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出土した石棺の蓋石や底石などに、さりげなく仏像や梵字などを刻んだものを石棺仏と呼んでいる。 ときには息を呑むような美しさに出会えることもある。 刻銘を調べてみると、鎌倉から江戸期までのものが大半で、それぞれの時代の雰囲気を持って点在していた。 執拗に追いかけてみよう。その多くが南北朝の動乱期のもので、18個が姫路で確認されている。 |
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白浜町にある石棺仏は、家形石棺の蓋石を利用したものだった。 縦1メートル30センチ、横80センチ、厚さ33センチのものに、高さ53センチの地蔵立像が刻まれていた。舟形光背から錫杖まで、はっきりと分かるほどに肉厚浮彫の地蔵像だった。 向かって右に、陰刻の文字が10文字ほどあったが、どう読んでみても判読できない。しかし左側のそれは、はっきりと年号を確認できた。 ――明徳3年壬申10月19日。 きっちりと、1392年という歴史が記憶されていた。 ところで明徳3年といえば、南北朝最期の年だ。 600年の風化をほとんど感じさせることのない地蔵立像なのだが、騙されたつもりで、隣の松原山八正寺の壮大な伽藍に忍び込んでみた。 ――沈黙が支配している…。 寺伝によると、神亀元年(724)、行基によって開かれていた。 少し前までは、隣の松原八幡神社の鳥居近くに海があったというから、この松原辺りは白砂青松の言葉そのままの清々しい情景、鎮護国家を祈る密教空間、荘厳な聖域だったに違いない。 八正寺が隆盛を極めたのは、律令の弛みから播磨国国分寺が生彩を欠く、そのあとを継いだのかも知れない |
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中世の荘園分布図を広げてみた。 松原荘は、継荘とともに石清水八幡宮の荘園となっていた。で、その周辺はどうだったかというと、国分寺荘が伊勢大神宮、的形荘が妙法院、大塩荘が後宇多院、南禅寺、そして飾磨津が、伏見宮家といった具合だった。 社寺明細帖によれば、弘仁年間(810〜1823)に八正寺を訪れた弘法大師空海が、真言密教の道場を開いたとあって、同じ海岸沿いの高砂十輪寺も空海の開基というから、松原辺りのこの話は、あながち伝説だけとはいいきれないものが残る。 唐に渡る船上から陸を眺めていた空海が、ここ白浜・松原辺りに差し掛かかったとき、この土地が道場を建立するに相応しい土地であると見込んだ、その結果なのかも知れない。 ――船上から望む、松原…。そして、背後の麻生山、仁寿山と。 ふたつの山を背にして広がるこの辺りを、松の枝越しに眺めていた空海が、この土地の持つ聖域としての整いに強く惹かれた、そんなことがあったとしても、あまり不思議なことではない。 いずれにしても弘仁年間以降、八正寺は高野山末の真言寺院として信火を繋いだ。 ――青い海面に朱塗りの塔が映って揺らぐ…。 播磨灘を往来する船から見ればその景観は、まさに海に浮かんだ仏国土の趣を見せていたに違いない。 五重塔をはじめ、諸堂の甍を並べた平安期の八正寺は、隣接の松原八幡宮の神殿と連立して荘厳を極めていたことだろう。 |
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ところで、このころの播磨は、というと、武装して徒党を組んだ悪党が刈田狼藉、強盗、放火を極めていた。これまでの荘園秩序を破壊し、守護職も手を焼いていたに違いない。 ときには、幕府に挑戦状まで叩き付けることもあったという。 そんな悪党の構成は、地頭御家人であり、荘園の代官であり、浮浪人、犯罪者までをも含んでいたことだろう。 ――この時代の播磨が、どこまで一般的な時代の風潮に晒されていたのだろうか。 廣峯神社の社領に悪党が跳梁した、そんな古文書が残されていることから、その時代の影響が播磨にも及んでいたと見るのが、より自然なのかも知れない。 ――時代の潮流から、播磨だけが自由である。 