時の流れは、歴史の表舞台を風化させるだけでなく、何気ないありふれた風景の中に埋めてしまう。
 姫路市の北東部、豊富町酒井にある曹洞宗円通寺という禅寺も、また例外ではない。山号を龍陽山という。
 播磨平野を取り囲む周囲の山並みの姿が、どこか龍にも似ているところから、こう名付けられたのであろうが、この播磨の龍は、あの黒い雨雲に立ち向かう猛々しい龍ではない。
 陽差しにのんびりと、背を伸ばすようにして横たわっていた。

 ――悲劇は、そこで起こる。
 南北ふたつの朝廷ができて間もない延元4年(1339)、2台の牛車仕立ての輿が、龍でさえまどろむ長閑な播磨平野、但馬街道の曽坂峠を越えようとしていた。
 輿の主は、藤の前とふたりの男児。それに20人余りの若者が付き添う、寺社参りの形をとっていた。
 ――家族そろっての寺社詣で…。
 ところが、実は追っ手を掛けられていた。















 ――鎌倉が滅ぶ。
 歴史の転換期には、あらゆる野望が渦巻き、駆け巡る。権力欲、物欲、色欲…と。
 そんな歴史の影は、長閑な播磨に色濃く落ちていた。
 ――東へ、東へ…。
 平野を突っ切って走り去る人馬の列は、いずれも息せき切って、ギラギラと光っている。
 ――この手で、歴史を変えてみせる。
 天皇新政を目指す後醍醐天皇が、流罪先の隠岐島から京へ向かったのが、正慶2年(1333)のこと。再度の武家政治を目論む足利尊氏が、山陽道で荒々しく砂塵を巻き上げた。
 南と北のふたつの朝廷が対立するという異常な時代、その幕開けだった。

 そんな動乱期に、野心を持って生き抜いた人物を挙げるとすれば、足利幕府の第一の武将、高師直ほど相応しい人物はいない。だれにでもそう言わせるほど、彼が室町幕府の創設に果たした役割は大きかった。
 足利尊氏が大望を抱いて大挙上洛し、室町幕府を開いたのが建武3年(1336)11月7日のことで、その執権職にあった師直は、暴虐を極める悪政の数々、それどころか都の女を漁色しては邪淫に耽っていた。
 そんな好色漢、高師直がひとりの女性に目を付けた。
 出雲の守護職、塩治高貞の妻がそれで、高貞に嫁ぐまでは弘徴殿の局と呼ばれ、後醍醐天皇の愛を一身に受ける、そんな女性だった。
 隠岐に流された天皇に同行するなど、身近に仕えたお気に入りの官女だった。







 ところで、天皇新政をめざしていた後醍醐天皇は、なににかえても隠岐脱出を計りたかった。
 そのとき一番乗りで駆けつけたのが塩治高貞で、名和長年らと鳥取県西の船上山へ、1,000余騎を率いて駆けつけていた。
 幕府軍を破り、天皇の京都遷幸の先駆けを果たした。
 そんな高貞に、後醍醐天皇は早田の姫、顔世御前を与えたのだが、姫は、またの名を藤の前。天皇のおさがりとはいえ、いわくつきの女性で折り紙つきの美女だった。

 ところが、そんな幸せも、崩れるきっかけはたわいもないこと。
 ――源氏物語の桐壺や夕顔などの女御が、さてどれほどの美しさだったのかは存じませぬが、その女人は、それはそれは宮中一でございます。
 半ば酒席の戯言のように藤の前のことが持ち出され、師直が本気になって熱を上げ出す。師直の色好みを刺激してしまったのだ。
 ――それでは。
 先ずは、恋文攻めから始まった。当代の名文家、兼行法師を狩り出して、ラブレターを代筆させた。
 薄く漉いた鳥子紙に、とても師直の手になるとは思えない流麗な筆文字で、葉の浮くような言葉が連ねてあった。
 ――とんだ迷惑。
 藤の前はいっこうに聞き入れず、まったく埒があかない。
 それもそのはず、塩治高貞という田舎武者に降稼した彼女にしてみれば、高貴な舞台からすべり落ちたとはいえ、朴訥な愛を受け入れることで新しい人生に入ろうとしていた。







