10









 建て売りプレハブ住宅が山裾にはいつくばっていたが、それでも増位山麓は自然が匂う。
 栗のイガが道に転がっていた。
 遠慮会釈なしに細い道に入ってくる軽自動車のタイヤに、ペシャンコになりながらも栗のイガは、山の晩秋を訴えていた。
 栗だけでなく、欅やクヌギも、雑木も、ススキも訴えていた。

 古い百姓屋の庭を掃いている老婦人に話かけようと思ったその時、一陣の風が巻き起こった。
 落ち葉が舞い上がり、辺りが見たこともない風景に変ってしまうような、そんな幻惑に捕らわれた。
 ――芭蕉ゆかりの蓑塚を捜してみよう。
 そんなふうに思い立ったのは、晩秋から初冬へとバトンタッチするような木枯らしが吹き抜け、先日までの暖かさが嘘のように思える天候の日だった。











 元禄7年(1694)10月12日、松尾芭蕉が亡くなると、門下生の間で正統争いが起きた。

  旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る

 凄まじい気迫で俳諧の道を追求した芭蕉に、多くの門人はあったが力はみんなどんぐりの背くらべだった。
 ――去来は遺戒を守るだけで力不足。
 其角は才気かんばつで幽遠の厚みなし。
 嵐雪は穏健着実すぎて通俗的。
 芭蕉の芸術は、芭蕉その人だ、と観破したのが萩原井泉水なのだが、そこへ登場してくるのが美濃国の関村、酒造業の三男の生まれ、広瀬惟然だった。
 芭蕉が世を去る7年前に入門し、初対面は貞享5年(1688)6月、惟然41歳の時で、芭蕉が『笈の小文』の行脚を終え、岐阜に逗留していたころだった。
 翌元禄2年(1689)8月にも『おくのほそ道』行脚を終えた芭蕉を、美濃大垣に訪ねている。
 ところが、3年から4年にかけての湘南・京の滞在には近侍するまでになり、7年(1694)、師の最後の大坂行脚には、随伴するまでになっていた。

 この惟然、芭蕉の存命中から風狂者と言われながらもいたく可愛がられ、師の身の回り一切を世話していた。
 そして芭蕉の発病から臨終、葬送に至るまでを見守った。10月12日、大坂でのことだった。

  比道や 行く人なしに 秋の暮

 門弟たちは動揺した。
 惟然は生前からの約束通りに、芭蕉が旅で身に着けた遺品15品目のうち、架娑、被風、銅鉢、旅硯、蓑、笠、杖の7品を譲り受け、また初7日までの喪に服する間、芭蕉像百体を彫っていた。
 そして翌8年(1695)には、早くも惟然は京都岡崎の風羅坊を蕉門の拠点にすべく、
 奉賀托鉢に杖を引いていた。
 筑紫への西国行脚に出るのが10年夏のこと。芭蕉の足跡を追慕して、『奥の細道』逆順路の旅にも出た。
 12年(1699)春、初めて播磨の地に杖を引いた。
 そして14年(1701)春、京・洛東岡崎の風羅坊に移って遺品を安置。そこを風羅堂と名付け、二世を名乗って菩提を弔った。
 ――われこそが、一の弟子である。
 惟然にはそんな自負があったのだが、他の弟子たちがすんなりと許すはずがない。
 こんなメモ1枚が残されるほどに必死だったが、間もなく宝永8年(1711)、他界した。
 ――思うがごとく、ことは進捗せず。





 惟然のあとを託されたのが姫路の俳人・井上千山だった。酒井家姫路六人衆と称される御用商人で、余業で書肆をも営んでいた。
 惟然の他界を受けて正徳3年(1713)、洛東岡崎・風羅堂から芭蕉像や遺愛の蓑、笠など7品を姫路に持ち返り、増位山麓の安城院へ預けた。
 芭蕉が亡くなって19年目のことだった。
 その子寒瓜と孫の寒鳥は寛保3年(1743)、増位山麓の念仏堂、常行三昧堂のある裏山に念願の姫路風羅堂を建て、芭蕉の木像を祭った。
 千山の死後、17年が過ぎていた。
 ――19年、17年と、それぞれの間が光る。
 情熱をゆっくりと醸し出し、やっと形をなしていく。
 江戸という時代のしたたかさが伺える出来事だった。
 惟然、千山、寒瓜、寒鳥と、姫路風羅堂を拠点として、精力的に蕉風俳諧を広めていた。 

