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雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡 一升や 九月九日 使い菊 第1句は、雪の朝の風景を詠んだもので、田捨女(でん すてじょ)6歳のときの作。 2句目は、醸造業を営んでいた彼女の家に、お菊という使用人が重陽(9月9日)の節句を祝うために酒を買いに来た。そのとき留守番をしていた捨女が、買上帳に書き付けたものだという。 捨女10歳の時というから、並みの才でなかったことがよく分かる、名句だった。 彼女は、氷上郡柏原藩、田助右衛門季繁の長女として生まれた。 |
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捨女の俳句の素晴らしさは、残された作品世界が見事に証明している。 19歳で夫を迎え、家業を継いだ。5男1女の母となるのだが、延宝2年(1674)8月、夫とは死別した。 捨女41歳の時だった。 ――人の世のはかなさ。 それを知ってしまったからか、このとき落髪して出家した。 仏門修行に明け暮れるものの自らが求めた道は遥かに遠く、京での途方に暮れる日々が続いていた。 捨女は、そんな修行の中で播州網干の里に住む名僧の噂を聞き付け、龍門寺に盤珪和尚を訪ねた。 ――彼女が、網干に残した足跡を訪ねてみよう。 そんなふうに思い立って、昭和の産業道路、浜国道を西へ…。車を走らせて、臨海工場群を駆け抜けた。 浜国道も、揖保川に架る網干大橋の辺りまで来てみると、つい深呼吸でもしてみたくなる風景だった。川西に広がる平野は緑色に染まっていて、密集する民家の先は、どこからともなく海に沈んでいる。 そんな緑の森の中に、甍を聳えさせている大寺があった。 噂に聞く龍門寺なのだが、高い土塀に囲まれた境内は一面の松林で、近づいてみると、なお緑が深く、そして濃いかった。 そんな緑の勢いのためか、建物がいくぶん荒廃しているように見える。 ――気のせいなのだろう。 白壁の土塀が長々と続いて、その内側は寂としている。 諸堂の瓦屋根が鈍く光り、老松の枝を過ぎる風の音が聞こえてくるだけで、変化は、といえば、時折り飛来してくるヒヨドリの羽音とその鳴き声だけだった。 |
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妙心寺派の禅寺、天徳山龍門寺は、寛文元年(1661)盤珪和尚の創建だった。 重く閉ざされた龍門寺の門をやっとのことでこじ開けて、おそるおそる石畳を踏んでみると、盤珪和尚が苦行を積むその姿が、今でも方丈の一角に生きているように思えた。 元和8年(1622)というから、徳川家康の死後6年目、盤珪はこの年、播州揖西郡浜田郷の医者の3男として生まれた。 浜田郷とは、現在の網干区浜田のことで、関が原から既に22年が経ってはいたが、この年の8月、幕府は京都の町衆に向ってキリスト教徒を匿うことを禁止した。 長崎では55人が処刑されるなど、人心は関が原の後遺症から、まだ完全に立ち直れていない時期でもあった。 盤珪は、11歳で父道節を亡くした。享年52。 幸せに暮らしていたのだろうが、幼いながらも人の世の無情を感じたに違いない。 20歳になった盤珪は、修業の場を求めて全国行脚の旅に出た。そのときの逸話を拾ってみよう。 京の五条大橋の袂で4年の間、乞食をしながら暮らした。 あるいは、九州豊後の辺りにまで行脚し、そこで癩病の修行僧と寝食を共にしたこともあるという。 播州赤穂の随鴎寺、雲甫和尚について出家したのが17歳というから、20歳を過ぎるころまで修行を続けていく、苦行のほどが偲ばれる話だった。 24歳を迎えた盤珪は正保2年(1645)、全国行脚を終えて再び赤穂の師のもと、随鴎寺に帰ってきた。 そして赤穂の北東にある野中村の庵、後の興福寺に入って打坐修行の日々を送った。 |
