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 書写山円教寺の境内は夏休みに入ると、小学校の林間学舎が開かれ急に賑やかになる。子ども達は午後に入山し、翌日の朝には帰っていくのだが、日毎に入れ代わり登ってきた。
 昼間は母親に連れられた子どもたちが、ロープウェイから突然に姿を現わす。それぞれが、自慢の蝉捕り網を持っていた。
 札所巡礼のグループが団体バスから降りてくる。賑やかにおしゃべりをしながらなのだが、めいめいが白い巡礼服を着て白木の杖を持っていた。そして、バスの時間を気にしながら下って行くのだが、その姿を見ているとあくせくした世相そのままように思えた。
 ――せめて仏前だけでも、心満たされるまで座れぬものか。






和泉式部歌塚。
暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 
  遥かに照らせ山の端の月
【和泉式部】

日は入りて 月まだ出ぬたそがれに 
  掲げて照らす 法
(のり)の灯(ともしび)【性空】

今は末法の世といい、釈迦入滅の後、次に衆生を救う弥勒菩薩下生までに56億7,000万年かかると性空はいう。その間の“たそがれ”の期間、法華の教えを灯として示そう、と和泉式部に返歌していた。数々の恋遍歴、愛憎や葛藤に無常を感じた式部が、性空に救いを求めた歌だった。書写山は、女人救済の山だったのかも知れない。






 性空の人柄と徳を慕って、説法聴聞のため書写山に登った人は数知れないという。
 麓から見るとなだらかな書写山も、いざ登り出してみるとかなり手強い。急傾斜があるかと思えば、岩が露出して足を取られそうになるところもある。
 藤原道兼の策略で退位し出家した花山天皇も、そんな書写山に登ったひとりだ。二度も訪れ、寛和2年(986)には三間四方の講堂を寄進している。
 藤原実資、公仁といった貴族らも性空の教導を得ていたし、一条天皇の中宮、上東門院(藤原彰子)が輿七丁を連ねて訪れたという話も伝えられている。そのとき彰子の供をした中に、和泉式部がいた。
 
 彼女については、生没年不詳。本名も、詳しい履歴についてもよく分かっていない。
 父は大江雅到で、代々漢字を家の学とする素養深い大江家の出身というから、今風にいえば、宮内省から地方長官というひとつの官僚コースを歩んだ人なのだろう。当時の表現で、いわゆる受領階級、中流官人だった。 
 そんな父を持つ女の子が、和泉守の職にあった橘道貞と20歳前後で結婚する。しかし式部は、和泉には任地せずに京都に留まった。
 今に伝わる彼女の名が、その時のことに由来しているというのだが、ふたりの間には後に小式部内侍と呼ばれる女性が生まれていた。
 この道貞との結婚は、必ずしも不幸なものではなかったのだろう。ところが式部は、京に留まるその間に、冷泉天皇の為尊親王の愛を受け入れていた。
 
 当然のことのように式部は、道貞と離別し、父大江雅到からも勘当されるのだが、その為尊が若くして亡くなる。短い恋物語だった。
 彼女と道貞の離別については、彼女の不倫が主な理由だったかも知れないし、そうでないかも知れない。しかし次に、為尊の弟・敦道親王との恋は始まっていた。
 ところがどうしたことか、この恋も短期間だった。実際にはその後4年で、敦道もまた病死した。
 1年間の服喪の期間を経て、式部は藤原道長の要請で中宮彰子の女房として宮廷に入る。
 寛弘6年(1009)、式部30代半ばのことだった。





 これら一連の出来事を、日々子細に残した日記が『和泉式部日記』なのだが、期間にしてわずか8か月、折々に交わされた歌を織り込んで書かれたものだった。
 若くして死んだ恋人への尽きせぬ思い。亡き恋人の弟・敦道への心の傾斜。心惹かれていく溺れ込み。揺れ、疑い、確かめようとするふたりの心理を鮮やかに描いていた。
 しかも新しい恋人、敦道との日々の中にあって、彼女は他の男の求愛をも拒み切れないでいた。

