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秀吉から、鶏足寺焼き討ちを命じられた官兵衛は、一瞬たじろいだ。 彼は幼少のころ、近くの僧侶から読み書き、和歌を習ったことがあり、お寺にはひときわ愛着があった。 しかも峰相山鶏足寺といえば、神功皇后が三韓へ派兵したとき連れ帰った、新羅の王子が開山している。古刹だった。 草庵を結んで、十一面観世音菩薩を祭ったのがその始まりというから、由緒あるお寺だった。 |
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こんな書き出しで始まる『峰相記』は、播磨国風土記に次いで古い播磨の地誌だった。貞和4年(1348)というのは北朝の年号で、南朝では後村上天皇の正平3年のことだった。 これまでの歴史に例のない南朝と北朝の対立という異常な時代に、『峰相記』の筆者はひとり、深山の趣ある峰相山に登って、山頂の鶏足寺を参詣していた。
勧められるままに宿坊に一宿して、夜を徹して語り明かした、という。
語り明かした内容を書き留め、老僧と筆者の問答を書き残す、そんな体裁をとっているのが、この『峰相記』なのだが、ただ惜しむらくは、あまりに微に入り細に入るためにしばしば煩わしい感を与え、読む者をして根気を失わせてしまう。 筆者は、鶏足寺に関係のあった僧というだけで、どこのだれであるのか、詳しく特定されていない。 原本は既に失われ、写本や転写本が残るだけで、最も古いものが永正8年(1511)2月7日の奥付を持つ『斑鳩本』だった。 当時の宗派である12宗の概要、播磨の霊場や寺社の縁起、由来、それに田地、人物、故事、戦乱など、鎌倉末期の播磨の現実がいきいきと描写されていた。 |
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このように尋ねたところ、つぎのように答えられ、その縁起を語ってくれたという。
『峰相記』によると、空也や性空も、この寺に籠っていた。法華経の写経をしたという。 金堂、講堂、法華堂、常行堂、鐘楼、五重塔など、僧坊300余を誇る堂宇は、播磨第一の名刹に相応しい偉容を誇っていた。 ――そんな名刹を、秀吉は消してしまえという。 官兵衛は異を唱えようとしたが、秀吉の厳しい表情を見て、口をつぐんだ。 秀吉にしてみれば、信仰を傘に反抗する僧侶を許せない。そういえば主君信長も、叡山や根来寺を根こそぎ破壊することで、世人の胆を冷やしていた。 ――信長を、師とも仰ぐ秀吉に意見しても、聞き入れてくれるはずもない。 |
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そんな秀吉と官兵衛の出会いは、天正3年(1575)の盛夏のことだった。 京都相国寺の信長の宿を訪ねたあと、数秒の語らいのうちに、秀吉の将としての器量を見抜いた官兵衛。 一方の秀吉も、官兵衛の知恵の深さに舌を巻いた。 ――英雄は英雄を知る。 そんな表現がぴったりの出会いだった。 天下取りの表舞台に躍り出て野望を果たそうとする秀吉と、希代の軍略家として陰の演出役を果たそうとしていた官兵衛。 この出会いは、播磨の命運をガラリと変える歴史的な瞬間だった。 ――東の織田、西の毛利。いずれにつくべきか。 官兵衛が仕える小寺の御着城内では、東西勢力の評定が開かれていた。 選択を誤ればたちまち自らの滅亡につながる、そんな評定が続く中、きっぱりと織田の天下を予言したのは、ほかならぬ官兵衛だった。 毛利はもちろん、三好、北条、武田、島津と諸将の形態を分析したあとで、官兵衛はこう断言した。 ――ひとまず天下は、織田のものとなるは明らかなり。 わずか4,000の兵で4万の今川勢を破り、近江、越前など要地を評定した織田の勢力について、理路整然と見解を述べる官兵衛の前に老臣たちも返す言葉がなかった。 小寺の方針を決定させた官兵衛は、上洛中の信長と先ほどの相国寺で会い、初めて秀吉を紹介されていた。 ――中国征伐の折りは、しかるべく大将を播磨へ派遣されたし。小寺政職が先手を務める。 天正5年(1577)、信長は中国攻めの兵を出した。総大将はもちろん羽柴秀吉で、京での出会いから、すでに2年余りが経っていた。 ――どうせやるなら、早いほうがいい。 |
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腹をくくった官兵衛は、すぐさま行動に移した。 鶏足寺の僧兵300余人は、太市村構居の桐野勝条に加勢を頼み、防戦しようとしたものの官兵衛の敵ではなかった。 官兵衛は、山裾から一気に押し寄せ、勝条の兵を破った。 ――命だけは、助けようぞ。 こう呼びかけながら、官兵衛は火を点けたという。 強風に煽られた堂宇は、メラメラと燃え上がり、坊舎に篭もった衆徒は続々と官兵衛に降参した。 真っ赤な業火に身を置きながら、秀吉の喜ぶ顔を想像していた勘兵衛は、その陰で秘かに決心していた。 ――時がくれば、自分も天下を盗ってやる。 後世、名軍師として名を馳せる官兵衛なのだが、その原像は鶏足寺攻略にあるという。 今でも峰相山参道には、信仰の跡を留める石碑が残され、陽差しがまぶしかった。 |
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