった。
 一方で藩士にも、知行に応じて譲金を要請した。そしてその期間も10月から翌年の2月までのたった5か月間と、短いものだった。 

 延亨5年(寛延元年・1748)6月、朝鮮国からの使節477人が予定どおり来朝してきて、室津港に滞在している。
 臨時的な御用金1万両を絞り取られた百姓の苦しみに、さらに追い討ちをかけたのが大型台風の襲来だった。
 姫路藩が朝鮮使節の接待を無事に終えた3か月後、9月2日のことで、倒壊家屋は366戸、風損、塩害の被害はことのほか大きく、米の収穫は全く望めそうにない。海岸に近いところでは、一粒の収穫も間に合わなかった。



追い討ちかける

 
 ――それでも、なお…。
 年貢の取り立ては、厳しさを増しこそすれ緩むことはない。米を再検査してでも、年貢を完納させようとしていた。
 ――胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るというではないか。

 不運は、また重なった。
 台風の始末もつかない11月16日、城主明矩が急死した。44歳。
 本来ならば冷酷な城主の死を喜ぶところなのだが、逆に城主の死が、空前の一揆に火を付ける結果となる。
 ――殿さまの嫡子、知矩さまは、わずか11歳になったばかりというではないか。
 近々、松平家の国替えが予想される。
 どこからともなく風評が飛び交い、不安と動揺と危機感が百姓たちを支配した。
 ――殿さまの国替えがあれば、朝鮮使節の折りに用立てた御用金が踏み倒される。
 姫路藩では年貢の皆済日を11月晦日と決めていたが、今年に限っては到底無理であると、前々から百姓たちは延納を願い出ていた。   
 ――当年に限り、12月25日までの日延べを認める。 
 藩は百姓たちに、これを認めることを書面で回答してきたが、わずか25日間遅らせることを認めただけだった。
 ――減免などはもってのほか。期日までに納められない者は、刑罰を持って処する。
 その日の食にも困り、麦、アワ、ヒエなどで食い繋いでいた百姓たちに、減免でない延納など容認できるはずがない。
 藩の回答は、百姓たちを最後の土壇場へと追い詰めた。



暴発

 ――今度は、減免を願い出よう。
 一気に高まった不満の中で、百姓の怒りが暴発しようとしていた。
 竹槍とムシロ旗と怒声のウズが、澄み切った市川の水面に荒々しい影を映し出すように、雪だるま式に膨れ上がった百姓の人波は、押え切れない怒りに裏付けられていただけに狂暴だった。 
 百姓たちの動きを、日を追って、しかも執拗に追いかけてみよう。

 印南郡佐土、福居、中筋、的形の3千人が、年貢の最終納付期限を数日後に控えた12月21日、飾東郡山脇村の河原に集まり出した。めいめいが蓑や笠を身に着け、竹槍、トビクチを持っていたという。
 不穏な動きを知った奉行所は、大庄屋を派遣して百姓たちの説得を試みるが、あえなく失敗に終る。
 蜂起した百姓ら3千人は、姫路城の東一里にある市川河原へ移動を始めた。
 この動きを見て慌てた藩役人は、急きょ目付の派遣を決めている。
 ――来年までの延納。それに、減免。加えて悪徳大庄屋の打ち壊し…。
 目付は、ふたつの条件を即座に承認していた。
 ――代官や藩の上層部には、私から取り成そうではないか。この場は、一旦は解散してくれ。村に帰って、落ち着いて欲しい。
 百姓たちの要求に善処することを、目付が約束したかのように見えた。
 ――願いは聞き届けられた。
 ほかにも西条の大庄屋沼田平九郎、姫路町人米屋孫九郎、高砂町人宮屋長四郎ら3人の悪徳庄屋を百姓が貰い受ける、と。
 ――3つめの実現は困難だろう。とにかく藩に持ち帰って、評議した上で改めて返事する。
 そう聞かされた百姓たちは、目付の口約束を信じ、蜂起した3千人は、わずかな代表を残して一旦は解散した。
 が翌日、目付の言葉を信じた百姓の代表が、藩役人によって牢の中へ放り込まれる。印南郡福居、東阿弥陀、西阿弥陀、佐土、中筋の14人だった。

 ――目付に騙された。
 百姓たちは、村々に廻状を廻し始めた。
 ――まんまと乗せられた。
 これが、後に続く蜂起、打ち壊しへの序曲となるのだが、一方で幕府は12月26日、城主明矩の死を受けての姫路所替を、来春と発令してきた。大方が予想したとおり、11歳の朝矩の後継、相続は認められないという。
 ――幼い殿さまに、姫路のような大藩を任せられない。