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そうした修行の日々、ふと気がつくと春が訪れていたという。 しかもその明け方、瀬戸内海の遠く霞の彼方に、墨絵のように薄く濃く横たわる家島群島の長閑な風景を見ていた。 そしてそれを眺め入っているうちに、口をついて歌が出てきた。 見渡せば霞かかりてうすくこく うつすゑ島の春の明けぼの 歌の題は、『家島を見て』。 何日もの断食のせいか盤珪の身体は衰弱し、病は次第に悪化し、死に直面していると自ら覚悟を決めたような歌だった。 しかし、よくよく考えてみると、この世に特別な執着などあるはずも無いのだが、せっかくこの世に生まれてきたのに生きるための大問題を解決することなく、このまま静かに死んでいく…それはそれで、はなはだ残念なことのように思われる。 瞬間、盤珪は閃めいた。 ――この世の一切のものは、不生である。 26歳のときだった。 『在るがまま』こそが『明徳』であり、それが後に『不生』へと発展していく過程で、 盤珪が残した和歌に、開悟していくその姿が込められていると先達はいうが、体験したことのないものにとって、それは非常に困難なことだった。 色香をも知らぬ昔はみ吉野の 花もあだやに春をへぬらん 承応元年(1652)、盤珪31歳のときに詠んだ歌。 吉野の山中に草庵を結んで、引き続き修行していたころの歌だというが、ひたすら苦行を積む盤珪の、しかも偽らぬ心の奥が伺い知れる歌だった。 |
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盤珪は、丸亀藩主京極高豊らの帰依を得て、龍門寺を創建した。寛文元年(1661)、40歳の時だった。 弟子400人、尼僧270人を数え、法話、逸事、言行などを記録した書物も、三十部を超えていた。 寛文6年(1667)6月、健康を崩して、9月3日に入寂。世寿72歳。 龍門寺のほかに創建した寺は47か寺を数え、没後、盤珪禅師のために開山されたものを含めると、およそ150か寺にも及んでいた。 ――苦行の果てに掴んだ『不生』。 不生を説く盤珪に、大衆は湧いていた。 その龍門寺を、京都南禅寺、相国寺をはじめ関東から九州に至るまで、主だった道場の雲水が訪れたことがあった。 盤珪50回忌にあたる元文5年(1741)のことで、桜町天皇から大法正眼国師の号が贈られたときのことだった。 ――次の代を背負われる、そのようなお方は、もれなくお見えでした。 こんな声が聞かれるほどの大法要で、各地の士族、庶民も諸国から教えを乞って、この網干の里を訪れた。 90日の法要期間中、僧1,300人、信者5万人が押しかけ、里人の農家の納屋から物置小屋まで、宿をとる人で一杯になった。 ――網干の里、都となりて。 盤珪の不生禅は、庶民の暮らしに沿った生き生きとした説法で、これまでの禅に新しい風を吹き込んでいた。 『不生』、『在るがまま』の教えに、ふたたび聴衆は湧いた。 |
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そんな『在るがまま』を、分かりやすく説法する盤珪の聴衆の中に、ひときわ目立つ尼僧がいた。 不生禅の悟りを開いた禅僧と、揺れ動く心情を奥深く秘めた捨女との、初めての出会いだった。 秋風の吹き来るからには糸柳 心ぼそくも散る夕べかな 捨女が出家を決めたときの歌なのだが、尼僧は亡夫7回忌の翌年、天和元年(1681)12月21日、頭を落とし浄土宗に帰依、妙融と号していた。 ――丹波路では、示しを受けるほどの人には出会えそうにない。 2年正月20日、妙融は京へ出た。 仏門修行のかたわら俳諧と和歌の道に励むが、経済的には苦しかった。それを証明するかのように、彼女は公卿や武家の元に出入りして、和歌を教え、暮らしの一部としていた。 ――念仏一筋の生活。 