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姫路から加西市へと抜ける一本道は、長閑な田園が広がっていた。 市の境へちょっと走ると、豊富町に標高200メートルほどの小さな山があって、その山の中腹にお堂の屋根がちらほら見える。 山号は有乳山。岩屋寺の名の由来らしい露出した岩もあるようだった。 |
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麓から中腹までの参道の両側に、四国霊場の札所仏と大願成就の幟がズラリと並び、急な上り石段途中の観音堂と地蔵堂の傍には、白いアセビの花が咲きかけていた。 山の中腹のわずかな平地に建つ毘沙門堂まで、手すりを頼りに息を切らしながら駆け上ってみると、聞こえてくるのは、切らした吐息だけだった。 ――空が青い。 びっしりと青を塗り込めたような、濃い空に雲が流れていた。 まるで団扇で煽られたかのように雲が流れ、雲の合間から陽の光が差し込んでくると、毘沙門堂の辺り一帯が、一瞬のうちにピカピカに生き返るようだった。 ――大事件でも起こりそうな。 山の霊気が不気味だった。 赤、青、緑、黄、金、銀、黒と、賑やかな色に塗り込められた毘沙門堂には、ムカデが向かい合って二匹描かれた大提灯が下げてあって、山の風に揺れていた。 ムカデは、毘沙門さんのお使い…。 そういえば小山のあちこちに、やたらとムカデが目についた。絵馬のいろいろ。奉納品のさまざま。 岩屋寺は、寺のある小山ごと、ひとつの霊場を造り上げているようだった。 |
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毘沙門堂の奥深くに金箔の厨子があるというので、ちょっとだけ見せていただいた。 厨子の中の毘沙門さんは、ほの暗い沈んだ空気からぼうっと浮かび上がり、彩色も鮮やか。古風で美しい模様があって、スラリとした体躯だった。 実に稀有な力作のように思えた。 本来ならば毘沙門さんは、仏法守護の猛々しい武神のはずなのだが、岩屋寺のこの仏さん、鎧を纏いながらも恐ろしいことはない。軽くひそめた眉のあたり、白いやや四角ばった顔は、若々しさに溢れていた。 威厳はあっても、どこか優しい、穏やかな雰囲気を持っていた。 浮き足立つような、むずがゆい奇妙な心地…。そんなものが昔から、自分の中にはあったと思う。 たとえば子どものころ、お寺で見かけた名も知れない円空仏。 教科書で見た劉生の麗子像。 学生のころ、飽きることなく見つめ続けたフランドルの百姓ブリューゲルの画集など、怖いものみたさで繰り返し眺め続けていたことを思い出す。 騙されたつもりで身を任せてみれば、たとえば子どものころ、座敷のうす暗い中でじっと見つめていると、襖の模様がだんだんと大きくなって目に飛び込んでくる。 台風の大水のあと、橋の下の濁流に見とれて自分からすうーっ入って行きそうになってびっくりする、というようなことなど。 かすかな記憶を辿ってみると、だれもが経験したことがある意識の揺らぎ、そういったものかも知れない。 |
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――何年か前までは、60年に1回のご開帳でした。 そのように聞いて、保存が良いのも呑み込めた。 ――毘沙門堂の辺りは、ごく最近まで女人禁制でした。 寺伝によると、岩屋寺は大化元年(645)、法道仙人が開いたことになっている。 この仙人は天竺、つまりインドから飛来してきた人だった。 ある日、法道は天竺の霊鷲山中の仏苑を出る。紫雲に乗って、唐、朝鮮を経て、日本にまで飛んできていた。そして播磨の国のとある山頂に留まり、法華経を読誦しながら仏法広化のときを待っていた。 ――孝徳天皇の病を17日間の加持祈祷で平癒。 その功績が認められたのか、七堂伽藍を建てていた。 かつては6つの本院と18の僧坊が並んでいたというから、全山に読経が響き渡っていたに違いない。 ところが天正5年(1577)、別所吉親に攻められて焼失した。慶長6年(1601)に復興。延宝4年(1676)になって源空が中興している。現在の本堂はというと、昭和49年の再建だった。 姫路城の鬼門に当たる山の中腹、今でも大きな岩の岩窟が残り、その中に小さな祠が祭られている。 この岩屋寺、開祖・法道仙人のその名のとおり、仙人の持つ奇妙な雰囲気を湛えていた。 |
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