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 ――義経の正妻・郷の君の首を頼朝に差し出すはめとなり、その身替りとなったのが、播州福居村で契りを交わしたおさわの娘と知った弁慶は、大泣きに泣く。
 息をひそめた観客は、白塗りで紅隈を縁どった歌舞伎役者を見つめていた。ご存知、『御所桜堀川夜討ち』のクライマックスで、名場面だった。
 この演目は元文2年(1737)、竹本座によって浄瑠璃で初上演されて以来、たびたび歌舞伎に取り上げられるなどして、観る人に感動を与えていた。
 ――身を捨てても主君を守る。
 そんなテーマが、日本人の好みに合っていたのだろうか。






弁慶の鏡井戸(書写山園教寺)
鏡井戸。
武蔵坊弁慶の豪傑僧としての振り出しは、書写山だった。モデルはいたにしても、源義経の悲運さをなんとかかばってやりたい大衆心理が、弁慶像をますます巨大に強靭につくりあげた。書写に燃え上がった炎は、不義に対する怒りの炎だったのかも知れない。




 ――ごっつい机やなあ。重さは90キロもあるんやて。
 円教寺の食堂の二階、宝物館に上った修学旅行生は一様に大きな声を出していた。
 ――弁慶が、この机で勉強したんやて。
 今日は陽あたりの良いところ、風が強い日はこちらへと、軽々と持ち運んで修行したという荒削りの天然板の机を眺めていると、なぜか苦手な読み書きに真剣な眼差しで取り組む少年弁慶の姿が、容易に想像できる。
 ――播磨は伝説どころ。
 行いは荒々しいが、心根優しい弁慶伝説が色濃く残されていた。
 
 ところで『義経記』といえば、源義経を中心とした軍記物で、室町初期に書かれている。
 作者不祥。この巻第三の中に、弁慶と書写山の関わりが残されていた。
 部分的であるが、そのあらすじを追ってみよう。
 ――弁慶、阿波の国から播磨に渡り、書写山に参る。
 せめて夏の間だけでもと、書写山に籠って修業を始めた熊野別当の子、幼名を鬼若。弁慶、何歳のときだろうか。
 ――性空上人の御影を拝み奉る。
 比叡のお山で暴れ回り、日ごろから師と仰いでいた大僧正からも見放された弁慶なのだが、書写のお山では神妙な顔をして修業に励んでいた。折からの夏行に進んで参加し、諸国から集まっていた若い修行僧も見直すほどだったという。
 ――初めに受けた印象とは違って、随分いい奴なんだ。





 ところが弁慶、ひと夏の修業を終えて下山するため、学頭の所に暇乞いの挨拶に行ったのが運のつきで、稚児衆の酒盛りの最中だった。
 弁慶は勧められるままに呑み過ぎて、襖の陰で寝入ってしまった。
 ――彼奴ほど、憎気なる者なし。
 日ごろから弁慶を嫌っていた信濃坊戒円と喧嘩好きの弟子たちが、その寝顔に墨で黒々と、足駄(下駄)と書く、そんな悪戯を始めて、大声で笑い出した。
 ――弁慶は平足駄に似たり。面を踏めぞも起きも上がらず。
 目を覚ました弁慶は、小法師20〜30人がどうして自分の顔を見て笑っているのか、よく理解できない。だれに聞いてみてもその理由を言わないで、ただ顔を見ては笑い転がるばかりだった。
 そこで弁慶は、井戸に写る自分の顔に落書きを発見するのだが、烈火のごとく怒った弁慶は戒円たちを大講堂の屋根に放り投げる、そんな仕返しを始めてしまった。

 たわいもない悪戯書きに端を発した稚児衆の騒動は、多くの修行僧を巻き込んだ大喧嘩に発展し、あげく戒円が持っていた火が原因で書写全山を焼き尽くした。
 ――堂々社々の数、54か所も焼失す。
 思いもかけない結果を招いた。
 ――こうなった限りは。
 弁慶は麓の坂本まで駆け降りて、西坂本に軒を並べる僧坊一つひとつを松明の火で焼き払った。ことごとく灰にしてしまった。
 まことに乱暴な話なのだが、このあと弁慶は勇んで京に出る。





