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姫路城の西を流れる船場川は、元和3年(1617)本多忠政の手によって、飾磨津と城下を結ぶ舟運として開発された。 ところで、この船場川が市川の分流で、起点となる取水口が保城にあるということは余り知られていない。 俗に市川大樋と呼ばれる分岐点なのだが、歴代城主の手によってたびたび改修が行なわれている。 市川大樋の改修とその補強は、歴代の城主に課せられた重要な土木作業だった。 |
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寛延2年(1749)の7月、1日未明から降り出した大雨は3日朝まで降り続き、3日の午後2時になって大樋が決壊した。 船場川が増水し、城下のほとんどが濁流に呑まれたという。 特に船場地区は、ことのほか被害が大きかった。 市之橋、清水門橋が流失し、備前門、車門などの各門、城郭外側の土塀、石垣が崩壊し、組屋敷の大半が流れた。 川面に白壁を映していた船場の土蔵群も、ことごとく大破していた。悲鳴をあげながら濁流に呑まれた人も多く、その光景は悲惨を極めていたとも。 轟く濁音と悲鳴の中を、人々は避難先を求めて我先に逃げまわり、お城近くの景福寺山は避難民でごった返していた。 先を争って城内に避難しょうとするのだが、ところがどうしたことか、目付が大手橋の中央に立ちはだかっていた。 ――ひとりたりとも、城内には入れぬ。 避難してくる町民を、大手門で押し返えしていた。 これを見た家老、川合勘解由左衛門定恒が、言い放った。 ――非常のときだ。この際、避難民を城内に入れよ。 この洪水は、皮肉にも酒井の入府間もない出来事で、城主酒井忠恭は7月5日、城下の大洪水のことなどつゆ知らずに江戸を出発し、姫路へと赴いていた。 途中で洪水の知らせを聞いた忠恭は、ことの次第に驚きながらも大雨の中、道を急いで7月14日に姫路城下に到着した。 藩財政は、大きな赤字を抱えたままで出発するしかなかった。 |
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城下へ戻った忠恭は、先ず一番に洪水の被害を調べ上げた。 早速復旧に取り掛かるのだが、洪水の原因となった市川大樋は大改修されて、強固な樋門となった。 家屋流失161戸、全壊99戸、半壊215戸。 男132人、女205人の計337人もの死者を数え、町方支配の行方不明も71人に及んでいた。 特に被害の大きかった船場地区では、供養のための菩提碑が建立したというので、四郷町山脇を訪ねてみた。 今でも山脇の民家の奥に、大きな碑がひっそりと残されていた。 ――為 溺 死 菩 提 7年後の宝暦5年(1755)、吉田町の八右衛門が建て、十三回忌には石燈篭を献じたと、碑の由緒書きが掲げてあったが、石段も崩れ落ち、燈篭の風化も激しい。 ところで、この菩提碑の横、雑木林の中に朽ちかけた祠があって、どれくらいの期間そのままに放置されていたのか、全く傍に近寄れそうにないのだが、よくよく覗いてみると『児島高徳大神』と、かつての大物の名前が読みとれた。 土地の古老に聞いてみても、その祠のことはよく分からないということなので、それでは…と、今後の課題としたい。 |
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