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 御着が、揺れ動く歴史の舞台になろうとしていた。
 歴史の舞台という表現が適切でないなら、熱い眼差しで見詰められていた。

 その御着は古くから開け、地名の起源は神功皇后の時代にまで遡る。『播磨鑑』によると、そのころの海岸線は今の妻鹿と八家の間を少し北に入った見野の辺りにあって、その入り江に皇后の舟が接岸していた。
 そこを御着というようになった、と。









御着城跡碑。
別名、天川城、茶臼山城とも呼ばれる。『茶臼山城地絵図』(宝暦5年)によれば、城の中心部に本丸と二の丸を置き、北東には四重の堀、南西は天川を外堀として堀をめぐらせていたと。
城跡は、明治以後、小学校用地となっていたが、現在では市役所の出張所になっている。










 ところで、その御着を熱い眼差しで見詰めていたのは、織田信長と豊臣秀吉だった。
 信長から中国征伐を命じられた秀吉は、天正6年(1587)、播磨を基地として毛利攻略を考える。その先導役として選んだのが、父祖以来の城、姫路城を持っていた黒田官兵衛で、その官兵衛の主君が御着城主の小寺政職だった。
 小寺氏は、もともと村上源氏赤松一族の流れをくむ名族で、秀吉は官兵衛を用いることで政職を味方に引き入れるのだが、彼とても心から秀吉に服従していたわけではない。時の流れを官兵衛に説かれて、しぶしぶ秀吉に従っているだけだった。
 播磨の名族としての意地。そんなものが小寺政職の胸中を、去来していた。

 そもそも小寺が播磨の歴史の表舞台に登場してくるのは、正平4年(1349)、姫山に縄張りをして自ら城を守っていた赤松貞範が、姫路城の北東約10キロにある庄山城を築いて移った。それと同時に、姫路を小寺に任されてからだった。
 小寺は、後醍醐天皇を奉じて一族が挙兵した元弘3年(1333)から、赤松家臣団の先頭で戦ってきていた。
 城主の座は、小寺頼季から景治、景重、職治、豊職、政隆、則職へと受け継がれる。
 その在城記録を見てみよう。
 高齢で城主になった初代、頼季。若くして戦場の露と消えた2代、景治。3代影重は、わずか14歳で城主となって在城46年。4代職治も、やはり14歳から在城37年。5代豊職、22年。6代政隆、28年。御着に移った7代、則職以外は、いずれもその人生の大半を姫路城で過していた。
 応永の乱(応永6年 1369)、応仁の乱(応仁元年 1467)など、繰り返される戦乱の中で城主の座はしばしば揺らぎ、現在の姫路城にイメージされるような、決して安穏としたものではない。戦いの中でつかんだ姫路城主の座だった。




 


小寺大明神。
御着城の本丸跡にあって、小寺一族を祀っている。



 


 楠一族との山崎男山での戦いが、景治のとき。3代景重は、南朝の九州侵略に端を発した、九州の戦いに遭遇していた。
 4代職治は嘉吉の乱。主家再興をかけた但馬山名との戦いが、5代豊職のときで、三木の別所、山名との庄山攻防戦が6代、政隆。7代則職は、主家内紛の争乱と、小寺の歴代城主は例外なく死の渕を経験していた。

 7代150年。姫路城主小寺の歴史は、戦いの歴史だった。
 とくに将軍謀殺に端を発した嘉吉の乱では、赤松追討軍によって城山城に封じ込められただけではなく、赤松満祐とともに4代職治が壮絶な最期を遂げた。
 小寺も主家・赤松とともに没落し、26年の間、城主の座を山名に奪われる、そんな苦しみを味わうこととなった。
 しかし文明元年(1469)、わずか12歳で家督を継いだ5代豊職が、赤松再興とともに城主の座を奪い返した。
 大永元年(1521)、赤松義村、浦上村宗に謀殺された。
 そんな事件が起きるや6代政隆は、よほど浦上との内紛にあきあきしてしまったのか、永正16年(1520)赤松家臣団からの独立を決意した。
 ――姫路の城主は、則職(7代)に任せた。
 ひとり御着に城を築いて、移り住んでしまった。

