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湊川の戦いで足利方についていた新田義貞の弟、脇屋義助は軍を播磨に引いた。 この戦いで、敗軍となりながらもわずかばかりの兵を率いていた児嶋備後守範長は、吉野に追われた後醍醐天皇を救い出そうと岡山備後から東上した。延元元年(1336)5月のことだった。 児嶋範長とその三男の高徳は、東上の途中、歯が抜けるように味方が減っていた。敗残兵一族27騎を率いて山越えし、赤穂の坂越の浦に出た。 ところが足利方についていた那波城主・宇野重氏がこれを聞き付け、手勢50騎を従え範長の後を追う。現在の高砂市、伊保の庄から阿弥陀宿で戦いを交えること18回、範長の味方は減り、三男高徳までもが重い傷を負っていた。 ――もはや範長に利あらず。 ふと見かけた辻堂へ駆け込んだ落ち武者主従は、わずか6騎に減っていた。 ――今は、これまで。 範長は腹かき切った。念仏を唱えながら腹を切り、刀を口に咥えて伏せたと言う。 ――非業の最期。 ここまでが『太平記』が伝える児嶋範長最期のくだりなのだが、延元元年(1336)と言えば南朝の年号で、北朝では建武3年のことだった。 ――南北対立の混乱の極み。 そんな時代のことだった。 |
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この日本に、ふたりの天皇が対立している時代のことだった。 蘇我と物部、源平などの対立はあっても、これは言わばひと握りの争いだったが、南北朝は違っていた。守護大名を包み込んだその対立は、地方の百姓一人ひとりまでを南か北かに分けていた。そんな凄まじい内戦の時代に、南の勇者・範長は姫路の別所で果てていた。 児嶋備後守範長――。 この勇者は、子ども高徳とともに歴史からは沫殺されていた。ふと見かけた別所町の辻堂で果てた範長だったが、わが命どころかその名も業績も、歴史の上から消されていた。 児嶋範長・高徳親子を知るには、今となっては物語である『太平記』に頼るしかないのだが、こんなことが当たり前、それが南北朝と言う時代だった。 ――敗者は徹底的に葬り去る。 この時代を調べようとするときは、その史料がどちら側の手によって作られているのか、そこを知るのが極めて重要だと言う。 もちろん『太平記』は、南朝側の手によって綴られている。そんなところから範長・高徳親子は、『太平記』の作者が描き出した架空の英雄とする話がどこまでも消えないのだが、実在を唱える人の間でも、この話はそんなふうなことになっていた。 ――疑えば、そりゃ、きりがない。 当時の播磨の豪族は、赤松円心だった。 建武の新政から見放され、失意の日々を送っていた円心の元に、足利尊氏から書状が届くのは建武2年(1335)の夏だった。 |
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――天皇親政では新しい時代がくるはずもない。 その書状には、ふたたびの武家政権をめざす、尊氏の熱い思いが綿々と綴られていた。播磨の円心に助力を請うものだったが、そんな大義名分の裏には尊氏自らの権勢欲も見え隠れしていた。 ――足利政権の樹立。 その強力な支援者のひとりに、尊氏は播磨の円心を選んだ。播磨の持つ底力に尊氏は賭けようし、円心もまた、自分と播磨の将来を尊氏に賭けていた。 ――六波羅攻略で見せた赤松軍の再来、目にもの見せてやる。 天皇新政に反する武士団が、相次いで挙兵しはじめた。 尊氏は、弟直義が鎌倉で北条時行に討たれたと聞くや直ちに出兵し、時行を追討。このとき円心は、二男貞範を尊氏に従軍させ、縦横の活躍をさせた。 そしてこの円心の出兵が契機となって、尊氏と後醍醐天皇の反目は決定的なものになったと言う。いつの間にか、世情が反発しはじめているのを円心は知っていた。 ――、不公平がまかり通る、そんな天皇新政が長続きするはずがない。 尊氏は鎌倉に腰を据え、天下に睨みをきかせようと自らの手で恩賞をふるまった。これが重ねて、後醍醐天皇の逆鱗に触れたのは言うまでもないが、天皇は新田義貞に尊氏追討を命じた。 二大勢力は箱根で対決。この互角の戦いは、二男貞範の奮戦で新田軍の一角が崩れるや、尊氏は敗走する新田軍を追って京に攻め入った。 がしかし、翌3年1月、陸奥から駆けつけた北畠顕家、楠木正成、名和長年ら追討軍の総攻撃を受け、さしもの尊氏も現在の亀岡市、丹波篠村に敗走した。 |
