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嘉吉元年(1441)6月24日、6代将軍足利義教を、京都・西洞院二条上ルの赤松屋敷で謀殺するや、赤松満祐は急ぎ書写山麓の坂本城へとって返した。 出迎えた守護代に、こう言い放った。 ――将軍の首、獲ったぞ。赤松の天下が来た。 世にいう、嘉吉の乱の始まりだった。 |
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その日、京の赤松屋敷はいつになく華やいだ雰囲気に包まれていた。 篝火に照らされた能舞台では、猿楽が幽玄の世界を醸し出し、一段高い御座の間には主賓の将軍義教が陣取っていた。 居並ぶ近習、諸大名らも、結城合戦の戦勝祝賀の美酒に酔いしれていた。 ところが、座が寛いだところで突然のざわめきが起こった。義教が声を上げる。 ――なにごとぞ。 いきなり背後の障子が開かれるや、数人の屈強の刺客が乱入し、将軍の首を刎ねた。一瞬の出来事だった。 周囲が止めに入るすべもなく、山名煕貴、細川持春は殺害された。大内持世は重傷。細川持之、山名持豊らは、起こった事態を正確に把握できないまま、その場から逃げ出すのがやっとだった。 ――思慮分別もある59歳、赤松満祐。 足利幕府と赤松一族の絆を断ち切って、そればかりか大祖父・円心から三代に亘って築き上げた地位と領地を賭けて、満祐があえて強硬な手段に出るにはそれなりの理由があった。 |
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赤松氏といえば、草深い播磨上郡から起った一族で、元を辿れば村上天皇の血を引く名族だった。 満祐の4代前の円心は、南北朝の動乱期に一族を率いて大いに気を吐いていた。 後醍醐天皇を中心として展開した元弘の乱(元弘元年・1331)で、護良親王の令旨を奉じて苔縄城に挙兵してから、歴史の表舞台に忽然と登場してきたのだった。 その後の円心は…、というと、麻耶山で六波羅探題軍を破り、敗走する軍を追って京まで進撃している。 足利幕府の重鎮にまでこぎつけるのだが、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の始まりとともに護良親王の立場が微妙なものとなってくまい、結局のところは、後醍醐天皇によって失脚させられていた。 親王派だった円心は、冷飯を食わされる。 一族の期待が裏切られた格好となってしまうのだが、足利尊氏が建武の新政に造反したと聞くや、いち早く尊氏と盟約を結び、全面的な協力を約束している。 建武3年(延元元年・1336)正月、鎌倉から京に攻め上った尊氏は、いったんは敗れて九州に逃れるのだが、円心は白旗城で新田義貞の追討軍をくい止めるという活躍ぶりを見せていた。 その間に勢いを盛り返した尊氏は、4月になって九州から再上洛を企てる。 5月、尊氏と円心が室津で会見。その後、湊川兵庫の戦いで楠木正成、新田義貞を負かして再入洛を果たすのだが、その年の11月、建武の式目を公布し、幕府再興を成し遂げていた。 尊氏が、いったんは九州に逃れたのは円心の献策によると、『梅松論』は伝えている。 それと同時に、光厳天皇を奉じて尊氏もまた官軍となるべきこと、摂津・播磨を自分に賜わるならば追討軍を播磨でくい止めてみせる、そんなことまでをも約束していた。 この献策が、事実かどうかは別にしても、それ以後の歴史はまさに円心の思惑どおりに展開していた。幕府再興とともに、円心は晴れて播磨の守護に、長男範資は摂津の守護職に着いた。 尊氏が、円心の功績を高く評価した、ということになるのだろうが、円心の野望は、これぐらいで満足していたのだろうか。 心の底奥深く、密に赤松幕府の実現にあった、というのは言い過ぎだとしても、満祐は赤松中興の祖・円心に深く私淑していた。 |