 ついに敦道は、苛立ちながらも式部を自邸に住まわせ、これを受けてか、敦道の正妻が憤然として実家に帰ってしまう。

 ――まことにけしからぬこと。
 美貌に恵まれ、次々と新しい恋に燃える和泉式部を、紫式部は公然と非難している。それは聞き流がすことはできても、恋を重ねるほどに式部の胸の内には、空しい気分が積もっていた。
 数多い優れた作品の中から、一首だけ引いておこう。

  黒髪のみだれも知らず打ち伏せば
  まずかきやりし人ぞ恋しき

 そんなくだりで『式部日記』は終わっているのだが、強引に同居した彼女と敦道との暮らしぶりについて、日記は何も記していない。
 恋が成就したあとには、ただ散文的な日常が待ちかまえていたのかも知れない。





 ところで当時の京は、決して平穏な都ではなかった。羅生門に賊がいたとも、悪疫が猖厥を極めていたともいう。
 そんな都人の間で播磨の性空の名は、心の救済者として絶対的な響きを持っていた。
 ――性空さまから、揺るぎない心の持ち方を教わりたいものだ。
 それゆえ上東門院彰子も、和泉式部らを伴って西下したのだった。
 ――30半ばの今日まで、思いのままの恋遍歴を重ねてきた。
 式部は、そんなことに悔いがあったわけでないが、むしろ官能から突き上げてくる感動を歌に託すことで、高い世評を得ようとしていた。
 ――浮かれ女。
 そんな世間の指弾。それは、そう気にはしていない。男から男へ渡るうちに、胸に淀むものもあることはあったが、書写の性空さまにお会いすることで立ち直れるのかも知れない。
 
 ――今日、都から七人の鬼どもが、私を訪ねて登って来る。里へ下ったと伝えなさい。
 いち早く中宮一行の登山を知った性空は、側近の若い修行僧に言い捨て、奥の持仏堂に籠ってしまった。
 居留守をしてまで、一行に会おうとしなかった。
 これまでからも、性空の客嫌いは山内に知れ渡っていたが、権勢を誇る都人との会見はできるだけ避けようとし、どんな高貴な筋からの招きであっても山から下山しないことで、性空の世評は高まっていた。
 それにしても、鬼が来る、そんな表現は普通のことではない。
 ――お上人さまは、ただいまお留守でございます。





 やっとの思いで書写山にまで辿り着き、性空上人にお会いできると楽しみにしていた中宮彰子は、あまりの残念さに涙を流した。
 お供の女房たちもがっかりして、すごすごと山を降り、嘆きつつも帰路に立とうとしていた。
 ――さきほどの鬼どもが、かような歌を残しました。
 式部はこのとき、上人に寄せる無念さを歌に託し、堂の柱に書き残していた。気品の漂う、嘆きの滲む、祈りの聞こえるような優れた歌だった。

  暗きより暗き道にぞ入りにける
  遥かに照らせ山の端の月

 男の遍歴に明け暮れ、恋にわが身を委ねていた和泉式部のことは別にしても、暗い道を辿るように、救いのない無明の世界に生きている私に、山の端の月よ、はるか山の端からでも、慈悲の光を投げかけていただけませんでしょうか。
 業の深い女の持つ宿命でしょうか、暗きより暗きを歩む人生ではありましょうが、月の光とも頼るお上人さま、せめて一筋の光明を遥か洛中に住む私にも届けてください。ひとときなりとも、心に安らぎを。
 そんなふうな意味を込めた歌だった。
 式部の心のありようがひしひしと伝わり、救いを求める心が痛切に詠み込まれた歌だった。





 ――これは、鬼どもばかりではない。急いで呼び戻しなされ。
 救済を待つ気持ちの切実さに、強く胸打たれたのだろう。性空は修行僧に命じて一行を呼び返した。そして、ねんごろに法を説いて、こんな歌を返していた。
 性空の返歌だった。

