正明寺は、もと姫道山称名寺。古刹である。
 境内の供養塔は、高さ2メートル20センチ、幅60センチ、厚さ30センチ。上部には二条の横線があって、その下に阿弥陀坐像が刻まれていた。貞和2年(1346)の銘が、消え入りそうに残されている。
 銘の末尾には明治9年、姫山に埋もれていたのを掘り出し、ここに移した謂われが書かれていた。
 ――法界衆生、平等利益…。

 現在の正明寺は、というと、境内はこぢんまりと狭く、高層ビルの谷間の民家が建て込んだ中にひっそりと佇んでいた。
 ――のんびりと歩いてみよう。
 そんなふうに思い立って、新しいニットを一枚、昨日のうちに手に入れていた。
 少し傾きかけた日差しの中で、あちこちに伸びる長い影はほとんどだれかと連れ添って楽しげ、そして少しばかり淋しげだった。
 秋と冬の境目。凛とした夕日が、暗みゆく空から軒先へと落ちる時刻、それぞれの夕げを迎える家々の風情が、辺りの風景を平穏なものに染めていた。








正明寺板碑。
正面中央下部に「貞和二年歳次丙戌五月九日一結衆〓敬白」。これが橋本政次さんの貞和2年赤松築城説につながっていく。






 正明寺の境内で、ひとり遊びの幼い少年と出会った。
 少年は口を利かないかわりに、ときどき口笛を吹いている。少年の乾いた口から洩れる口笛が小さな風に変わり、その微風は境内の数少ない樹木の中を駆け巡った。
 やがて大きな嵐となって、動乱の南北朝を吹き抜ける。
 ――いま振り返れば、南北朝の…。
 そんな衝動に狩られそうになる正明寺の境内は、曇った日は昼間でも薄暗いのではないかと思えるほどに、街灯が貧しかった。
 あちらこちらに大きな闇の塊でも置かれているような、そんな感じすらしてきて、心もとなかった。
 急に寒気に襲われるような気がして、風邪を引く前ぶれのような、厭な悪寒だった。
 ――これでは、辻斬りでも出そうだな。
 自分におどけるように呟いてみたが、辻斬りという突然の言葉が思いのほかねばっこく、いつまでも首筋に残るようだった。

 ――かつて姫山の山中に、供養塔はあった。
 振り返ってみると、古刹だった。
 康治2年(1143)、道邃の開基というから、時代は平安末期のこと。後嵯峨天皇の菩提所で、建武元年(1334)、新田義貞が播磨の国主のころ、広大な寺領が与えられていた。
 南北両朝の対立のさなか、尼が崎城、白旗城と連繋して南朝に立ち向かう拠点として、赤松氏が姫山に砦を築いている。
 600年前までは、春には桜が吹雪き、秋には紅葉散る長閑な丘陵だったが、戦いの砦へと一変した。
 貞和2年(1346)、赤松貞範の姫山築城に当たって、正明寺は姫山から山下の平野姫道村屋敷に移され、地主神の刑部(長壁)明神、天満宮(姫道天満)もそれぞれに移転した。
 のちの慶長13年(1608)、池田輝政の城下町割りで五軒邸の現在地を与えられた。







 敵陣にまみえ、いつ落命するか分からない武将にとって、わが身どころか敵方の武将まで、等しく死後を救ってくれる世界――。
 国盗りの夢に生きた武将を、ともに導いてくれる安らぎの世界――。
 そんな世界の存在を信じることなしに、とてもひと振りの剣すら振り下ろせなかったろう。

 ――かつては盛大な念仏活動が展開されていました。
 姫路寺と呼びならされて、公家・武家などの厚い帰依を得た歴史もあったという。
 寺紋が徳川と同じ三つ葉葵のせいか、初代の城主・池田輝政の古文書にも、その痕跡が多く残されていた。
 そんな正明寺のかつての有り様は、寺蔵の古文書でよく推察できると、若い住職さんは呟くのだが、あるいは読み落しがあったかも知れないほどに、現在の正明寺はこぢんまりとしていた。
 栄華の日々に帰るように、春・秋の彼岸、夏のお盆には、毎年のように有縁無縁の供養が行われている。





















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