姫路城の北方で、赤く染まった山並みが切れていた。
 西が広嶺山で、東側が増位山。そしてそれぞれの峰の頂には、木々に埋もれるようにして甍が見えた。広峯神社と隋願寺だった。
 吉備真備が広嶺山に牛頭信仰を芽生えさせ、渡来僧・恵便が増位山を開いた。聖・性空によって法華信仰が書写山に育つなど、播磨の顕著な峰は、三山三様だった。
 
 ちょうど姫路の市街を囲む形で、稜線を小さく波打たせ、屏風のように三山が連なっている。 
 ――秋色に包まれて…。
 山裾の奥白国登山口から広峯神社へ通じるドライブウェーを、徒歩で登ってみた。
 雑木の中の丁石の数字が、ひとつづつ増えていくのを確かめながら、つづらに上ってみると突き当たりに大鳥居があった。
 大鳥居から社殿まで、曲がりくねった坂道を登っていくと、その間、左手下には霞に包まれた姫路の街がついてくる。
 遠く瀬戸の海に点在する家島群島が、墨絵のように霞んでいて、島影が見えそうで見えない。
 ――街が足元にある。
 両翼に広がる増位や書写山が、ともに街から隔絶することによって聖なる祈りのこころを高めていたのに較べて、広嶺山は標高300メートルの高みにありながら街と同化していた。








広峯神社。
吉備真備が735年、現在の奥の院の白幣山に社殿を創祀。972年に現在地に遷座した。山中にあって、スケールの大きい神社である。『熊野の御嶽にもおとらず、万人道をあらそいて参詣す』。『峰相記』の一文なのだが、紀州の熊野詣でと並ぶ信仰の拠点だったことが分かる。






 ――竹の坊、西の坊…。
 かつて広嶺山上には、広峯三十四坊と呼ばれる御師屋敷があって、その繁栄を支えてきた。
 御師とは、御祈祷師が縮まった呼び名のことで、いわば神職に仕える布教者のことで、五穀豊穣を願って苗代田に立てるお札や暦などを、各地の信仰者に配り歩いた。
 そして御師屋敷は、広峯神社を遠くから参拝してくる人々の宿坊だった。
 ――もう、御師屋敷もなくなってしまいまして、ね。
 神社裏の小道を歩いてみると、山道脇に半ば朽ち果て蔦の絡まった廃屋や、人気の消えた民家が残っているだけだった。
 どっしりと構えた重い土塀と大屋根が、かすかに往時を留め、かつての御師屋敷の旧い庭で、紅葉の深い紅色が陽光に輝いていた。
 ――若い人が、山を降りてしまいましたから、ね。
 これらの御師屋敷が、近畿から中国に広がる広峯信仰を支えてきたかと思うと、胸が躍る。
 吹き抜ける微風にススキの穂が揺れ、栗はいまにも弾け飛ぶ勢いだった。
 
 それでは広峯の聖域に、いつのころから翳りが出てきたのだろうか。
 なにげない播磨の風景だったが凝視してみると、広峯信仰を生き抜いた人の吐息がそこはかとなく聞こえてくる。
 和綴じの古びた信者台帳には、播磨之部はもちろんのこと、摂津、但馬、丹波から備前、備中、美作、因播、伯備、若狭、淡路までの町名がぎっしり残されていた。
 注文をつけるならばいくらでもあろうが、その緊張感が心地良い。
 ――急に冷え込んできましたね。
 御師の家に嫁いで50年が過ぎるという女性は、穏やかに話してくれたが、落ち葉の落ちる音さえ聞こえる静かな暮らしぶりに、包み込むような広峯の心が迎えてくれているようだった。
 ――この山道を歩いて、広峯参りに詣でた人は数知れませんもの、ね。
 うたかたの夢を想い出すかのように、女性は呟いた。







 広峯神社の祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)とその子、五十猛命(イソノタケルノミコト)など18の神々で、ミコトは別の名を、牛頭天王、祇園天神という。五穀豊穣と疫病退治の神々だった。
 神功が三韓征伐の際に立ち寄って、今の白幣山に素戔嗚を祭って軍の勝利を祈ったといい、天平5年(733)には、吉備真備が唐からの帰路、飾磨津でふと見かけた北方の山の、瑞雲たなびくその崇高さに惹かれたともいう。
 ――牛の頭さながらの峰ではないか。
 なるほど広嶺山は、海岸部から広がった播磨平野で一気にせり上がって見、角度によっては、角のような突気も見えた。
 18年の長い間、印度で修行した真備の目には、その峰がかっての修行の地とダブッて映ったに違いない。
 翌年の天平6年(734)には、入母屋造の本殿を建立したと伝えられるから、これまでに1,200年余の歳月が経っていることになる。
 豊作を祈り、病気回復を願う広峯参りは、熊野詣で、お伊勢さん参りとともに庶民の間で受け継がれていた。