それに徹することを、元禄の世は許さなかったのだろう。そんな日々、彼女は偶然にも網干の盤珪に出会った。 ――丹波にても聴きおよび奉り、久敷世に響きわたらせ給う盤珪和尚に、未だまみえ奉らず。いかにしても拝し奉らんと願い、天和2年卯月中の5日に、東の塔院、さる大名屋敷、いとう氏の元にて拝し奉る。 盤珪は、その年の春から山科の地蔵院に滞在していた。既に不生禅の悟りを得て、山陽から京、江戸、伊予、九州と行脚の最中だったが、彼女は、盤珪の元を訪ねた。 ――山科へはたびたび行く。 自伝にも書き残しているとおり、またとない求道の日々が続いていた。 天和3年(1682)4月15日、彼女は4年を過した京を離れ、網干の里へと旅立つこととなる。 ――『在るがのまま』の悟りを得る。 静かに説く盤珪の言葉の奥に、捨女は己の姿を見つけようとしていた。 既に出家していたとはいえ、捨女の作品は多くの俳諧集に選句され、貞門女六俳仙の一人に数えられるほどで、そのプライドが捨て切れないでいたが、甘えていた己の姿に、やっと気付いたのかも知れない。 ――このお方こそ、私を生かしてくださる人に違いない。 尼僧は、貞亨5年(元禄元年 1688)、名も貞閑と改め、龍門寺のそば近くに不徹庵という小さな庵を結ぶ。捨女56歳の時だった。 ――和尚のお近くで、その教えをさらに詳しく、もっと深くに。 |
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土塀と板塀に囲まれた不徹庵。広い境内を塀越しに覗いたその中は、冬木立が雨空へ大きく枝を広げていた。 庵の呼称にとらわれ、勝手な想像をしていた以上に、不徹庵のこの広さは意外に思えたが、ここでも門は、固く閉ざされたままだった。 ――それでも。 塀に沿って一回りしたとき、脇戸が開いて買い物に出かけるといった風情の婦人が出て来られた。 ――中へ入れていただけますか。 ――今日は開けてないのですが。 ――境内へ入れていただくだけでいいのですが。 ――あぁ、それならどうぞ。 木戸を入ってすぐ左手の建物は、庫裏と本堂だった。 その先にも寄棟造りの小さな堂がひとつあって、建物の前には落葉樹が多く植えてあった。その根元を苔が覆っている。 雨に緩んだ境内は、歩くといやでも足跡が残った。 その足跡が、不徹庵の霊域に不浄を残したような気がして、なんともやり切れなかった。 小一時間ほど不徹庵の境内に居させてもらったが、だれひとり訪れる人もないようなので、堂のヒサシをひとりで借りていた。 少しの雨でも、境内には水溜りができる。その水溜りをじっと見つめていると、次第に水の量が増してくるのがよく分かる。 小さな波紋が起きて、水面が拡がっている。 雨が少し激しくなって、広くなった水溜りの水面のあちこちに波紋が起こってきた。 それがぶつかり合って波紋は崩れてしまうのだが、またすぐその上に新しい波紋が拡った。 |
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水の動きの不思議さに心を奪われながらも、飽きることなく「貞閑禅尼」の本を読んでいた。 人が生まれて死ぬ、そんな世の中を高速度で見ることができたら、雨が落ちて無数の輪が発生し、消滅する…こんなふうなことだろうと、思う。 儚なければこそいとおしいのが、雨粒一滴の人の世かも知れない。 ――元禄の太平ムード漂う世相をよそに、播州網干の片隅で、ひっそりと己を見つめて生きた捨女。 だれもが明日の無事を、確かに語れなかった時代。年齢や境涯は違っても、見慣れた雨にふと物思いに誘われた。 そんな彼女をいとおしむかのような不徹庵。寄棟造りの建物の前に、一本の紅梅が目立って大きかった。 枝いっぱいに付けた蕾は、近寄るだけで音を立てて弾ける、と思えるほどに膨らんでいた。 |
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