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ところで、暗殺されたこの将軍義教は、先の5代将軍義時の急死を受けて、僧籍にあった弟義円が環俗し、義教と改名しての新将軍就任だった。 将軍の有資格者である兄弟4人のクジ引きの結果、その地位を得たもので、『クジ引き将軍』と揶揄されるほどだった。このことは室町幕府が、管領ら有力守護の連合政権であることを象徴し、そしてそれは、政治の矛盾が随処に現れつつあることを示すものでもあった。 将軍義教は、同族の反目を極度に警戒していた。 中央政治の危機を回避するためか、これまでになく専制を強め、それはやがて、武家、公家、僧侶から町衆までを巻き込む恐怖政治へと突き進んでいた。 永享11年(1439)年2月、関東公方の足利持氏の討伐を契機にして、その専制は重臣にまで遠慮なく及んでいく。三管領のうちから細川を除く、斯波、畠山を退けたかと思うと、四職の山名、京極、一色の家督をも、自らの意に叶う人物に継がせる、そんな気まぐれ政治を始めていた。 ――薄氷を踏む。恐怖千万。 残った赤松の首のすげ替えも、もはや時間の問題となっていた。 ――討たねば、討たれる。一戦交えても、播磨はこの手で守る。 赤松の重臣たちは、満祐狂気の名目を立てても、若い長男、教康を擁立しようとし、そんなことをしてまでも、なんとか義教の専制から逃れようと考えていた。 ――赤松の処断は免れ難い。 なんの展望も見い出せないままに、冒頭の将軍謀殺へと走っていく。 ――大祖父・円心公が果たせぬ夢。われらがこの手で実現する。 御座の間に飛び込み、真っ先に首を刎ねたのは安積行秀だった。 事件の後、満祐は赤松屋敷に火を掛け、そして一族700騎は京の町を堂々と行進し、西国街道を播磨へと急ぐのだが、手柄の行秀は、というと、将軍の首を剣先に貫いて高く掲げて行進していた。 播磨へ引き上げる満祐に、都人の同情の声は高まり、それゆえに満祐は安国寺(現在の東条町)まで帰ったところで、義教の首を丁寧に弔った。 ――われらは、大衆の義憤を代行したまでのこと…。 |
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書写坂本城で、満祐の帰還を首長くして待っていたのは、作用、小寺、上月、間島、浦上、宇野、別所など諸国に名を馳せた一族88家だった。 『赤松盛衰記』では宗徒88人、総勢2,907騎。『嘉吉記』によれば、宿将その数3,907騎が、先を競って坂本城に駆けつけていたという。 この辺りでちょっと、やたら事実の末鞘を追い、重箱の隅を楊枝でほじくるような作業に専念してみよう。 ひとつひとつの事柄を丁寧に積み重ねることで、その瞬間的営みから湧き出る喜びを知る、そんなところだろうか。 この書写坂本城は、もとを辿れば円心の子、則祐が、戦いに備えて築いた城だった。180メートル四方もある居館式の平城で、周囲に土塁と濠を巡らした大規模なものだった。 昭和56年の市の発掘調査では、東西の濠、西の土塁、素掘りの井戸一基、掘立柱建物柱などが検出され、備前、瀬戸の焼き物をはじめ、土師質、須恵質、瓦質の土器、青磁、白磁、染付けなどの中国製磁器など、さまざまな日常雑器が発掘されていた。 木製遺物の残りも多く、木簡、漆塗り木椀、箸、曲げ物、桶、下駄、櫛、数珠玉など実に豊富なものがあって、当時の日常生活を良く伝えている。 そんな坂本城で、連日の軍議が重ねられた。 明石、須磨、丹波口、但馬口、戸倉口、美作、備前と、播磨に通じるそれぞれの前線に重臣を配した備えが決まろうとしていた。 突然のクーデターだったが、そのやむなきに至った京でのいきさつを、満祐は重臣たちに説いていた。 ――新たな将軍を擁立することで、追討軍と対決する。 