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播磨平定の任を受けた秀吉は、長期戦に苦しみながらも天正8年(1580)正月、三木城を落とした。 残っているのは、宍粟の長水城と播磨・英賀城。そのふたつだけとなっていた。 ――いずれ一戦。 英賀は、7年(1579)の冬以来、金銀、米麦、酒などで篭城に備え、近隣諸国には援軍を要請するなど、応戦の準備を整えていた。 なにしろ、英賀城主の三木通秋は、信長の石山本願寺攻めにあたっては大坂に兵を向け、三木城の戦いにおいては援軍を差し出すほどに徹底した反信長で、その姿勢を崩していなかった。 その砦が、播磨・英賀城だった。 |
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秀吉によって三層の姫路城が築き上げられるまでは、三木、御着と共に播磨三城のひとつとして、規模と勢力を誇る英賀城だったが、今日では英賀神社境内の一角に残る土塁のほかには、礎石ひとつ見ることはできないという。 城影を追って、英賀に出かけてみよう。 ――ついでに、秋の七草でも探してみよう。 どういうわけか今年は、夏がやっと終わったと思ったら台風が二度も来ていた。まともに晴れた日がないようで、湿った残暑にひとり腹を立てていた。 9月最後になって、ようやく晴れた日の午後3時過ぎ、電車に乗って出かけてみた。 いちばん早く見つかったのは、萩の花だった。 これは、山陽電車西飾磨駅から歩きはじめて間もなくのころで、空き地の雑草に混じって紫色の花を点けていた。 いちばん目立っていたのは、女郎花の黄色い花で、謡曲の女郎花伝説では、冷たい男を憎んだ女が川に身を投げ、その朽ちた衣が花に変わる…。一つひとつの花には、たしかにそんな風情が感じられるのだが、寄り集って咲いているのを見ると、遠くからでも一目で女郎花だと分かる花だった。 哀しい伝説など忘れさせてしまうような花だった。 かつての英賀城は、岩繋城の別名があるように、海にせり出した岩盤に築かれていた、という。 西に夢前川、東に水尾川。 ――牛が腹まで浸かって田を鋤く。 そんなふうに喩えられるほど、深く広い泥田が北の奥深く、どこまでも続いていた。 南は田井が浜で、松林の浜にヒタヒタと波の寄せる瀬戸の海が、そのまま城の濠だった。 天然の要塞・英賀の地の利は、そのまま水城・英賀のさまを彷彿とさせてはいたが、しかし今日、英賀に城の影がない以上に英賀から水が引いていた。 昭和12年の新日鉄広畑製鉄所の進出に伴う、大がかりな区画整理と浜の埋め立てで泥田の濠は消え、海は遥か彼方に遠のいていた。 何年か前に取材で訪れたとき、藤袴の花を見つけたことを思い出したので、もう一度同じ場所に行ってみようとしたが、今となっては、その姿、形を見ることができない。 新しく造成された児童公園の小さな花壇で、既に枯れかかってはいたが桔梗が、なんとか青紫の花を付けている。 仕方がないので、英賀七人衆のひとり、三木新六郎の血を引くという友人を訪ねてみることにした。 |
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――こやつ、10年も前は活き活きとして逞しかったが、このごろはヨタヨタとやってきては、縁側にゴロリと横になってしまうんだ。 古い友人の家の猫の額ほどの庭に、トラネコのノラネコが毎日のようにやってくるという。人の年齢で数えれば、ほぼ私たちと同じぐらいの年格好だろう。 その彼は、夕刻になるとやってくるという。 ――友人が6時と7時の間に、夕食を摂るのを知っている。 夕食に魚を食べるのも、良く知っているようだった。 友人も、そのノラネコが何の目的で時間どおりにやってくるのか分かったつもりでいたので、魚を半分食べ残してノラネコの皿にお裾分けするのだという。 魚を皿に入れるとき、彼はニャアーと軽い挨拶をした。サンキューとかアリガトウとかのつもりだろうが、そのノラネコは、友人が縁側のガラス戸を開けておいても入ってこない。ドロ足で床を汚してはならないと、固く節度を守っているのだろう、と、友人は笑いながらいう。 ――ネコは、飼いたいとは思わないよ。 友人は、その彼がノラネコだから尊敬している、ともいう。 人にじゃれついて、ゴマをするようなことはしない。ましてや、ご主人の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らし、美味しいものにありつくなんてことは全くの言外のことで、友人が頭を撫でてやろうとすると、彼は唸り声をあげて牙をむく、とも。 ――魚はもらっても、決して人間に気を許さないところが、また気に入っている。 ノラネコは、魚を食べ終わると大きく欠伸をして、おもむろに向きを変え、足元を踏みしめるようにして去って行った。 ――食事も最低限で、眠る場所も最小限。自己主張も無いに等しい。 人もこれぐらい無欲になれたら、さぞかし心が安らぐことだろう、と。 ――うらやましいもんだな。 そして近ごろでは、ネコ語の練習をはじめてみた、と。 ネコと話ができると面白そうな気がすると、はにかみながらいう。 ――ネコのように生きてみたい。 |