一揆を闘い抜く

 明けて寛延2年(1749)正月12日、加古郡野谷新の伊左衞門は、近在の百姓を自分の家に集めた。
 ――そこいらに張り紙が貼ってあるけど、あれは本当かいな。
 ――いゃあ、ほんまちゃうか。
 ――去年の暮れ、皆が市川に集まったとき、わしも河原に行ってたんや。
 ――あれやったら役人の方が、まともに応えとらんで。悪い奴らや。
 ――このままやったら、また騒動起きよるで。
 ――真っ先に殺られるのは、平九郎やろな。
 ――そやけど、あちこちに張り紙して回っているのは、いったいだれなんや。
 ――いっぺん会ってみて、顔でも拝みたいもんやな。 
 ――よっしゃ、分かった。ええ機会や。わしらだけで平九郎をやってしまおうぜ。

 どうやら伊左衛門の農家に集まった百姓たちは、大庄屋沼田平九郎を打ち壊す、そのための寄り合いを始め、しかも、伊左衞門自らが新たな檄文を書下ろし、加古、印南郡の所々に張り出した。
 これを受けて15日の夜、印南の百姓がもぞもぞと動き始める。
 16日の朝には加古川を渡り、加古郡の徒党とも連判を取り合い、西条の大庄屋平九郎の居宅を打ち壊した。
 市川川原での約束が破られた怨みが、ひとり平九郎に向けられた格好となっていたが、百姓は総勢5千人に膨れ上がっていた。
 落し文が、どこからともなく播磨の山野を駆け抜ける。
 ――加古、印南、飾磨の三郡の大庄屋を、打ち壊せ。
 夜に入ると、山で木を切り倒す音が聞こえ、所々でかがり火までもが見え出した。



甚兵衛蜂起

 神西郡犬飼村にも、どこからともなく廻文が回ってきた。蜂起への要請文だった。
 ――寄り合いを、18日に開く。みんな集まってくれ。 
 犬飼村での寄り合いは、百姓たちが不揃いで途中で解散するのだが、一方で1月17日、早くも藩役人が野谷新へ立ち入り調査を始めた。
 城下に近い手柄山山麓、飾西郡飯田の今宿村に百姓が集まり出したのが、1月22日のことで、三和村で4〜500人が蜂起。栗山村、延末村、中野村、加茂村の大庄屋、小庄屋を、次々に打ち壊した。
 この蜂起は、城下に近かったせいか、藩役人が甲冑に身を固めた約20人の鉄砲隊を引き連れ、鎮圧している。若干の小競り合いの末に百姓2〜3人が捕まるのだが、これは後に、微罪として処理された。

 28日になって、現在の夢前町、当時の飾西郡前之庄、古知之庄村滑の甚兵衞が、同じ村の塩田の利兵衞らと相談を始めた。
 ――大庄屋の北八兵衞を、ちょっとだけ懲らしめてやろう。
 甚兵衛は、百姓たちを自宅に集めて一揆の挙を決議し、又坂の与次右衞門をも引き入れ、まず300人で烽起した。
 甚兵衞は日ごろから、村人たちが八兵衛の仕打ちに苦しめられているのをよく知っていたので、前之庄の八兵衞の居宅へ押し入り、打ち壊そうと考えていた。併せて戸倉村、野畑村の庄屋も潰してしまおう、と。
 これを聞き付けて集まった百姓の数は、次第に膨らみ1万人を数えたという。
 翌29日、蜂起は神崎郡久畑村へと飛び火する。
 ――うちの村でもやっつけたろうと思うんやが、力を貸してくれんかのう。
 恒屋村にたむろしながら、神西郡犬飼村、田野村の大庄屋へ押し寄せ、30日には神西郡山崎の大庄屋、神東郡八反田大貫の元庄屋宅へも押し入った。



寛延一揆打ち壊し地図













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川筋で呼応

 一旦、火の手の挙った蜂起は、なかなか鎮まらない。
 勢いを得た百姓たちは2月1日、飾東郡に入って小川村、佐良和村へと進み、市川を隔てた野里村、仁豊野村へと。夕刻ともなると、市川の東側を南下して御着国分寺村、御着村、佐土村の庄屋を連続的に壊した。
 その一方で灘でも呼応し、蜂起が始まった。北からの蜂起と合流して的形郡へ押し寄せ、大庄屋などを次々と潰した。
 この段階から蜂起は、二手に別れる。一手は東に進み、魚崎村へ。もう一手は西へ進んで木場村の庄屋を潰し、宇佐崎村の大庄屋を壊した。
 翌2日、灘での蜂起は、さらに西へ進む。松原村、妻鹿村、細江村を潰し、英賀、今在家村、少し北上して蒲田の山崎村へと、海岸部から平野部の村へと進んだ。
 それぞれの村で大庄屋小庄屋を潰し、室津の港を襲撃するという評議までも始めていた。

