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姫路城の『ホ』の門を入ってすぐの壁、そこには観光客向けに歴代城主の紋瓦がはめ込まれている。 秀吉の五三の桐、木下の五七の桐、本多の三ッ葉立葵、松平の沢潟、榊原の源氏車、酒井の剣かたばみ…。 そのどれもが左右対称の簡潔な紋様だったのに、ただひとつ、輝政の紋だけが華やいでいた。舞い立たんばかりに輝いていた。 躍動的な紋の形は、そのまま池田三左衛門輝政の数奇な人生が凝縮されているようだった。 ――胡蝶アゲハ。 羽根を休めて、花の上で無心に遊ぶアゲハチョウのイメージなのだが、なかなかこの蝶、無心どころではない。 羽根は休めていても、触角はヒクヒクと動かしていた。 敵の動向と新しい蜜のありかを探し求めて、いったん方向を見定めると一直線上に飛翔した。 |
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池田輝政は慶長5年(1600)9月、関が原の論功行賞として播磨入りした。 この輝政の姫路入りに、城下はあっと驚いた。 ――姫路52万石。 石高に驚いたのは、まだ序の口だった。 この輝政という男、家康の次女督姫を妻に迎えていた。そして、姫路城の築城に掛かろうとしていた。 ――今度のお城は、徳川様の江戸城と同じ螺旋の縄張りというではないか。 女性の着物の裾に染め込んでも似あう、華麗なアゲハチョウの紋を背負いながら、熊蜂のように生きてきた輝政という男、このとき37歳だった。 なにしろこの池田輝政は、生まれ落ちたときから天下争いの渦中にあった。 祖母が信長の乳母だったことから、父信輝は信長と共に姉川の戦いで善戦した。輝政自らも天正6年(1578)、17歳で殊勲を挙げていた。 このときすでに、秀吉の養子となることが約束されていたということは、この段階で輝政の胡蝶アゲハは、乱世という時代の手によって、のんびりと羽根を休められない奇形に育つ運命にあった。 時の流れは、さらに輝政に苛酷だった。 秀吉の媒酌で、家康の次女督姫を妻としていた輝政は、関が原では東軍の徳川につかざるを得ないのだが、その軍こそは先年に兄を殺した軍勢だった。 そんな非情さの中で、三河吉田城の15万石から一気に石高3倍強、姫路52万石へと転じる幸運が転がり込んできていた。 関が原での功績だった。 |
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――栄誉と権威に包まれての、堂々の姫路入り。 関が原を東軍で勝ち抜いた旧豊臣方の武闘派仲間が慶長5年(1600)、九州、四国、中国の一国一城の主として赴任する。こんな形で播磨の江戸時代はスタートするのだが、ひとり醒めて、不安に思っていたのは家康だけだった。 大坂城の秀頼には65万石を安堵し、東軍についた旧豊臣方武将を九州、四国などの遠隔地に封じ込めた。 素早く戦後処理を済ませたつもりだったが、まだ天下をもぎ取ったような気がしない。 ――世間の太閤人気は、相変わらず根強いものがある。 大坂城の地下には、まだまだ金銀がうなっているというではないか。加藤清正など武力に秀でた武将も数多く残っている。 名と金と実力、その三拍子そろった旧豊臣方がいつ反乱を起こすか、だ。 家康の、こんな内心の不安の大きさが、そのまま姫路城の大きさとなって表れたのかも知れない。 読みおとしが随処にあるような気がしてならないが、大坂城の秀頼と西国の旧豊臣方武将、その間に打ち込まれた大きな楔が姫路城だった。 ――猛者(もさ)を姫路城主としては、余計に波風が立つ。 ここでは、当然のこととして姫路城の乱が想定されていたに違いない。 ――強い城主を姫路に置いては、かえって旧豊臣方の余計な反逆を誘いかねない。 家康の醒めた頭は、徳川家臣団の中から子飼いの輝政を弾き出していた。 それにもまして輝政の心中は複雑だった。 共に天下を狙った織田、豊臣、徳川の三代に仕えるはめとなり、しかも今度は、兄の仇である徳川の元で、大いなる隆盛を極めようとしている。 ――兄の屍と共に、あのとき果てるべきではなかったか。 そんな悔恨が輝政にはあったろうが、もちろん時代は、輝政の悔恨の思いにいつまでも留まっていることを許さない。 秀れた軍略家として高く評価された胡蝶アゲハ、乱世の中でいよいよ鋭く、蝶の触角をとぎ澄まさねばならなかった。 |
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三左衛門堀。 『姫路城史』によると、北条から袋尻まで延長18町。工事中に掘り出された土砂で、飾磨川(野田川)の三角州が埋め立てられ、向島が造成された。のち姫路藩御船役所が置かれるのだが、かりに三左衛門堀が開通していたとして、果たして輝政はどこへ軍船を向けようとしていたのだろうか。 |