満祐は、そんな戦略を打ち出そうとしていた。 ――南朝の子孫を旗印に。 僧に身をやつして備前井原庄に潜伏していた、将軍足利直冬の孫、冬氏を、書写東坂本の定願寺に迎え、そこを井原御所とした。 ――還俗して、その名を義尊。 新将軍足利義尊の名で御教書を作り、賊軍と戦うように諸国に触れを回している。 かつて大祖父円心が、護良親王の令旨をもって諸国に呼び掛けたのを見習って、満祐もこれに従おうとしたのだろうが、しかし、円心が諸国の情報を細かく集めて挙兵の時を探ったのとは、まるで様子が違って、諸大名の動静が敵か味方か、その判断も曖昧なままに御教書を送ってしまっていた。 管領細川持之の手にもその御教書が渡るという不手際もあって、逆に幕府軍の結束を固めてしまう結果となた。 |
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とはいえ、一方で、赤松追討軍の立ち上がりも鈍かった。 義教が、武士ばかりでなく町人までもが恐れる圧政を引いていただけに、細川持之も意志を固めかねていたのかも知れない。 事件を10日も過ぎて、ようやく赤松追討を決めていた。 出陣もまた、大幅に遅れていた。先発隊の出発は、編成に手間取ったのか7月11日になってのことだった。 山陽道を進む大手軍は細川勢で、但馬から入る搦手軍は山名勢が中心となっていたが、注目されたのは大手軍の中に赤松貞村、赤松満政らがいることだった。 同じ赤松一族でありながら、追討軍に回った者がいるということだった。 ――赤松惣領家を、円心の三男、則祐系が代々独占するのは面白くない。 惣領家に異心をいだいく有馬持家、赤松貞村など赤松庶子家の面々、とくに次男系の貞村が、赤松総領家に日頃から反発していたのをよく知っていた将軍義教は、軋みを増幅させて楽しむかのように、満祐の所領を削っては貞村に与えていた。その結果なのかも知れない。 そんなことを、満祐は許せるはずがない。 ――いよいよ、総領家と庶子家が戦うはめに…。 この満祐追討の戦い。世にいう嘉吉の乱は、単に将軍暗殺者の追討戦だけではなく、細川と山名の二大勢力のさや当て、赤松惣領家と庶子家の争いのほかに、南北朝の擾乱の再来ともなる政治的思惑が大きく交錯していた。 そしてこの結末は…というと、京の町を焦土と化して11年間も戦うはめになる応仁の乱(応仁元年 1467)へと続いていく。 戦いは7月25日、まず兵庫で火ぶたを切った。 ――緒戦に勝てば運が味方する。 満祐は、機先を制して夜襲をかけた。 この奇襲は円心公以来、赤松得意の戦法だったが、しかし多勢に無勢、但馬口が崩れると、西に美作・備前でも、なすすべもなく満祐は敗れた。 4,500の軍勢で生野峠から侵入した搦手軍の山名持豊は、神崎郡の大山口、粟賀、田原口で満祐の前衛を蹴散らし、そして一気に、坂本城へと肉迫した。 敗走を重ねて、各陣から集まっていた満祐の兵に、もはや戦意は衰えていた。 ――追討軍を一気に叩く。 将を残して一目散に郷里へ逃げ帰る兵が現れだすと、赤松勢の総崩れは時間の問題だった。 ――この戦いが最期となるだろう。その前に…。 大声を張り上げた満祐は、こう付け加えた。 ――神仏のご加護を。 日ごろから満祐らが信じていた卒塔婆経、すなわち柿経(こけらきょう)の経文を木簡に書き付けて、お城の濠に流すのだという。 |