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英賀と秀吉の避けられぬ一戦は、大方の予想よりも早く起った。 ――中国の毛利が、備前・美作と播磨の国境付近に進攻。 天正8年(1580)、そんな情報が飛び交うと、秀吉の播磨入りが予定より大幅に早まり、すぐに対決の布陣を引いた。 三木城陥落から、まだ2か月も経っていないときのことだった。 ――いずれ信長が乗り出してくる。 播磨で、秀吉と毛利が正面衝突すれば、これはもう代理戦争どころではない。 ――織田、毛利の激突。 そんな戦国最大の戦いが、この西播磨を舞台に展開されるはずだった。 ところが毛利勢は、秀吉出陣を知って恐れをなしたのか、にわかに徹退した。肩すかしをくった格好の秀吉は、盛り上がった戦意をもてあまし、毛利勢との対決ムードを、そのまま英賀攻略に持ち込んだ。 3月29日、秀長を総大将とする兵力が、英賀城を囲む。 ――激戦。 とくに英賀城主通秋の子、安明は、18歳の凛々しい若武者でありながら、勇敢に兵を切り倒したという。 あまりの激しい戦いゆえに、秀吉勢から和議開城が申し入れられるのだが、英賀城側としては徹底抗戦の構えを崩さない。 いくら包囲されてはいても、英賀には食糧と兵がどこからともなく補給されていた。 |
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秀吉をてこずらせたのは、城の構えだけではなかった。 城主通秋から一兵卒に至るまでが、筋金入りの本願寺門徒で、蓮如門弟の下間空善が念仏道場としての英賀御堂を築き、英賀に念仏の灯が点じられてから68年もの歳月が経っていた。 ――信長や秀吉は、阿弥陀様の仏敵。 英賀門徒は結束して立ち上がり、秀吉に煮え湯を飲ませるまでに燃え盛っていた。 信長の本願寺攻めに英賀から兵を送ったお返しとして、こんどは石山本願寺からの支援部隊も加わり、意気は益々高まっていた。 ――石山の仇を、英賀で。 ところで英賀御堂本徳寺が、英賀城西の夢前河畔に煌びやかな姿を映し出したのは、永正9年(1512)のことだった。 近郊の衆が押しかけた6月3日、蓮如は既に亡くなってはいたが、その孫にあたる実円が落慶の鐘を響かせた。一町半四方の境内には、南北9間、東西7間の本堂を中心として諸堂が建ち並び、三方の門を設けた寺内には数多くの坊舎が建てられていたという。 仏の近くに座を占めていた英賀3代目の城主通規は、もはや城主でも豪商の頭領でもない。空導の号を持つ、ひとりの念仏者にすぎなかった。 ――このさい謀りごともやむを得ぬ。 秀吉は、苦しみ悩まされた英賀の水を逆手に取る作戦に出た。 河下口を守っていた三木与一兵衛ら5人に、50石の朱印を与えると約束して寝返らせるという作戦に出た。そして浜から回り込み、小舟で城内に潜入した。 やがて、打ち合わせ通りに城内から火の手が上がる。城中は大混乱となって、天正5年(1577)4月26日、あえなく落城した。 ――水を占領された、英賀は脆い。 |
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――英賀衆は、武力で覇権を志向する、そんな集団ではありませんでした。 やったぁ〜、と秀吉勢は歓声を上げただろうが、城内に取り残された一人ひとりにも、生活があり、家族があり、歴史があり、誇りがあった。 ――英賀は、英賀御堂と町衆によって、きっちり治められていたと思いますよ。 混乱のすきを突いて城主通秋は、筑紫へ逃げ延びた。 播磨で最期の抵抗だった。 ――英賀は、夢前川の河口を巧みに利用して、それを濠として囲み込んだ寺内町だったんです。 もともとは、港町として栄えていたという。 それに、本願寺の中でも御坊といわれる高いクラスのお寺を中心に、三木氏をはじめとする武士とも商人とも区別ができない有力者が集まっていた、とも。 2年後の天正10年(1582)にまとめられた『英賀日記』によると、英賀城側の死者は2,750人。秀吉勢は700人余り。この英賀に、屍骸の山が築かれたことになる。 ――記録を残していきたい。 英賀七人衆三木新六郎の血を引くという友人は、遠い記憶を抱きしめて、これまでの370年と自分の50年を生きてきていた。 ――城が消え、城が生まれる。 そしてこの英賀落城は、三層の天守を持った秀吉の姫路築城の始まりとなるのだが、幻の城・英賀は、城影を追う者に戦国の非情さを、よく教えてくれた。 秋の乾いた光の中で、心の中がしんと鎮まり返る、そんな英賀でのひとときだった。 |
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