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――数奇な運命に弄ばれた薄幸の美女。 千姫の物語はあまりにも有名なのだが、姫路城での10年足らず、朝な夕なに化粧櫓から男山天満宮を仰いで信心を深める暮らし振りは、70年の長寿を保って永眠した彼女の人生の中で、最も幸せな時期だったのかも知れない。 千姫の 春やむかしの 夢の跡 子節 千姫を詠んだこの句碑は、「城を詠める俳句展」が昭和8年3月、城内で盛大に催されたのを記念して俳句同人の白鷺会が建立したもので、文字どおり、束の間の幸せ…だった千姫の昔を偲んでいた。 城内西の丸の化粧櫓のすぐ下、自然石に刻まれ、句碑としては城内で唯一のもの。 |
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千姫は、徳川二代将軍秀忠を父とし、淀君の妹・お江(徳子)を母としていた。 大坂城の秀頼の元へ輿入れたのが、わずか7歳の時。典型的な政略結婚だった。 自分の没後も家康によって豊臣の安泰が続く、と願った秀吉の策から、以来、千姫は数奇な運命に弄ばれることになる。 10余年後の大坂夏の陣。大坂城の天守を包む炎の中で、夫秀頼は淀君とともに自害した。それは、豊臣と徳川の確執を一身に背負い、せつなく生きる千姫にとって、わが身を焦がす炎だった。 19歳の若さで後家となった千姫は、大坂城を引き揚げて江戸に帰ることになるのだが、その途中の桑名城で憔悴しきった千姫を見染めたのが本多忠刻だった。 家康は、大坂落城の翌年の元和2年(1616)4月に没するが、9月、桑名城の忠刻の元へ千姫は嫁いだ。 安穏な日々…ということになるのだが、その直後、忠刻の父・忠政の姫路移封が決まった。 ――桑名10万石から播磨15万石へ。 城主嫡男の忠刻夫人として姫路にやってきた千姫に、城下は沸いた。 遡れば秀吉築城のころから、あるいはもっと以前の中国大返しのときから、城下の町民は豊臣を身近に感じていたのかも知れない。 それに加えて、地方なりの弱者贔屓が重なったのか、千姫入城に姫路は大きく沸いていた。 持参してきた10万石の化粧料で西の丸化粧櫓が建てられ、新居の武蔵野御殿で、忠刻との水入らずの暮らしが待っていた。 |
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穏やかな日々の訪れ…。千姫と忠刻との間に、やがて長女勝子、長男幸千代と子どもに恵まれる。 そのたびに城下は沸き返っていた。 ――千姫贔屓の高まりは、反徳川の温床となる。 一家団欒を楽しみ、朝な夕なに化粧櫓から男山天満宮を仰いで信心を深める、そんな暮らしぶりは、ようやく人並みの幸せを掴んだような思いだったが、幕府筋はひそかに案じ始めた。 そんな平穏な日々の暮らしも、そう長くは続かない。幸千代が3歳で早世した。 ――この機会に、千姫贔屓の熱を冷まそう。 どこからともなく、城下に噂が流れ始めた。 ――千姫には、秀頼様の亡霊が憑いているというではないか。 翌年には、30歳の忠刻までをも失った。 今度は、淫乱な女だとの噂が広まった。 ――千姫が忠刻の体を求め過ぎて、死に至らせた。 二度までも夫を亡くした千姫は、病身の義父忠政を助け、気丈にも葬儀万端を執り仕切ったという。 城下の贔屓筋の熱狂は、傷心の千姫を庇い、播磨で立ち直ってくれるように願っていたが、弟の三代将軍家光に江戸帰国を促され、寛永3年(1626)11月、条件付きの帰国を承知した。 ひとつの決断を秘していた。 ――忠刻公の死後、召し上げられた化粧料10万石。私が帰国した後も本多家に与えるように。 勝姫とともに本多を去った千姫は、将軍家光に強く働きかけて、播磨本多のために便宜を図ろうと。これは、傷心の千姫が姫路を旅立つときに、熱狂的になって励ましてくれた城下へのささやかなお返しだったのかも知れない。 |
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江戸に戻った千姫は、吉田御殿に住んだ。 ――吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で。 世間から俗謡に唄われ、加えて姦婦の汚名まで着せられた千姫なのだが、播磨の歴史から見れば、むしろ貞節な妻の典型とも映る。 なぜにこれほどあしざまな扱いを受けたのだろうか。 持ち前の美貌と周囲の勧めを蹴って、女の側から再婚の相手を決めた情熱が悪女の噂を広めたのかも知れないが、いずれにしても、時代の生んだ悲劇のヒロインであることに違いない。 落飾して天樹院となった千姫は、ふたたび歴史の表舞台に登場することなく、ひそかに70歳の長寿を保って永眠した。 |
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