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――先生。西鶴先生。 次回作としてお願いしている好色五人女。その構想はまとまりましたでしょうか。 こんどの舞台は播州の姫路ということで、どうでしょう。 それはそれは手ごろな事件が、姫路で起きてますよってに。 ――まあ、まかしといてんか。 播州の姫路なんてド田舎のこと、わしはよう知らんが、若いころにいっぺんだけだが、長崎からの帰りに通り過ぎたことがあるよってに。 わしの目に狂いはないて。 これからはご当地ソング、地方の時代よ。 大坂の版元と井原西鶴が、このように話していたかどうかは別にして、西鶴が目をつけていたのは、万治2年(1659)、姫路城下に大店を構える米問屋但馬屋九左衛門が、元の奉公人清十郎に斬られて重傷を負った。 そして、清十郎が船場川の刑場で打ち首となる、そんな事件のことだった。 45歳となっていた西鶴は、『好色一代男』のヒットに気を良くしてか貞享3年(1686)、好色シリーズとして浮世草子「好色五人女」の出版を考えていた。 そのトップバッターとして「お夏狂乱」を取り上げ、『姿姫路清十郎物語』として世に出そうと考えていた。 |
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――事件の陰に女あり。 それは古今を問わないのだろう。 姫路の米問屋但馬屋の手代、清十郎には相思相愛の娘がいた。名を、お夏。花も恥らう16歳だった。 彼女は、主人但馬屋の娘で、清十郎とは身分が違い過ぎていた。 身分制度が厳しく生きていた時代のことだけに、掟を破る忍び愛、道ならぬ恋だった。 ――主人の娘と、その手代の恋物語。 主人九左衛門は、そうと知って激怒し、清十郎をクビにする。 クビになった一途な青年、25歳の清十郎は思いあまって但馬屋を襲う。 西鶴は、こんな地方の話を江戸の庶民にうけるような盛り付けを考えた。 清十郎が姫路の西隣・室津の造り酒屋の生まれと聞いて、室津の遊女にもてた遊び人に仕立て上げた。 遊郭に入りびたりの放蕩三昧で、あげく遊女と心中未遂事件まで起こし、親からも勘当される、そんな設定を考えた。 そして、まっとうに生きようと心を入れ替え、住み込んだのが姫路の米問屋、但馬屋だった。 ようやく真面目な手代として働く清十郎に、箱入り娘のお夏がいつの日にか思いを寄せて恋仲となってしまい、清十郎を口説くという筋立てを思い付いていた。 |
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清十郎とお夏。 そんなふたりの仲が許されるはずもなく、やがて花見の夜に清十郎がお夏を連れ出した。 飾磨の港から大坂へと、船に乗り込んで駆け落ちを企てるのだが失敗し、思いあまって但馬屋を傷つけた。 そんな折りも折り、店の金子700両が紛失し、清十郎に嫌疑がかかっていた。 そこには、思いもよらぬ偶然の重なりがあったという。 ――ふたつの偶然。 そのひとつは、ふたりが駆け落ちして乗り込んだ大坂行きの船が、なにごともなく出航したと思った直後に、トンマな飛脚が郵便袋を積み忘れたために港に引き返した。 そこでふたりの駆け落ちが見つかってしまい、お夏は但馬屋に引き戻される。 もうひとつは、主人九左衛門が700両の置き場所を忘れてしまったばかりに、先ほどの横領の疑い…と。 清十郎は、密通と傷害、その上に窃盗の罪まで加えられて刑場の露と消えるのだが、それと知ったお夏は狂乱し、髪振り乱して裸足で城下をさまよい歩いたという。 向こうを通るは、清十郎じゃあないか。 笠がよう似た、菅笠が…。 清十郎殺さば、お夏も殺せ。 |
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西鶴の狙いは、見事に当たった。 江戸という、身分制度の厳しい社会に生きていた民衆は、タブーを破って一途な愛に生きる清十郎の生きざまに、人間賛歌の歌を聞いた。 夜陰に紛れて、飾磨で船に乗り込む清十郎は、もはや播磨のド田舎、室津の清十郎ではない。 三流週刊誌風にいくらかの誇張を加えてみれば、元禄という世の制度に挑戦状を叩き付けていた。 西鶴といえば「好色一代男」や「日本永代蔵」「世間胸算用」のような浮世草子が有名だが、俳諧師・西鶴として出発し、一方で好色物、町人物、武家物、役者評判物、浄瑠璃台本、果ては当時のビジュアル旅行ガイドブックまで出すという、文筆で虚業する身すぎ世すぎの大坂町人の姿が浮かび上がってくる。 同時代を生きた松尾芭蕉と違って、俳諧にも浮世草子にも命がけの求道的なところがない。 軽いフットワークで注文仕事をこなしているように思えるが、なかなかどうして、いかにも戯作者、ヤボな格好は見せてはいない。 読んでいくほどに面白い。 |
