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柔らかな春の陽差しを受けて、彩り豊かな3つの置き山が静かに開幕を待っていた。 ――三ッ山大祭。20年目ごとに迎える総社のお祭り…。 こう話し出しただけで、もう、童話めいた長閑さがつきまとってくる。 ちよっと間のびした語感と、20年というサイクルが、現代の生活感から随分とかけ離れているせいだろうか、つい眠たくなるような話だった。 それもそのはず、この総社のお祭りは、もともとが大人たちのメルヘンだった。 |
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ところで、神々といえば堅苦しくて厳めしく、場合によっては威圧的なのだが、播磨の三ッ山の神にはそれがない。形からして、メルヘンの世界から抜け出たように、優しくて夢想的だった。 神を信じるということは、本当のところは、背中に温かい陽差しを受けて、ほのぼのとした大らかな気持ちで生きていく。そういうことなんだと、この三ッ山が教えてくれているようだった。 しかし、この三ッ山。それは決して神さま自らが手渡してくれたものではない。元を辿れば、ひとりの人間が受けた衝撃とその心のありようから生まれていた。 姫路市から北へ外れること30キロ。宍粟郡一宮町・伊和神社に、この話は関わる。 葛海という半島出身の男が、伊和山に入って狩をしようとしたところ、山が地鳴りを伴って揺れはじめたという。 気味悪くなった男は、ウサギ一匹も獲らないままに山を駆け降りるのだが、地揺れは次第に大きく、そして激しくなった。7世紀中ごろの話だった。 男が山から降りるとき、擦れ違った土地の少年が耳元で呟いた。 ――伊和の山は、神の山。獲物がないのは神の意志。 ――そうだったのか。 葛海は、素直に了解した。 ――ここが神の山なら、この辺りの動物は神の使い…。 それを獲ろうとしたことで、神が怒った。 ――だから、山が揺れたのか。 祭りの季節ではなかったが、葛海は臨時に伊和の山の神を祭った。 正しくは、伊和神社の三方にある北の花咲山、東の白倉山、西の高畑山に宿った神々を祭った。 それが三ッ山、一ッ山大祭の始まりだという。 |
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人は死んでのち、汚れの期間が過ぎると、清らかな祖霊となって山の頂きに宿るという。そして、時に応じて人里に下りてくる。子孫に幸いをもたらすためだった。 里に社殿ができたりすることで、祈りの形式が整うまでは、山上の大きな岩や高い樹木が神の依代として信仰されていた。 より以前は、自然の山そのものを神体として拝んでいた。 これが原初の神祭りの姿だというが、もうひとつしっくりとこないものが残る。 ――地上に人工的な「やま」を造り、その頂きに神の降臨を仰ぐ。 そんな形式を「置き山」といい、総社の一つと三つの置き山の話は、このことに端を発しているのだが、それでは宍粟郡一宮の伊和の神事が、どのような経緯を辿って姫路に移ってきたのだろうか。 ――任務を無事に終え、早く都に帰れますように。 そのころ、国司が地方に赴任したとき、まず、その国内の主な神社に巡拝するのが仕来たりになっていた。 ――赴任した土地の神々に、その加護を祈る。 ところが、そんな神社巡拝を大変に面倒なことと思い、赴任地の祭神を一か所に呼び集める、そんな横着者の国司が現れた。 播磨では神々の分身174座が、播磨政庁に近い射楯兵主神社に集められ、そのお宮が播磨国総社となった。平安の終わりごろのことだった。 当然のことながら、一宮・伊和神社の祭神も播磨国総社に迎えられるのだが、ところが伊和神社は、「やま」をご神体として崇めてきていた。 ――山を動かす。 そんなことができるはずがない。 しかし、これまでの祈りの伝統は無視できない。そこで人工の山を造っての堂々の総社入りとなった。 うっかり禁足の聖地に入り込んでしまった葛海の祈りのこころも、途中に出会った土地の少年も、捕り損なったウサギも含めて、三つと一つの人工の山とともに播磨国総社に遷された。 61年目ごとに行うのを大祭といい、また俗に一ッ山。これに対して、置きやまを3基造り、21年目ごとに行うのを臨時祭といい、三ッ山と呼んだ。 |
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ところで、播磨国総社に神々が呼び集められたときの播磨の国司は、はたしてだれだったのかと探ってみると、意外な人物に出会った。 平宗盛だった。 もちろん知行国司だから、実際の播磨の仕事は身近な者に任せていたのだろうが、この宗盛といえば、平家最後の当主で、しかも播磨国の神集めが行われた年は、父清盛が亡くなった年。家を継ぎ、平家一門の最期の闘いに挑んでいるころだった。 ――播磨の神事などに、関わっておられない。 平家一門が亡びの危機に直面していた宗盛の、神への祈りのこころは熱くなっていたに違いない。養和元年(1181)のことだった。 それからおよそ340年後、時代は戦国時代。播磨の守護職・赤松義村が、大々的なお触れを出して、賑やかに祭典を催した。 この義村の三ッ山が記録に残る初見で、大永元年(1521)6月のことだった。 義村は、将軍暗殺事件でいったんは滅んだ赤松一族の再興をかけて登場する赤松政則の養子で、荒れた白浜・松原八幡神社を復興し、その竣工のときに米俵二百俵を寄進している。氏子たちが、列をなしてお旅所まで米俵を運んだという。 それが今のけんか祭りのお練りの始まりというから、このことだけでも赤松一族の神への熱い思いと祈りのこころを感じるには十分なのだが、義村も、宗盛と同じように一族凋落の兆しに直面していた。 次は赤松晴政で、父義村を幽閉し暗殺した浦上村宗を討って播磨の守護職に返り咲いた天文元年(1532)9月、盛大な式年三ッ山大祭を挙行した。 このときから、21年毎に大祭を行うことを決めたというが、この晴政、21年目毎の挙行を決めたということは、赤松家が永遠に存続し、一族が繁栄し続けることを前提としていた。 晴政の、神への祈りの心を感じさせるにはこれだけで十分なのだが、なぜか赤松も、宗盛と同じような一族の凋落の兆しに直面していた。戦国時代ならではの下克上に晒され、身近な家臣の反乱に揺さ振りを掛けられていた。 そして文禄2年(1593)、姫路城主・木下家定が、久しく途絶えていた祭りを復活させた。この家定もまた、宗盛が平家最期の当主だったと同じように、姫路における豊臣最期の城主だった。 |