 ――小寺の苦悩を。
 城跡を訪ね、JR山陽線御着駅から駅前通りを北へ歩いてみた。最初の交差点を東へ、旧山陽道を歩いてみる。
 江戸期には大名が泊まる本陣が設けられ、旅人宿が並び、賑わっていたという御着の宿を訪ねてみることにした。
 『播磨鑑』によると、本陣・天川久兵衛。その敷地約7,000平方メートル、部屋数30とあるが、明治の中ごろには取り壊されて跡形もない。







天川橋。
姫路藩が天川に架けた太鼓橋。全長26.6m、幅4.45m、高さは、もと5mあった。橋の中央の下は、御着城の濠の跡。






 旧山陽道の沿道は、新旧不揃いの家並みがどこまでも続いていた。
 何となく落ち着きを感じさせる風情も残ってはいたが、かといって古くからの民家が残るでもなく、本陣や旅人宿、町屋のほとんどが姿を消していた。
 ただ宿を営んでいたころの家の屋号が、今日なお地元では通用しているところに、江戸の名残が生き続けているように思えた。
 県道を横断して少し歩くと、天川に出た。ここには実用一点張りのコンクリート橋が架けられていたが、昭和47年9月9日、集中豪雨で天川が増水し、橋が落ちるまでは石の太鼓橋が渡してあったという。
 姫路藩が石工瀬助に命じて架けたものだった。
 ――5本の橋脚を持つ太鼓橋。
 幅5メートル、長さ33メートルの総石造りで、高砂市から産出される竜山石製。文政11年(1828)の完成だった。

  虹染飛架空。
  昴昴浮霞彩。

 参勤交代の西国大名に、藩の威信を示すために架けられた橋だろうが、橋柱のひとつに詩文が彫り刻まれていた。
 ――空中高く虹に染まり、
 朝焼け夕焼けに橋が浮ぶ。
 そんなふうな意味だろうが、天川橋を渡り切ると、そこはもう御着城の縄張りの中だった。
 その城は、天川の流れを巧みに利用しながら、茶臼山の小高い丘に築かれていた。別名、天川城とも、御着茶臼山城とも。数年前までは小学校があったというが、今では公園として新しく整備され、城郭を模した市役所の出張所が建っていた。








黒田家廟所。
御着城主小寺家の家老で、にちに筑前藩主となった黒田家の墓所。黒田重隆(官兵衞の祖父)と職隆の妻・明石氏を祀っている。地元では「チクゼンさん」と呼ばれて親しまれ、享和2年(1802)の建設当時のままを保っている。






 ――戦国を偲べるものは、なにも残っていない、な。
 五月晴れの長閑な風景だったが、目線を少し移してみると、南の高台には城主3代をお祭りする小寺明神、天川神社があった。
 ――ここが、かつての本丸跡か。
 西には黒田家廟所。東には、御着城調査のためなのだろうか、発掘跡が生々しく残されていた。
 その廃墟は、小寺一族が滴らせた苦汁を象徴しているかのように思える。
 ――長さ110間、横80間。古城は本丸・二の丸ともに60間4方なり。
 『播磨鑑』はこう書き残しているが、宝暦5年(1755)の『御着茶臼山城地絵図』によると、街道の北側には本丸、二の丸があって、本丸は東西52間というから、およそ90メートル。南北は、54間。そしてその周囲を、4間から8間(およそ7メートルから15メートル)の内濠が囲んでいた。
 西と南は、巧みに天川の流れを外濠として利用し、東と北は四重の濠を巡らす堅固な城構えで、街道と町屋の全てを城内に取り込む、総構えの城だった。