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――だれが、いったい何のために。 刻々と塗り替えられる姫路の街の中心に、ひとつ忘れられたかのように澱んだ濠があった。 新幹線姫路駅の南側で区画整理が着々と進み、都市への塗り替えが急ピッチで進んでいる。その東側に、まるで原始河川のように澱んだ濠があった。 濠は、彼の幼名をとったのか三左衛門堀と名付けられ、両岸には水草を泳がせるほどに長閑な風情を残していた。 しかしその築造工事は、輝政の複雑な心の襞を象徴し、乱世の時代ならではの血生臭い意図が込められていた。 ――お城と海を結ぶことで、新たな舟運を開く。 三左衞門堀は、瀬戸内海と姫路城下を結ぶために、飾磨津から城下までの延長約4キロを幅25メートルの運河で結ぶという、遠大な構想だった。 もともとこのルートには、いにしえの飾磨川(現在の市川の本流)が流れていたのだが、輝政はその飾磨川を利用して運河を結ぶ、そんなことを、彼は思いついた。 ――お城の防備と舟運による繁栄。 一石二鳥を狙った遠大な計画だったが、いざ掘り始めてみると、海面との高低差が10メートル近くになって、そこに舟を通すには数か所に井堰を設けて、水をカサ上げしなければならない。 日本版のパナマ運河構想だったが、地形に阻まれて思いのほか難行していた。 ――誤算か。 苦渋の色を浮かべつつ工事の難行を訴える家臣を、輝政は憑かれたように督励したという。 せきたてられるような気分で挑んでいたに違いない。 仮に、三左衛門堀が輝政の誤算だったとしても、そこは輝政、堀を掘ることで余った残土で飾磨の入り江の三角州を埋め立てた。 そこに、船役所を築いていた。 |
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このころの姫路城下は、というと、秀吉の手によって開かれた野里、龍野町などの新しい町並みが整いつつあって、市街化への歩みを始めていたが、しかし、52万石大名に抜擢されて野望に燃える輝政にとって、小集落が散在する城下の佇まいはあまりにも物足りないものだった。 輝政は、着任早々、新しい城下町づくりの準備に掛かる。 姫山南面の通称にすぎない『姫路』を、88町におよぶ城下町の総称にしたほか、家老の伊木忠繁に命じて新しく町割りをさせ、果敢に城下町づくりに挑んだ。 ――城郭を中心に町全体を濠と土塁で囲む、総曲輪構想。 内曲輪に天守を置き、中曲輪には武家屋敷を、外曲輪と街道沿いには商人や職人の住居を整然と配置させた。戸数にして5,360戸、武士と町人を合わせると約3万人の城下町となっていた。 現在の姫路の町に、かつての城下町の面影を見ることはできないが、その町名の大半は引き継がれている。 そして町の骨格は、輝政が描いた都市計画のままに広がっていた。輝政が描いた都市計画は、400年近い時の流れを超えて息づく傑作だった。 誤解を恐れずにあえていえば、輝政の業績は、数え上げればきりがない。 姫路城の築城はもちろんのこと、先ほどの城下町の建設、高砂港の開港、市川や加古川の付け替え、竜ヶ鼻波堤の築造、新井村と一本松新村の開発から、塩や藍などの特産品育成…と。 その大半を慶長5年(1600)の播磨入りから、18年(1613)に病没するまでの10数年間に成し遂げ、いかに凄まじい勢いで事業を進めていったのかが、十分に伺える経歴だった。 |
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ところが、輝政の播磨入りから8年目。螺旋式縄張りの大天守の城郭が、姫山にその姿を現し始めたころ、大城郭に相応しい城下町姫路が整え始めたころのことだった。 ――自分が命がけで守るべきなのは、何を隠そう、秀頼さまではないのか。 輝政の胸中に、波涛が高まっていた。 ――秀頼さまは、見るからに立派な青年として育っていると、大坂からの風の便りで聞くではないか。 長い夢から醒めたかのように、輝政は思い始めていた。 ――政権がこのまま徳川のものとなり、豊臣に返上されることがないなら、今、秀頼さまを立てて豊臣再興に決起するのが、武士としてのスジではないか。 輝政の動揺を見透かすかのように、徳川幕府は子ども名義で加禄している。 二男忠継に備前28万6,000石、三男忠雄に淡路6万3,000石と、池田を実質100万石の大大名に押し上げていた。 ――身は徳川に縛られながらも、心は次第に豊臣へと傾く。 そういえば輝政は、自らが築いた高砂港に1千石以上の船を数100捜も繋いで万一に備えていたという。 ――自分には、本来、豊臣方で戦うべき血が流れている。 懊悩の果て、輝政は姫路築城後わずか4年で他界した。 そして、督姫と婿の輝政に酷い思いをさせまいと、ぎりぎりにまで戦火を控えていた家康なのだが、輝政の死後、ためらうことなく大坂城を攻め落とした。 ――羽根を休めて、花の上で無心に遊ぶ…。胡蝶アゲハ。 未完のままに終った三左衛門堀が、輝政が考えていた海上戦の夢の跡だとすると、その心は徳川と豊臣の間を振り子のように揺れていたに違いない。 ――羽根は休めているように見えても、ヒクヒクと動いている触角。 内なる葛藤が輝政の生涯を縮めたのかも知れないが、ついに三左衛門堀は、その完成を見ることはなかった。 仮に三左衛門堀が開通していたとして、果たして輝政は、しんと静まり返った心の中のいちばん奥深いところで、どちらへ軍船を向けようとしていたのだろうか。 |
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