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丹波に落ちた尊氏を迎えた円心は、ひとつの策を進言したと言う。 ――殿が破れたのは、賊軍の汚名を着せられたからだ。 円心はここで、北朝への流れを作る必要を説いていた。 ――光厳天皇の院宣を受け、錦の御旗をたてよう。 尊氏自らの手で追放していた前の天皇、光厳天皇を、ふたたび担ぎ出すという考えだった。 ――なれば名分ができる。 円心は尊氏に、いったんは九州に逃げ延びるよう提案し、時間を稼ぐことを考えた。 ――九州で反攻態勢を固めよう。 歴史上の特異な時代を現出した南北朝時代は、いわば円心のこの進言が基になっていると言う。 ――播磨の意地で、どこまで持ちこたえられるか。 尊氏が九州で態勢を整えるまで、円心は自ら盾となり追討新田軍を播磨にクギづけする覚悟をしていた。円心の大きな賭けだった。 6万を越える新田義貞軍が、怒涛の如く播磨へなだれ込んできた。戦いに備えて急遽築いた赤松の城をつぎつぎと破り、3月31日、その先鋒が赤松の本拠白旗城に辿り着いた。 円心は、あらゆる戦法を用いて戦ったと言う。もちろん本格抗戦もしているが、多勢に無勢、並みの作戦などでは通用しない。落ちると見せては攻め込み、休戦を装って時間を稼いだりして、白旗城合戦を円心は守り抜いた。 ――数千の農民、武将が倒れる。 その攻防は、じつに50日。血が千種川を赤く染めた。犠牲は多かったが、円心の思惑通りに時を稼ぐことができ、追討軍は、どう攻めても白旗城を落とすことができないでいた。 光厳天皇の院宣を手に、九州西国の兵を率いて東上してきた足利軍が、ふたたび室津に着いたのが5月19日のこと。その軍に、白旗城を最期まで守り抜いた赤松の精鋭が合流。陸と海のふたつのルートで、津波のように京へ駆け上った。 ――足利軍東上。 追討新田軍は、追われるように総退却を強いられた。後醍醐天皇は、楠木正成を中心とする新田救援隊を西下させるが時すでに遅く、態勢を整えられぬままに神戸湊川で足利軍と激突。正成は戦死し、新田義貞は逃走した。 足利軍は難なく京になだれ込み、新たに光明天皇(光厳天皇の弟)をたて念願の室町幕府の道を開くのだが…。 |
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――疑えばきりがない。 児嶋範長・高徳親子の実在を、固く信じて疑わない人たちが姫路市別所町にいた。 ――ええ。私どもの先祖は、ここでひとり生き残った和田範家です。 児嶋範長主従ら5人が死を選んだとき、最期に残ったのが和田範家だった。 ――敵が来たら、一気に差し違える。 範家は、刀を握ったまま死んだふりして倒れていたと言う。 追手の宇野重氏が首を刎ねようとしたとき、ふと鎧の袖の紋を見ると、同族の和田氏だった。 ――わが妻の兄と知ったら、命に替えても助けたのに。 重氏が涙を流したところで、死んでいたはずの和田範家がガバッとはね起き、そして、ふたりの武者は手を握り合って喜んだ。 範家はひとり生き残り、ここに留まって範長ら5人を手厚く葬ったと言う。 『太平記』の記述に、注文をつけるならいくらでもあるだろう。時代は非情な南北朝のこと、いくつもの謎が残るのはそう不思議なことではない。 塚に埋められた身の上話は千差万別なのだが、いずれにしても範長の死後わずか1週間、湊川の戦いを境にして南朝は没落を早めていく。ときの革新派とも言える尊氏の色濃い播磨で、非業の最期を遂げた範長の死は、保守に回った南朝の敗北を象徴していた。 |
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姫路市と高砂市の境にほど近い別所町北宿、国道2号のすぐ北、旧山陽道に面した街道沿いに塚が残されていた。 ――こんなにも石を積み、並べ、重ねて、どうしょうとしたのだろうか。 なるほど旧い墓碑があったり、壊れた顕彰碑もあった。 ――石仏、石の鳥居、石、石、いし…。 家一軒が楽に建つぐらいの広さの土地が、神社の境内のように玉垣で囲われていた。さらにその中に、鉄格子の扉を取り付けた二重の玉垣、その中央には『備後児嶋君墓』の文字が彫られた大きな石碑があって、またそれも石造の亀の大きな甲羅の上に建てられていた。 外側の玉垣を入った左手に『贈 正四位児島範長卿 御墓所』の石柱、右手には『史跡 六騎塚』の石柱が建てられていた。 ――児嶋の『嶋』の字が、『島』と『嶋』。石碑によって違っている。 いくら建てられた年代が違うとは言え、少しばかり気になった。 ――時代に逆らってまでも、したたかに生き延びようとした和田範家の相貌と、その一族の系譜がみごとに捉えられている。 そんなふうに思える六騎塚だったが、 内側の玉垣を裏手に回って、また驚いた。そこにも2体の石の地蔵像と五輪塔があって、またしても、石、石、石…だった。 容易に壊れることのない石で固められた六騎塚は、勤王の勇者をやすやすと歴史から沫消した側への、無言の抵抗のように思えた。 ――温かい血で書かれた憤怒の伝説。 六騎塚をここまで支えてきたのは、判官贔屓の日本人の心情だけなのだろうか。 尊氏側の領主にかしずかえながらも、勤王の勇者・範長の死に場所にこっそりと花を供える、そんな播磨の農民のこころのありようが忍ばれた。 |
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