 ――『右 たいし尊ふうら堂』。
 増位川に沿ってなだらかな坂を登ると、碑が残されている。
 増位山麓もこの辺りまで来てみると、大きな自然の風情が残され、歴史の重みのようなものを感じることができた。
 遠く天平年間に隋願寺を開いた僧恵便は、山岳修行の場としてこの増位山を選んだ。
 行基や徳上も、隋願寺には力を注いでいる。
 旅に病んだ芭蕉を慕う門弟たちも、ここを風雅の場として定めた。
 増位山は、自然とともに生きた人たちの気迫が迫る山だった。
 ――気迫の系譜。
 それだと思った。
 増位の山の秋に、こんなに深みが見えるのは。
 ――塚はおそらく、山の中にあるんだろうな。
 ひとり、そんなふうに思っていたが、意外にも増位川を越えたすぐ西、奥まった民家の軒先にあった。
 露が落ちかかりそうなところで、またそこは随願寺への登り口でもあった。





 ――昨夜から強い風が吹いていたので、散ってしまいましたね。
 先ほどの老婦人が、申し訳なさそうに呟いた。
 小さな庭の正面に山茶花の木があって、淡紅色の花がポツポツと咲いている。よく見ると、きれいなままに散ってしまった花びらが庭の片隅に吹き寄せられ、風で散った花に代わって、数え切れないぐらいの蕾の膨らみが開花しつつあった。
 ――大丈夫ですよ。次から次に花を咲かせますから。
 正面中央には『芭蕉翁』と大書し、左に『惟然』、右に『千山』と、筆太の文字が彫られていた。
 師を慕い、播磨に蕉風の系譜を残そうとする記念の碑だった。
 裏面には『蕉 元禄七甲戌十月十二日』、『然 宝永八辛卯二月九日』、『山 享保十一丙牛十一月十四日』と、3人の没年月日が刻まれていたが、千山が生前に建立したという塚に、彼自身の没年が記されていることに疑問が残った。

 門弟らの系譜争いは凄まじかった。
 残された数少ない記録からは烈しい行動の跡を追うことができないが、増位山麓に起った蕉風継承の熱気に迫ってみよう。
 もともと惟然は、京都岡崎にある芭蕉の風羅坊を修復する資金集めに姫路に来た。
  
 元禄8年(1695)秋、中国・九州への行脚に旅立つのだが、その途中、姫路在住の千山の庵を訪れ、元禄15年(1702)には、ふたたび姫路に逗留して俳交を重ねていた。
 ところが風羅坊の修復を果たせぬままに、宝永8年(1711)惟然は没し、風羅坊は廃れる一方となってしまうのだが、それを見た千山は惟然の意志を汲んで、洛東岡崎の風羅坊を姫路へ移すことを決意した。
 芭蕉像や芭蕉遺愛の7品を姫路に持ち帰り、増位山三十六坊の安城院に納め、蓑のこぼれを太子谷の近くに埋めて、そこに蓑塚を築いた。
 正徳3年(1713)のことだった。





 元禄15年(1702)の春、姫路白国の増位山麓を、なにやら踊りながら念仏を唱える行脚僧がいた。
 行脚僧の名は、広瀬惟然。芭蕉の名句を吟じた後に、南無阿弥陀仏と付け加えることを忘れなかった。
 今に残る風羅念仏踊りがそれで、鐘にあわせて辻々を唱え歩いた。