  日は入りて月はまだ出ぬたそがれに
  掲げて照らす法のともしび

 黒衣に身に包んだ性空は、すでに齢80を過ぎてはいたが、今なお法を説く声には張りが感じられ、ゆっくりと、そして丁寧に、これまでの修行の総てを法華経の教えを交えて説いていた。
 
 ところで先ほどの式部の歌は、長徳年間(995―999)に編纂された『拾遺和歌集』に、あえて詞書をつけて載せられている。
 ――播磨の聖の御許に、結縁のために聞こえし。
 作者名は、大江雅致の娘となっている。
 おそらく彼女の少女時代の作なのかも知れないが、それにしては、すでに波乱の人生の予感に思いを寄せているようで、詠みぶりが気にかかる歌だった。

 式部が彰子のお供をして書写に登ったのは、同棲していた敦道が病を患い、再起できないと分かったときかも知れないし、あるいは敦道との間に生まれた子どもを捨て去った、そのことを懺悔するためだったのかも知れない。
 播磨に伝わる話はさまざまなのだが、男から男へと渡る遍歴に、いつしか無常を感じ始めていた時期かも知れない。





 和泉式部歌塚として知られる古びて苔むした石塔が、奥の院の開山堂すぐ北の崖寄りに、ひっそりと建っている。
 昼間もひんやりした竹薮の一隅で、あたかも性空の教えに耳を傾けているかのようだった。
 あまり大きな塔ではない。五層の石が積まれ、その五つがそれぞれ定まった形を持っていた。
 ――地、水、火、風、空。
 五つの大いなるものを表現するという五輪塔なのだが、自然というのが正しいのだろうか、宇宙をも象徴しているのだろうか、三層目の石にはおさまりの梵字 阿 が彫られている以外に、さだかな文字が読み取れそうにない。

 ――和泉式部がこの和歌を読みて、上人を“あい”したことは諸書に有名なり。
 『飾磨郡誌』は、こうも書き加える。
 ――式部、性空の御元へ送られたまう歌。
 初めに和歌があって、こんな書写山での話が創られたのだろうが、西国巡礼の札所として納経集印帳の寺印をドライヤーで乾かす、そして次を急ぐ。そんな姿が空しくて仕方がない。







 多くの巡礼者が参詣する摩尼殿に比べると、奥の院まで歩を伸ばす人は少ない。杉木立から降る蝉時雨が、大講堂から聞こえる読経と重なるようだった。
 大講堂の内陣は真ん中辺りが土間造りになっていて、朱塗りの太い柱を背に大きな須弥壇があって、釈迦如来と文殊、普賢の両脇侍が祭られていた。
 巨大なほら穴のような暗い闇の中で、外陣から漏れるわずかな光に漆箔の釈迦如来が浮かび上がってくる。ずんぐりした意志的な顔、結跏跣坐した姿は、両膝の間が普通よりか幾分狭いように思えて、分厚い体つきが全体に丸まっちい印象を受けた。
 造像は大講堂の建立と同じ頃と思われるから、藤原時代に入ってからだろう。寺伝によると、永延元年(987)か2年とされていた。
 釈迦如来の呪術的な匂いのする強さは、もっと古い時代を思わせるのだが、唐草模様の光背は繊細で、ひんやりと薄墨を流した闇の中に飄々とした世界を織り出している。
 西の比叡山とも呼ばれる円教寺の、かつての実力を物語っているように思えた。
 
 ――この大講堂こそが、じつは元の本堂なのです。
 釈迦如来がかつての本尊だったと、どこかのパンフレットで読んだことがあったが、観音信仰が盛んになるにつれて摩尼殿の方に人が参るようになったという。
 創建当時に三尊を守っていた四天王も、現在では摩尼殿に移り、お参りする人は数少ないが三ッ堂辺りは、道場としての長い歴史を凝縮しているように思えた。




















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