 傍観を決め込んでいた姫路藩も、このころになって漸くことの重大さに気付いたのか、武装した兵を派遣してきた。ところが、勢いを得た蜂起はなかなか治まりそうにない。
 そこで城下の守りを固めるどころか、姫路藩兵は城内から一切出ることなく、城門を固く閉めて籠もってしまった。そして一方で、宗教家に鎮撫を依頼している。
 ひそかに藩から依頼された亀山、船場の両本徳寺の僧5人が、蒲田村誓福寺でたむろしている百姓たちを諭し始めた。
 蜂起の目的が、大庄屋、庄屋、御用商人を打ち壊すことにあったとすれば、その大方の打ち壊しが終るとひとりでに火は消える。さすがの播磨の騒乱も、漸く解散かと思えたのだが、滝野でふたたび火の手が挙がった。
 加古川上流の蜂起は、滝野村から南下し、3日になって印南郡砂部、神吉、福井、寺家町を壊し、高砂に入って大庄屋を7軒潰した。
 高砂の善立寺において、亀山本徳寺の使僧10人が百姓たちを諭すのだが、蜂起で破壊された大庄屋は17軒、小庄屋40余軒に上っていた。



孤立する天守

 一方で播州の諸侯はというと、明石藩主松平直純、龍野藩主脇坂安親、赤穂藩主森政房、三日月藩主森俊春、林田藩主建部政氏、安志藩主小笠原長達、山崎藩主本多忠辰、小野藩主一柳末栄、粟賀藩主松平三治、丸亀藩主京極高矩、出石藩主仙石政房などは、自らの藩内の警戒に専念し、姫路藩との交通を遮断してでも騒乱の波及を防ごうとしていた。
 ところが大坂城代酒井忠用は、姫路藩に起ったこの事態を、ことのほか重要視していた。
 ――姫路藩の力だけでは、とうてい一揆を鎮圧することはできないだろう。
 2月4日になって、東・西大坂町奉行が配下の与力を姫路藩領内に派遣し、蜂起の正確な情報の収集を始める。町奉行を加古川辺りに出張させて、検分を始めたのだった。
 これは、本来ならば姫路藩だけで跡始末をする出来事なのに、幕府が直接に乗り出してきたことになる。
 ――松平は、いずれ遅くても、5月か6月には前橋に所替えになる。こんな大きな一揆の取り調べを、姫路藩が独自で処理できるわけがない。

 大坂城代は、百姓の逮捕については全てを姫路藩に任せ、逮捕者は大坂まで護送。奉行自らが検分するという方針を打ち出した。
 2月8日、老中本多正珍が調査を開始。11日、徒党の者を速やかに逮捕するよう命じてきた。この書面は16日になって姫路城下に届き、老中からの書面の趣旨が翌17日に触れ状として藩内に立て札されている。
 2月18日、印南郡西飯坂村の5人が姫路藩と大坂与力によって捕らえられた。これを皮切りに百姓の一斉検挙が始まる。
 翌19日、神崎郡仁色村で3人が逮捕された。



河原に頭を転がす

 ――大坂で吟味する。至急、護送せよ。
 2月24日、犬飼田野村の庄屋彌兵衞が大坂へ呼び出され、町奉行の聴取を受けた。
 その供述を受けて、最初の口火を切った加古郡野谷新の百姓、続いて蜂起した飾磨郡飯田の三か村の百姓の逮捕を、26日になって大坂町奉行所が命じてきた。
 3月に入って1日、11人が大坂へ送られ、10日には20人が護送された。
 16日になると、さらに大坂奉行所が指人してきた。
 ――13人を逮捕して、大坂まで送れ。
 18日になって、田野村の彌兵衞がふたたび大坂町奉行に、蜂起の模様と自宅の被害について聴取を受けた。
 姫路藩は、奉行所からの指人29人とそのほかの逮捕者9人を大坂へ送る。21日のことだった。

 3月23日、彌兵衞の三度目の聴取。
 それを受けて26日、26人の百姓が大坂まで護送された。さらに4月1日には30人。首謀者のひとり、利兵衞がこの中に入っていた。
 4月6日、奉行所からの指人6人の中に、滑の甚兵衞が入っていた。
 さらに7日、26人が大坂へと護送されたが、このころになってようやく、こんな風評が聞こえ始めた。
 ――姫路城受け取りの上使が、4月下旬、江戸を出発するらしい。
 前橋の酒井家の侍が姫路に入り、入れ替わりに松平の侍が前橋へと出発した。
 4月22日、21人が大坂へと護送されたが、この中に甚兵衞がいた。この日までの逮捕者は235人。その後も増え続け、最終的には345人を数える。
 6月に入って、伊左衞門が大坂の獄舎で病死。死体は、樽に塩詰された。
 9月23日になって、ようやく大坂町奉行は1年半の取り調べ結果をまとめ、最終的な判決が申し渡されたことになる。
 ――磔刑2。獄門2…。
 獄門刑となった利兵衞と与次右衞門は、大坂で打首となり、姫路へ送り返され、翌23日、滑甚兵衞が大坂から姫路へ護送され、市川河原の刑場で磔刑となった。
 既に塩詰となっていた伊左衞門の首も、姫路に返され、その日の晩七ツ、河原に晒された。