 ところが、その長い歴史の中で、ひとつの事件が持ち上がる。社格を賭けた熱い闘いだった。
 畿内に流行していた疫病がなかなか納まらない貞観年間(858〜877)、時の清和天皇は、夢枕のお告げを得たのか疫病鎮静の信仰厚い廣峯神社の分霊を、京都・東山の八坂に安置した。すると10年余りも止まなかった疫病の流行が、ピタリと静まったという。
 ――都の人々は大いに喜び、盛大に祭りを催す。
 錯覚で歪んでいるかも知れないが、これが日本三大祭りのひとつ、祇園祭りの始まりだった。




広峯神社拝殿。









 ――広峯の分霊を八坂に安置し、ひたすら祈願することで疫病が治まった。これを祝って盛大に祭りを催した。これが祇園祭りの始まり…。
 この限りでは、この話になんら問題はないのだが、都に位置するという地の利を得た八坂の祇園社は、広峯の分家でありながら本家を名乗り出した。
 本家・分家の熱く長い闘いの始まり…。そして八坂の祇園社は、広峯神社を圧倒する勢いを見せ始めた。
 ――うちが本社であることを、向こうは全く認めようとしませんからね。
 神職が話してくれた本末転倒のいきさつは、はっきりと古記録に残されているという。
 ――ご分霊があちらさんに行ったことは、文献から見て間違いありません。
 
 建久3年(1192)、鎌倉幕府の成立に合わせて広峯神社は、播磨の守護代、幕府の御家人となっていた。
 ――祇園の本社殿ゆえ、みだりに出入りするのを禁ず。広峯山は不可侵の地なり。
 3代将軍源実朝が出した健保4年(1216)8月28日付けの御教書なのだが、衰弱を辿る広峯の歴史を見事に語る古文書だった。
 ――守護使の乱入を禁ず。
 貞応2年(1223)の関東下知状。それぞれに、広峯社は祇園社の本社とあり、鎌倉幕府もこのお墨付きを認めていたことになる。
 そんな広峯なのだが、永仁元年(1293)に社殿が炎上し、それを境目にして、祇園本社播磨国広峯神社という表記が古文書の中から消えた。
 応長元年(1311)には、伏見上皇の院宣で皇室の所領となり、あげく御祈祷料として八坂神社に寄進されてしまった。
 時の幕府から、たとえ一時的にしろ認められた広峯なのだが、苛酷な運命を辿ることになる。







 ――祇園の本社は、広峯なり。
 みごと八坂の軍門に降りた格好の広峯だったが、祇園の本社は広峯なりという意気込みは並大抵のことでなく、熱っぽく、長い闘いを展開している。
 ――関東御家人としての立場にあった広峯別当は、南北朝の動乱では足利方に就くなど、稀有な活躍ぶりを見せまして、ね。
 これも実は、南朝の支援を得ていた八坂祇園社への強い反抗の現れだったと、神職はいう。
 ――広峯別当を播磨国から追放せよ。
 遂に、こんな御教書が出されるほどに、執拗な反抗を繰り返していた。
 ――これらの歴史について注文をつけるなら、いくらでもありますからね。
 年老いた神職が力強く語ってくれた広峯1,200年の歴史は、落ち着いた神社の佇まいに似あわず、なんとも血なまぐさいものだった。 
 
 文安元年(1444)の棟札や寛永3年(1626)の墨書が残る朱塗りの神殿は、内陣と外陣のふたつに分かれ、内陣の奥の一番高い所に正殿、左殿、右殿の3つの小神殿が設けられる珍しい造りで、室町時代中期のものだった。
 柱の多い堂々とした拝殿は、名もない信仰者の願いをただひっそりと守ってきたかのように見えるが、しかし、手足がもがれるように周辺の遺構は朽ち果て、かつての神社の実体すら忘れ去られようとしていた。
 ――残念なのは、広峯の歴史があまりに微に入り細に入って、訪ねる人に煩わしい感を与えます、からね。
 歴史を辿る根気が失せてしまうのだろう。今日では、播磨の広峯神社は知らずとも、京都・祇園の八坂神社を知らない人はいない。
 明治の社格では、京都祇園社は全国最高位の官幣大社で、廣峯は地方社としては首位の県社とされ、その立場は見事に逆転していた。
 大いなる不満が残るのだが、頬をかすめる晩秋の冷気は切れ味が一段と鋭い。