そんなことは、いつの時代でもあり得るはずがない。 ――円心が挙兵。 倒幕の動きに乗じた円心の活躍振りについては、稿を譲るとしても、紆余曲折の中で播磨は赤松時代を迎えようとしていた。 ――赤松代々の祈願所、松原八幡神社・八正寺。 円心が虎の皮の大太鼓を寄進したとか、種々雑多な寄附証文が残されているというが、南北両朝の対立という動乱の世紀だけに、赤松祈願所もまた、しばしば緊迫の空気に包まれた。 なかでも嘉吉元年(1441)6月24日、嘉吉の乱の報は、松原一帯を大きく揺るがせた。 ――赤松満祐、将軍足利義教を謀殺。 追討軍の勢いに、じりじりと後退を余儀なくされる赤松軍だったが、ここ松原あたりも兵馬が砂塵を立てる戦陣の巷と化したことだろう。 一連の争乱で、松原八幡神社と八正寺は鳥有に帰してしまうのだが、一般の民家も大きな犠牲を受けたに違いない。 赤松祈願所としての栄光と受難が、大きな影を落としたことになる。 |
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――赤松一族、69人が城山城で自害。 これを受けて、山名持豊が播磨の守護職に就いた。 兵火に罹った八正寺は、120年後の永禄年間(1558〜70)、遅ればせながらも復旧されるのだが、塔頭のひとつ、霊山寺にいたっては天正2年(1574)を待たねばならなかった。 ようやく、かつての荘厳さを取り戻すことになった八正寺だったが、天正8年(1580)、またもや戦火を受けて神社・寺院ともに焼け落ちた。 今度は、三木城を攻める豊臣秀吉の軍だった。 こんなふうにして八正寺の受難は、明治の廃仏棄釈まで続くが、そのたびごとに八正寺は甦った。 明治維新の廃仏毀釈では、霊山院、宝蔵院、光明院、文殊院、鎮城院、宝積院など塔頭寺院のすべてが壊され、わずかに残された光明院の薬師堂を本堂として現在の八正寺があるという。 ――嵐に遭いながらも、1,200年の信火を絶やさない。 その答えはどうやら、毎年旧2月7日に行われる鬼踊りの中にありそうだった。 赤鬼、青鬼の勇壮な踊りに加えて、除災来福を願って面箱に殺到する浜っ子たち…。 ――板一枚、下は地獄。 そこには海に生きた男たちが夢にまで見る、陸の極楽世界が広がっていた。それが八正寺であり、松原八幡神社だった。 ――極楽世界は無くなってはいけない。 眼前の海がシケて、ときには人を呑み込むような地獄の様相を見せてくる限りにおいては、極楽世界がこの播磨から無くなるわけにはいかない。 |
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八正寺の境内は、いつものように人の気配を絶やし、昼下がりの風だけが歴史の匂いを揺らめかせている。 ――少しでも音を立てると、その音が残響して600年前の南北朝が、蜃気楼のように動き出す。 そんなふうに思える、午後のひとときだった。 ――この石棺仏は、長い間、八正寺の庫裏の庭に埋もれていたのですが、つい最近になって、ひょんなことから発掘されましてね。 若い住職は、囁くようにして話してくれた。 ――実際、南北朝の動乱にあっては、神も仏もなかったことでしょうよ。 武士の世界だけでなく、百姓も、悲惨な状況が展開された。力だけが正義だった時代には、力を持たない百姓は逃げるしかない。 ――逃げまどいながらも、来世に希望を繋ぐような生き方。それしかなかったのでしょうね。 南北朝がようやく終るという明徳3年(1392)、石棺の蓋に向って背を丸めながらノミを振る男がいた。 ――地蔵菩薩は、釈迦滅後の無仏時代に六道の衆生を救う。 菩薩像を一心に刻み続ける男の胸中が、その彫りのひとつひとつに偲べるようだった。 ――地蔵菩薩。その名を唱えるだけで、苦しみを抜き去ることができる。 石棺に菩薩像を刻みつけようとした男に宿った情念は、動乱の時代に生きる者の祈りというより、怒りの色に染められていたに違いない。 不条理の時代に弄ばれた、命への苛立ちすら感じさせる、そんなふうに思える午後のひとときでした。 |
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