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秀吉の天下統一で群雄割拠の時代が終わりを告げ、さらに関ヶ原が終ったことで長い封建時代を迎えていた。この時代、播磨も大きなうねりの中にあった。 姫路城主も、秀吉から異父弟の秀長へ、秀長から木下家定へ、さらには池田輝政へと。わずか20年ばかりの間に4代もの城主が入れ替わる、そんなめまぐるしい動きは、そのままこの時代の縮図だった。 木下家定は、 山崎の戦いで秀吉が姫路城から兵を出したときの姫路城代で、そのときの経験を買われたことが城主就任の大きな一因だろうが、背景には家定の妹ねねの存在があった。 ねねは、言わずと知れた秀吉の正室で、秀吉にしてみれば戦略上極めて重要な姫路に、義兄を置きたかったに違いない。が、北政所であったねねの存在は、関ヶ原での家定の立場を苦しいものとし、このことは播磨の行方に微妙な影を落とすこととなる。 石田三成と家康の対立による関ヶ原が、ねねと側室淀君の対立で、家定はねねの兄であることから当然ねねと繋がる東軍につくべきなのだが、大義名分は秀吉の実子・秀頼を担ぐ三成の西軍にあった。 ――いずれについて戦うべきか。 家定は迷った。 挙句、いずれにも属さないで、京都でねねの守護に当たってしまった。結局のところ関ヶ原は終り、よくいえば中立、悪くとれば優柔不断。戦後の論功行賞からは洩れ、備中足守城へと移された。 |
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――新しい時代に乗り切れなかった不運の家定、その運命の行方は…。 この話は、そんところに落ち着くのだが、波乱の時代の大きなうねりの中で、久しく途絶えていた祭りを復活させた家定の神への熱い祈りのこころは、以来一度も途絶えることなく現代に伝えられていた。 葛海、宗盛、それに義村、晴政。そして家定、と。 長い歴史の中でぽつんぽつんと出てきた名前は、ほとんど偶然のようでありながら不思議と似通っている。播磨国総社の神事に絡んだ、それぞれの心のありようは、揃って切羽詰まっていた。 伝わってくるのは、各人各様のせき立てられた気分と足元を突き崩すような衝撃。 そして、熱い祈りのこころ。 それゆえに彼らは、山に宿った神々をしっかりと見ることができたのだろうか。 1993年3月、三ッ山大祭が華やかに開幕した。 播磨国総社の境内、東から二色山、五色山、小袖山の3つの置きやまがあって、高さ18メートル、直径10メートルというから、ちょうど6階建てぐらいのビルの大きさだった。 二色山は白と浅黄の絹布が交互に巻かれ、その上には仁田四郎のイノシシ退治。五色山は、五色の絹布に源頼光の大江山鬼退治。 小袖山は、氏子寄進の着物で被った山に、俵藤太のムカデ退治。 それぞれの山に、それぞれ造り物が飾られ、松や榊の枝を差し込むことで伊和の山を模していた。 ――竹のしたたかなしなやかさ。木綿の、おいそれとは擦り切れない柔らかさ。 1993年の春、播磨の里人に神は見えたのだろうか。 葛海や義村、晴政、そして家定のように、山に宿る神をしっかりと見ることができたのだろうか。 ――頑張って、もういっぺん一ッ山で会いまほかな。 バスの待合所で、こんな会話を耳にした。 ――とてもとても。せいぜい次の三ッ山まででんな(笑)。 冗談を飛ばした人も、冗談を真に受けてしまった人も、三ッ山の20年という年と自分との距離にもっと敏感になっていい年格好だったが、全くそんな気配がないようだった。 |
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3月31日早朝からの神事は、白浜海岸での潮かきではじまり、夕刻には松明の灯りの中で八百よろずの神々を厳かに迎える。祭礼期間は7日間。 ハイライトは4日目の中日祭で、五種神事が行われるというので出かけてみることにした。 姫路城三の丸広場は、晴天に加えて七部咲きの桜も見ごろ。円形の馬場の周囲を、ぎっしりと人が埋めていた。 平安時代の武官姿の騎手3人が、並み足、早足、駆け足で場内を3周しながら神意を伺う競べ馬。鎌倉時代の狩衣を着けた射手が、走る馬上から的に矢を射る流鏑馬など目白押しだった。 的の手前でたたらを踏む馬。見事に的を射ることができたが勢い余って疾走し、曲がり損ねる馬。ハプニングが興を呼んで、大きな歓声が入り乱れた。我が事のように一喜一憂している。 そして最終日の7日夕刻は、門上殿還御と山上殿昇神の儀。ラストはなんと、レーザー光線のショ―で締めくくられた。 ――これは困った。 20世紀のレーザーショーでは、葛海や宗盛、それに義村、晴政、そして家定のような切羽詰まった心のありようが持ちにくい。 ――これでは神が見えてこない。 どうやら1993年の三ッ山大祭は、春の長閑さの中にもピリッとした警告が込められているようだった。 |
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