その人の骨はここにない

 播磨の一揆は、およそ5段階に分けて考えることができるという。
 まず寛延元年(1748)12月21日に起こった印南の3千人をきっかけとして、2年1月15日から17日まで、加古郡西条で5千人が蜂起した。
 22日夜、城南手柄の400人が動く。
 続く28日から2月2日にかけての市川、夢前川川筋で起った1万人の騒乱。
 そして2月2日、加古川上流の滝野、3日からはその下流高砂、印南東部へと。
 直接の原因としては、初期においては不作を因とする年貢延納にあったが、背後には度重なる御用金の賦課があった。
 1月16日以降、多くの大庄屋の居宅が打ち壊されたが、それは彼ら大庄屋の組内での御用金の割り付け方法については、藩から彼ら大庄屋に一任されていたことにあるという。  
 当時、藩は大庄屋の組ごとに、その大庄屋の富裕度に合わせて御用金を割り当てていた。そこで多くの大庄屋は、その額の一部を自分自身をも含めて富裕な百姓から拠出させ、その残りを村々の石高や百姓らの持ち高に応じて均等に割り懸けた。
 ところがそこには大庄屋の恣意が入り、多くを割り付けられた村人からは恨まれるハメとなった。

 また、藩権力に深く結びついた御用商人、特権的な大庄屋が打ち壊されたのが播磨の蜂起の特徴だった。
 ところがこれらの暴発が、互いに連絡を持たないで分散し自然発生的に見えてしまうのは、播磨地域があまりにも広く、必ずしも同じような条件になかったことが大きな原因なのかも知れない。
 そして、そこまでの指導者が居なかった…とも。
 言い換えれば、蜂起が十分に成熟しないうちに城主が急死した。それに続く移封、という動揺の中で百姓たちが暴発した。
 その結果、天下の姫路城を騒乱の火中に孤立させたことになる。



権力に滅ぼされる

 甚兵衛は、闘い抜いた。
 大坂町奉行は、345人という多量の百姓を投獄し、1年半もの長い取り調べの後、前之庄村滑の甚兵衞を磔の刑、塩田の利兵衞、又坂の与次右衞門を獄門。3人を死罪、5人を遠島、4人を播磨一国払い、18人を追放、167人を過料に処した。
 ことの性質からか、取り調べについて、その詳細な内容は分からないという。
 がしかし、大坂町奉行、東町奉行という、当時としては最高の警察力と長い期間の裁判の結果であることから、甚兵衞らがこの蜂起で果たそうとした役割は、ほぼ推察できる。
 ――権力に立ち向かい、当然のように、権力によって滅される命と心。
 甚兵衛は果てた。市川河原に石ころひとつ、わが頭を転がした。
 
 ――浄土三部妙典塚。
 塩田温泉卿の山裾に、甚兵衛は眠るという。
 山栗の木が生い茂った中で、苔むしおし黙ったまま墓碑は、歳月を重ねている。がしかし、それは甚兵衛らを追福する経塚であって、その人の骨はここにない。
 処刑された者の墓を祭ることなど、到底許されるはずもない時代のこと。騒乱のほとぼりがようやく冷めようとした三十三回忌の安永10年(1781)、命日にあたる正月23日、一字一石の写経を埋めて塚は建てられていた。
 妙證、妙誓、妙閑、了好、貞好、きゃう、あさ、甚十郎と。
 8人の発願者の名前が慎ましく、そして丁寧な楷書体で彫り刻まれている。



続く 慰霊の行事

 ――せめて故郷の村を、一目で眺めることができるように。
 平地から僅か高く、その塚の前に立って西方を眺めると、遠く置塩の盆地が一目で見渡される。
 前を流れる夢前川は、甚兵衛の当時と変わらぬ美しさで帯のように流れていた。
 静かなせせらぎは心地良く、甚兵衛の耳に届くように思えた。 
 今でも前之庄の村人の間では、恐ろしかった当時の有様と参加した人々の話が口から口へと伝えられ、ささやかながらも慰霊の行事が続けられている。
 温和な気候と豊かな平野を持つ姫路藩に起こった非情な出来事だったが、白亜の城に落とした影にしては、あまりにも暗い。





















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