御田植祭。
神前の木枠で作った仮田には、早稲・中稲・晩稲と書いた立て札が立てられている。田人・苗運び少年・五月女・傘持・太鼓持・笛吹らがお祓いを受け、次いで田人が木鍬で「しろかき」をする。そこへ10歳くらいの少年3人が、苗籠から仮田へ苗を投げ入れ、続いて五月女が苗を植え付けていくのだが、この行事の間、間歇なく笛を吹き、太鼓を打ち、田植え歌が歌われていた。






 ――今年こそは。
 訪れたのは翌年の春、4月3日の昼下がりだった。
 幼児たちの可愛いい歓声が溢れる御田植祭の日で、笛や太鼓のお囃子につれて古式豊かにお田植えの真似事をするのだという。
 ところが4月3日は、まだ稲の籾まきもしていない。だから苗の代わりに、よく似た福ダマ(ジャノヒゲ)を使って田植えのマネゴトをしていた。
 裾まで届く真赤な羽織を着て、カサボコを被った園児たちは、まるでお稚児さんのようだった。カサボコというのは、大きな傘の上に鉾や薙刀、造花を取り付けたもので、このお田植祭に早乙女となって出演する園児たちのカサボコには、花飾りが取り付けられていた。
 ――山の神が、花に乗って田に降りる。
 そんな信仰のありようを巧く表現したのだろう、播磨の実りの風土を偲ばせるには十分な仕掛けだった。
 広峯神社は京ではなく、古代から栄えた肥沃な播磨平野に存在してこそ、その価値がある。
 
 クヌギやナラが茂る雑木林。点在する谷や沢。四季折々に変化する広嶺山の表情…。
 そんな自然の息吹には目を見張るものがあるのだが、4月3日に田植した仮田にはたちまちのうちに稲が稔り、そして4月18日には、収穫を終えた穂揃え式が行われるという。
 この式には、走馬式という珍しい馬駆け神事があると聞いていたので、ふたたび出かけてみることにした。
 お田植祭にはチラホラ咲きだった境内の桜も、この頃になると、あるかなしかの微風に誘われて散り急いでいた。
 拝殿横には、各地から寄進された稲穂がずっしりと大きな束で、ワセ、ナカテ、オクテとそれぞれ奉献され、神職が3本のクジを引いて占うのだという。
 続く走馬式では、駒つなぎ場から3頭の馬が引き出され、王朝時代の武官の装束を身に着けた若者が神殿前を駆け抜けた。
 ――今となってはこの走馬式こそが、関東御家人だった広峯の祖先を忍ぶ、唯一のものになってしまいました。
 神職は、囁きながら話してくれた。




走馬式。
随身門から御旅所まで、狩衣姿で馬を3往復走らせる。神意を知るための卜占(ぼくせん)には、様々な方法があるのだが、御田植、補揃え、走馬が一連の神事となるのは、全国的にも珍しい農耕儀礼である。







 ――カッカッカッ。
 大勢の参拝客の面前を、馬蹄の音も高く3往復する。
 ――ほうっ。
 だれからともなく歓声が洩れた。
 駒繋ぎ場では、走り終えた1頭がブルルンと大きく鼻を鳴らして、園児たちを驚かせている。境内に集っていたほとんどの大人たちの、その心の中にはこの馬と遊んだかろやかな思い出が残っているという。
 ――落馬でもしたら、その年の豊作は望めそうにない。
 そんな話を聞いたことがあるので、足が縺れないかハラハラしながら見守っていた。
 今でこそ落馬という椿事を怖れてのことなのだが、昔はそうではなかった。落馬という椿事よりも、稲の出来不出来を心配して息をひそめて見守っていたに違いない。

 ――こういう播磨があったのか。 
 お田植、穂揃え、走馬の風景に比べて、不満が残る広峯のありようだったが、桜の花びらが降り注ぐ境内の随神門の傍には、鎌倉時代の作だという宝筺印塔が時の流れを見つめるように立っている。
 苔むした印塔は、陽に淡く染まっていた。
 しかしそんな播磨の風土の中にあっても、広峯の神意をかけた闘争心の重さがことのほかズッシリと感じられる、ここ数日の出来事だった。





















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