  古池やかはず飛びこむみずの音、なんもうだ。
  鐘は上野か浅草か、なんもうだ。
  京なつかしやほととぎす、なんもうだ。
  やがて死ぬけしきは見えず蝉の声、なんもうだ。
  はかなきゆめを夏の月、なんもうだ。
  峰に雲おくあらし山、なんもうだ。

 芭蕉の遺句を七五調の和讃に仕立て上げ、独特の哀調を含んだ節をつけたものだったが、飄々として風狂の如く誦唱しながら踊り続けた。
 その心根は、ただ芭蕉を忍ぶだけではなく、物故した魂を供養し、祈りの世界にまで純化されている。
 ようやく寛保3年(1743)、10月12日の芭蕉忌を目前に控えた10月5日、惟然と千山の遺志を汲んだ寒瓜によって風羅堂が完成した。そしてこの風羅堂は、芭蕉俳諧の西の道場となる。
 惟然や千山による型破りの俳句念仏の成果だったが、この年は芭蕉50回忌と惟然33回忌に当たる記念すべき年で、12日の芭蕉忌には大がかりな俳諧興行が行われたという。
 いつの世でも正統は異端によって守られていく。千山は、このことを姫路の地で実証しようとしていた。





 隋願寺念仏三昧堂の裏手に風羅堂跡があって、この辺りを土地の人は太子谷と呼んでいる。
 ――草深い。
 松の枝からこぼれ落ちる陽光が、昼前にもなると、岩をくり抜いて安置した聖徳太子石像を照らし出す。地面に落ちた木漏れ日が、幾何学模様を描いていた。
 古い百姓屋の狭い庭の片隅で、少しずつ姿を変えながら秋が動いていた。
 ――どこにでもある、秋。
 至るところの、秋…。
 そう思いながら眺めているうちに、少々周りの様子が分ってきた。
 なるほど、夢の跡は枯れ葉が舞い、擦れあい、よじれ、かすれる音をたてるほど静かだった。
 ――風が舞う。
 山茶花の花びら一枚一枚が、はらはらと散っていた。
 花の姿はどこか椿にも似て、散るさまは椿とは対照的でどことなく控えめだった。後に控えたたくさんの蕾も、美しい花を幾輪も咲かせることだろう。
 まるで芭蕉から、惟然―千山―寒瓜へと続いた風羅堂の系譜が、いつまでも姫路に受け継がれ、孫の寒鳥、寒鴻、寒桐、千明、守三、春山、赭邱へと。そして、先の戦前まで、蕉風俳諧の炎が守られていたように。

 このあたりでもう一度、姫路風羅堂を整理してみよう。
 寛保3年(1743)、芭蕉五十回忌に寒瓜は太子谷に風羅堂を建てた。
 それから50年、芭蕉百回忌に当たる寛政5年(1793)、寒鳥・寒桐父子は増位川を隔てた西の谷に、金15両で建坪40、藁葺きの新風羅堂を再建した。
 この再建された新風羅堂は、文政の初めごろ(1820年前後)に焼失。再々度、天保年間の守三が建て替えた。
 そして幕末のころ、漢学者三村超道が流行病を患って死去(明治7年)したのを受けて、焼却処分されてしまった。
 風羅堂が焼却処分されてから130年。歳月は流れたが、いまだに再建のメゾは立っていない。
 惟然、千山らの夢破れ、芭蕉が足跡すら残さなかった姫路の地に、こんなにも芭蕉の系譜が育ち、しかも風羅堂の建物が廃屋に帰した後も、風羅堂俳人は脈々と人を繋げ、蓑と笠は受け継がれていた。

  はせを葉や 風にやれても 名は幾世

 姫路藩主酒井忠恭は、千山の功績を訪ねてこう詠んだ。
 蓑塚を覆うように成長した柿の木、赤く熟れた実、蓑クズひとつ粗末にできなかった門弟らの蕉風興隆の熱気が伝わるような句だった。
 芭蕉を心から弔った風羅堂俳人の心情を思いやって、城主自らが手向けたのだろう。





















前の節に戻る 表紙へ移動 次の節に進む