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――戦いに利あらず。 柿経への願いも空しく8月30日、満祐は抗戦することなく坂本城を棄て、城山城へわずかな側近と逃れた。 細川勢の大手軍も、赤松の本城・白旗城を目指すことになる。 畠山持国の8,000騎をはじめ、佐々木、高瀬、赤松貞則ら6,000騎。その後に総大将の細川持之ら諸国大名の軍が続いていた。 先頭が白旗城に着いても、後陣は加古川、明石まで列をなす大軍だったという。 これに対し白旗城を守っているのは、わずか400人ばかりの、それも敗残兵だった。 かつて新田義貞が6万の軍で、50日にわたって攻めても落ちなかった白旗城だったが、あえなく落城した。そして最後まで持ち応えた城山城も、連日の山名の侵攻をよく防いだが、ついに白旗落城が知らされることになった。 赤松家断絶の実感が、満祐の胸の奥に迫っていたのかも知れない。 ――大祖父円心公が、元弘の乱で頭角を現してから110年。 則祐、義則、満祐と、4代続いた赤松の栄光が断たれる。 慌てた満祐は、弟の義雅を手招いて、祈るようにして頼み込んだという。 ――おのれの子、千代丸を連れて逃げよ。力尽きても千代丸だけは、逃げ延びさせてくれ。 赤松再興の細い望みの糸を、この世に繋ごうとしていた。 ――もはや、これまで。 9月10日、満祐は、自ら城に火をかけ果てた。享年69。一族68人にも、自決を促した。 やはり反逆は、両刃の剣だったのかも知れない。 将軍謀殺から、ほぼ80日が経とうとしていた。 そして一族の最期を見届けながら切腹したのが、将軍義教の首を刎ね、赤松きっての勇士と詠われた安積行秀だった。 |
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週末の午後だったが、バスに乗って書写坂本へと出かけてみた。 嘉吉の乱の舞台として大きな役割を果たした坂本城なのだが、その割りに分からないことが多すぎるような気がして、朝から雨模様の天候で肌寒かったが出かけてみた。 バスの中でも市街地の大通りでも、擦れ違う人の色彩が温もりのある色彩に変わろうとしていた。 木の葉の色味が少しずつ変わるように、人も季節に包まれていく。そんな雨上がりの午後だった。 『然成仏道』『三菩薩』『囗囗神王守護囗囗』『囗七寶囗』『我即囗囗』 思いつくままに経文を書き付け、漣立つ濠へ流された柿経なのだが、その木簡はさながら何千もの小舟のように、風を孕んで坂本城の濠に流れたことだろう。 そんな風景を探し求めてみようと、思いつくままに歩いてみたのだが、城跡など、どこを探してみても見つかりそうにない。 読みおとしがあったのかも知れないと、少しばかり落胆した。 仕方がないので、裏通りにある古道具屋のショーウインドを覗いてみたら、以前から欲しかった画集が見つかった。幸運だった。 古びた小さな画集を抱いて、今度は近くの喫茶店へと急いだ。 だれかの蔵書だったのだろう、蔵書印が鮮明に残されていた。大切にされていたことが、ひしひしと伝わり、そしてこの人が、画集を手離した経緯を思ってみたりもした。 ――ひょっとしたら亡くなられた後に、古本屋に出たのかも知れないな。 そんなふうなとりとめもないことを考えながら、窓の外を流れる秋の人と街を見つめていた。 |
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満祐の、このときの柿経が、500年の歳月を経て坂本城跡の東濠から、続々と発掘されているという。 遺跡出土品としては、福井県の朝倉一乗谷遺跡、広島県の草戸千軒町などと並び、全国では30余例が確認されている木製遺物だった。 ――次なる課題なのかも知れないが、十分に愉しませていただいた。 濠跡の泥水が、満祐らの一念を留めている。 根拠があってのことではないが、さらに発掘が進むのを見守ってみたい。 彼らが見た風景を通じて、歴史の風景を見極めてみよう。 ――赤松一族を滅亡させたのが、はたして何だったのか。 その辺りのことをもっと知りたいと思いながら、水辺に流された一字一字に、赤松一族の悲願が刻まれている…。 そんなふうに思う、週末の午後のひとときだった。 |
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