 南朝を強く支えていた楠木正成や新田義貞も、すでに戦死し、騒乱のきっかけをつくった後醍醐天皇までもが、吉野で亡くなっていた。
 もはや北朝を立てた足利尊氏の優勢さに揺るぎはない。
 ――かつての夢に、思いを馳せるすべもない。
 平凡ながらも日々満ち足りていた塩治夫人の座だったが、しかし不幸は、そんな日々を送る藤の前を襲い、権力に任せて、師直は執拗に迫ってきた。
 ――ええい。夫の塩治高貞を殺してでも、わが物にしてみせる。
 業を煮やした師直は、いきり立って策を練り、遂には、高貞追討の兵をも出した。
 ――高貞に、謀反の心あり。
 不意をつかれた格好の高貞は、夜中、密かに京を離れる。
 ――逃げるしかない。京を離れるしかない。
 山陽道から若狭の国へ、そして本国の出雲へと急いだ。
 藤の前とふたりの子どもは、2台の牛車仕立ての輿に乗って、八幡宗村ら34騎の徒党とともに丹波篠山から播磨路へ。そして出雲へと落ち延びようと。歴応2年(1339)3月、南朝でいえば延元4年のことだった。

 ――ここは、いずこの国なのか。
 御簾の隙間から藤の前が声をあげた。
 ――明石よりこちらは、播磨でございます。
 明石を出たあたりから海の風がまるく感じられ、長閑でまどろむ播磨だった。





 ――目の前は、豊富でございます。
 師直の手勢は、間道伝いに追っ手を差し向け、加古川堤で追い付いてきた。夕刻のことだった。
 あわてた宗村らは、力の限りに防戦する。
 ――京都を発った師直の本隊は、大軍であるとの噂。ぐずぐずしていては、すぐに追いつかれます。
 一行は、夜陰に紛れて山へと逃げ込み、草深い野道を急ぐ。御着村を北へ。但馬街道の曽坂峠を越して、やっとのことで蔭山の里・酒井村へと辿り着いた。
 追っ手に囲まれた宗村らの疲労は夥しく、やっとの思いで邑の草堂へと駆け込む。
 ――塩治判官の家臣で、宗村と申す者。どうかこの幼童を出雲の国へと届けて欲しい。
 懐に抱えた3歳の幼童を、村人に託した。
 ――生きながらえて、師直の元に身を晒すよりも、そなた、早くその剣で。
 追っ手が押し寄せる中、杖つく刃を垣根に挟み、白い胸を貫いて果てた。
 ――御前の屍をこのままにはしておけない。だれか早く火を。
 逃げ込んだ茅葺きの小屋に火をつけ、従う郎党も自刃し、静かな里を血の海に染めた。





 後世、その跡に建てられた祠が、焚堂と呼ばれる小堂で、宗村らの自刃の跡だった。
 今でも高い杉垣に囲まれた小堂近くに、そんな由来話を刻んだ3メートルもの石碑が残されている。
 ――陰山焚堂早田妙応夫人之碑。
 長閑な播磨平野で繰り広げられた残虐な出来事なのだが、焚堂のすぐ南の玉垣の中の地蔵堂横に、枯れ木の古株が保存されている。藤の前が衣をかけて疲れを癒した、袖かけの松の古株だった。
 碑のそばには、古く崩れかかった池が残されている。藤の前に付き添った侍女が投身したという池で、枯れ葉が4、5枚浮いていた。
 動く気配すら見られない。まるで時が止まったかのように、静かだった。

 広嶺山麓を縫う街道沿いの人々は、相次ぐ戦乱に怯えながらも、東へ向かう人の動きに新しい時代への期待を抱いた。
 ところが、東から荒々しくやってきた一団は、転換期の期待に応えるどころか、転換期の持つ無残さを余すことなく見せつけたことになる。
 ――息詰まるような、追いつ追われつ…。
 この藤の前という女性、案外と建武の新政の隠れた立役者だったのかも知れない。
 だからこそ、新しい時代の手によって播磨平野の一角で無残な死に方をした。そんなふう考えてみれば、少しは頷ける播磨での出来事だった。
 ――人の世の転換は、ほんのちょっとした弾みなのかも知れない。
 ちょっとした巡り合わせ、それが人の生き方を大きく変える。そして、またそれは、ひとたびひとつの流れに乗ってしまうと、もう変更がきかない。容易に引き返すことができない仕組みとなっている。
 一方で、こんな歴史の転換の時代に、播磨の中心ともいえる姫山に、現在の姫路城の始まりとなる砦が築かれようとしていた。





 元に戻って、事件の翌日、焼け跡から観音像が見つかったという。
 ――焼け爛れた如意輪観音像。
 藤の前が、肌身離さず付けていた一寸八分の守り仏だったが、観音像のからだは焼け爛れていたが、ふくよかな顔には損傷ひとつなく、目には笑みさえ湛えていたという。

 ――歴史の転換期には、このような形で旧い時代が消されていく。
 焚堂の村は、小高い台地の上にあって、後世になって、夫人の法名『水月院円通妙応太姉』に因んで傍らに建てられたのが円通寺。暦応2年(1339)のことだった。
 ともに藤の前の悲劇を、今日まで語り継いでいるように思えた。
 ――歴史の必然には抵抗できない。
 焦げた匂いを、一瞬、嗅いだような気がしたのは、錯覚だったのだろうか。





















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