 この悪戯伝説には、後日談があった。
 弁慶自らが、書写のお山が焼失したことを都で触れ回る。書写山炎上が、法皇の耳に入るように工作していた。
 法皇がその原因を調べてみると、比叡山の修行僧・弁慶と衆徒戒円の仕業であることが判明した。
 ――大事が、比叡のお山に及ばぬ間に。
 摂津の国の豪族・昆野陽太郎が、手勢100騎を率いて書写に駆けつけ戒円を責め殺した。
 ――修行僧・弁慶の悪事は、出自である比叡のお山の大事。
 この話は、さしずめ弁慶の作戦勝ちといったところだが、顛末を聞いた弁慶は快哉して叫んだと、『義経記』は書き加えている。
 ――かかる心地良きことこそ、なかりけれ。
 そして次の場面へと移るのだが、いくらなんでも『義経記』のこの話は、やりすぎだ。
 奇妙に迫真性のある物語・義経記は、南北朝から室町時代にかけて各地に伝わる噂や伝説を集成し、そして完成させたのだろうが、書写のこの話もその時すくい揚げられたに違いない。

 噂は、伝達する者自身が直接に目撃したわけではなく、その話の多くが未知の人の口を通り抜けることによってできたものだろう。噂と全く同じように伝わりながらも、次第にひとつの大きな共同体の記憶や物語となって、共有財産となっていくものがある。その多くを、人は伝説と呼ぶ。
 噂というものは、ひとつの音、短い言葉、思いがけない発言、ちょっとの誤解で十分なのかも知れない。噂が生まれる風土には、その集団が漠然と持っている時代の気分が、どこかにあるのだろうから。






弁慶地蔵
弁慶地蔵。
旧山陽道沿いの地蔵堂内。『天文22年(1553)乙未8月26日』の銘文がかすかに判明できる。『別所村史』によると、弁慶の母は福居村(別所町別所)の生まれだとか。福居村庄屋の娘・玉苗と一夜を共にしたのがこの地蔵堂で、今でも子授かり地蔵として参詣人が途絶えることはない。たえず新しい花が供えられ、香が焚かれていた。






 これほどの弁慶なのだが、史実的には書写山と結ぶものは何もない。
 錯覚で歪んでいるかも知れないが、なぜか書写を訪れる人には人気があった。
 ――ほう、これが弁慶の鏡井戸か。
 食堂横の山裾にあって竹垣で囲まれた井戸には、木漏れ日がちらちらと揺れ、その光の中を数匹の金魚が涼しげに泳いでいた。

 大いなる不満として残るのがおさわとの恋物語なのだが、これについても『義経記』は、十分に記載していない。
 ところが人形浄瑠璃や歌舞伎の世界では、書写にいた青年僧弁慶が若い女性と巡り合っていた。
 別所町福居村に、それに類した話が伝わっているというので出かけてみた。
 
 ――播州姫路の近在、福居村本陣の某が、私の父母である。
 地元の人の間で子授かり地蔵と呼ばれる地蔵堂がそれで、書写から降りてきた弁慶がこの辺りで雨に遭ったという。地蔵堂の前で雨宿りしていたとき、通りかかった若い女性と知り合っていた。
 あるいは弁慶がこの辺りを通りかかったとき、若い衆に襲われそうになっていた女性を助けた。それが、おさわだという。
 京へ上る途中の福居で、弁慶が一泊したという。おさわとは、その宿で…。





 そんな別所町を訪ねたのは、5月5日のことだった。
 天気に恵まれない今年のゴールデンウィークだったが、それでも子どもの日は、朝から青い空が広がり、爽やかな風が吹いていた。こいのぼりが待ち望む風だった。
 農家の畠で、高々と泳ぐこいのぼりが目についた。真っすぐに伸びた杉の木を切り、皮を剥いで支柱にしているのだが、そのてっぺんだけに杉の葉が飾りとして残され、爽やかな風に揺れていた。
 広い休耕田で、連凧をあげる老夫婦と孫がいたので、立ち止まって見せていただいた。
 木箱の中から次々に、百枚もの凧が宙に舞っている。みるみる300メートルばかりの線となって、人だかりができた。
 順に持たせてもらったが、手のひらに食い込む糸から5月の風の力が伝わってくる。
 子授かり地蔵―。
 必ずしも大方が認めるところとは思えないエピソードなのだが、悪戯伝説の陰で温かく育んできた、したたかな播磨の風土に出会えたことが嬉しかった。





















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