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――遊郭の中でしか認められることのない愛。 清十郎は、江戸の秩序を破ることでの人間宣言を、時代に叩き付けていた。 がしかし、時代の秩序を破ろうとする先駆者は、また時代の手によって罰されねばならない。 確かに清十郎は、自分が破壊しようとした時代によって処刑されてしまうのだが、西鶴独特の筆さばきは、がんじがらめに縛られた人の哀しさを描き出し、それがまた庶民にうけた。 西鶴についで、近松門左衛門が人形浄瑠璃「お夏清十郎五十年忌歌念仏」(宝永4年 1707)を書いた。 播州姫路の一角に起こった小さな悲劇も、こうなってくれば人の噂も75日というわけにはいかなくなって、話は全国に広まった。 近代になってからは、坪内逍遥が舞踊劇「お夏狂乱」、島崎藤村が詩「四つの袖」を発表する。 障害を乗り越えて燃え、死をかけて恋し、果ては狂乱してしまう女心のひたむきさは、一気に時と場所、時代をも飛び越え、映画・音楽・演劇などのモチーフとなってしまった。 近年では平岩弓枝が小説にしている。 いろいろに伝わるお夏のエピソードだったが、実際はどうであったのか、本音のところは虚実に揺れ、よく分かっていない。 |
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![]() 臨済宗妙心寺派、山号は永祐山。寺伝によれば、嘉吉3年(1443)の創建。一時無住となっていたのを、天正5年(1577)南室禅師が中興して妙心寺派となる。その後、池田輝政から寄進された姫路城築城の残木で本堂を再建したと言う。観音堂に安置された金銅如意輪観音は、家康の娘で輝政の正室督姫が寄進したものだとか。凛とした格調と端正な雰囲気は、禅の聖域のように思えた。 |
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鯱を置いた方丈の大屋根が、雨に光っている。 姫路城主池田輝政が、この寺の南室禅師に帰依し、築城の資材までも分け与えて建立したという慶雲寺。当時の面影が、凛とした格調を漂わせていた。 長い壁に沿って歩き、楼門をくぐったときから、境内は端正な雰囲気に包まれていた。 ――囚われる心を捨てる。 行いを通して人の真相に迫る、それこそが禅の聖域なのかも知れないが、慶雲寺をもり立てた南室禅師、その人こそ捨て去る行いに徹していたという。 赤穂に生まれて、32歳で慶雲寺に入った南室は、播磨で25もの荒れる寺を復旧した。播磨西国32霊場を起こすことで、民衆の不安な心を安らぎの中に包み込む、そんな業績を残した。 その功績に対して、宮中から紫の法衣が贈られることになるのだが、南室はそれをも拒んで粗末な黒染めの法衣を身に纏っていた。 ――私には、この色こそ相応しい。 そうかと思うと、60石余りの朱印地となっていた慶雲寺を、サラリと捨て去り隠遁したともいう。 ――もう一度、ぜひ慶雲寺へ。 誘いを断って、南室はこう詠んだ。 隠れいて 浮世のことの 聴こえねば 心のままに 墨染めの裾 慶雲寺の塔頭・久昌院に、いつのころからかひとりの女性が逃げ込んできて、尼となっていた。 それが、お夏だった。 |
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今も慶雲寺の一角に、ひっそりと残る比翼塚。ときとして線香の煙が、くゆることがある。 毎年8月9、10の両日、近くの商店街が主催して賑やかなお祭りが行われる。 だれともなくふたつの石を置いて祭ったのがその始まりというが、緑に苔むしたふたつの五輪塔は、ひっそりと白い土塀の脇に並んでいた。 境内は、どこまでも清々しく掃き清められ、墓前の朱塗りの灯篭が過ぎ去った熱い日々を忍ばせている。 街中の騒音も、ここまでは聞こえてこない。 比翼塚に向かって右にある石の阿弥陀仏が、あの世でのふたりをジッと見守っているように思えるのも、禅寺らしい閑寂の気配に包まれているせいだろう。 がしかし、命を賭けてお夏を思いつめた清十郎にしてみれば、現在の比翼塚などさも迷惑な話なのかも知れない。 時代に反逆した清十郎の魂は、今も姫路の城下をさ迷い続けているのかも知れない。 伝えられるお夏を禅の風光の中で思うとき、捨てように捨て切れない愛という形と執着の中で生きる人間と、だれもがその自画像のような気がしてくる。 ――心の眼を開いて、人として本当の姿を見つめなさい。 ふたつの小さな墓石を縁に慶雲寺を訪れる若い女性に、今も住職は折に触れてこう話すことがあるという。 囚われて苦しむ心からの解脱を説いていた。 |
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