 7代目城主則職のとき、姫路城を預かっていたのは、備前福岡から移ってきた黒田重隆で、その子職隆、そして孝高と、3代にわたり小寺に仕えた。
 黒田は、もとは宇多源氏から出た家系だったが、重隆の父高政のとき将軍の怒りに触れ、近江から備前の福岡村へと逃れ住んでいた。
 重隆が父高政の家督を継いだとき、黒田家に残されていたのは一振りの太刀と一領の甲冑だけだったという。
 そんな貧乏暮らしをするある日、重隆はお告げの夢を見た。
 ――廣峯名神を頼って、播磨へ行け。
 ここから黒田の運命が大きく変わる。
 黒田家に先祖から伝わる目薬を調合し、廣峯の祈祷札を付けて売りに出した。この目薬が、なぜか大衆に受けていた。
 目薬で富を得ることができた重隆・職隆の黒田父子は、お家再興をめざして百姓上がりの手勢200人と徒党を組み、主家小寺の所領を荒らし回っていた香山(現在の新宮町)の豪族、香山重道を討った。
 重道の首と財を、手土産として小寺に献上するのだが、小寺はその功に報いるためか、重隆を客将として迎え入れ、そのうえ献上してきた香山の領地と姫路城を重隆に任していた。
 天文12年(1345)のことで、乱世ゆえの異例の大抜てきだった。

 ――目薬で財をなし、一国一城の主にのし上がる。
 重隆が姫路城に入った翌年の11月、孝高が生まれた。この孝高こそ、のちに秀吉の名参謀として歴史の表舞台で活躍する黒田官兵衛孝高だった。
 そのころの播磨は、というと、赤松が衰え、東を三木城の別所が制し、西の御着は小寺、英賀には三木が勢力を張るなど、変動の激しい時代で下克上の乱世だった。
 孝高、16歳。
 御着城の近習として、小寺政職に80石の禄で取り立てられ、翌年には父職隆に従って初陣。17歳の元服を飾っていた。
 そして永禄10年(1567)、孝高22歳、志方城主櫛橋伊定の長女と結婚した。
 ――たとえ一日でも早く、才ある孝高の名を世に出そう。
 そんな考えからか父職隆は、小寺の家老上席を孝高に継がせて自分は引退。同時に孝高は、姫路城主となっていた。







 天正6年(1578)、加古川の野口落城。これを皮切りに神吉、志方と、別所の城が落とされた。
 別所長春の切腹は、8年(1580)の正月のこと。これで播磨は、ほぼ信長の手勢に落ちたことになる。
 2月、英賀の三木一族は播磨で最後の抵抗を試みたが、秀吉の大軍に力およぶはずもない。『播磨鑑』は、結末をこう書いていた。
 ――英賀の城滅びて、播磨一国静謐になりにける。 

 御着城は、英賀より早い天正7年(1579)12月、秀吉の軍を迎えていた。政職は一戦を交えたが、2日間の激戦の末に密かに英賀に逃れた。
 ――そもそも御着城は、長期の抗戦に耐えられる城でない。
 ここで、小寺3代在城60年の歴史が閉じられるのだが、『黒田伝記』は、合戦の様子をこのように伝えている。
 ――主君の無念を2,000の将兵はよく心得え、家臣の原小五郎重親は、秀吉が本陣を置く御着南方の火山に強矢を放った。秀吉自慢の千成瓢箪の馬印を射当て、その肝を抜いた。
 土地の古老、御着城史跡保存会の皆さんの話が耳元を離れない。
 ――御着城は、天川の流れを巧みに利用し、内濠、中濠、外濠と三重の濠を巡らす、当時としては壮大な城でした、ね。
 城跡の土塁の東北に回ってみたが、かつての濠跡が水田として残るだけだった。
 木々は一斉に芽吹いていたが、薫風が若葉を無心にそよがせている。陽光がキラリと光ったように思えたが、そんななにげない五月の風光の中で、播磨人の意地を貫いた小寺政職の生きざまを思った。




















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