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 ――まるで、迷路にでも迷い込んだような気分だ。
 西国街道の宿駅・邑智駅家の名が残るJR姫新線太市駅周辺は、よく手入れされた孟宗竹の籔が茂っていた。
 両手でつかんでちょうどくらいの太さの親竹が、1〜2メートルの間隔で林立している。古くからのタケノコ産地として有名だった。





割れ岩。
神功皇后は、戦勝を祈願して矢を放った。ヒューンと風を切って、矢は飛んだという。その3本目が太市の大きな岩に当たり、岩を割っていた。残された話は驚くほど大きい。




 雨は午前中に上がっていた。
 太市駅から西へ500メートルばかりのところに、神功皇后と仲哀、応神天皇、それに矢の根を祭る破盤神社があって、沈丁花の匂いが柔らかだった。
 小さな瓦葺きの山門をくぐると、短いが急な上り石段が午前中の雨に濡れていた。
 周辺の樹木は、花を散らせ終えたかと思うと一斉に芽吹きはじめ、芽吹いたばかりのせつない緑は、みるみるうちに青葉となって繁る。そんな光の中で、播磨の五月はゆっくりと過ぎていた。
 
 季節は自ら廻り、虚構と伝説は細部に明るく、多彩な人物像を次々と蘇らせている。そして、着実に増殖しているかのように思えた。
 それらを遠くまで運ぶのも、やはり日々の堆積なのだろう。
 ――遠くまで行ってみよう。
 辿ってみると、矢の根は瀬戸内の海岸部に数多く残る神功伝説に結び付いていくのだが、そんな話がここ、太市にも残されていた。
 ――この皇后、しっかり捕まえたと思っても、すぐに姿が見えなくなる。
 太市に残された神功伝説は、まるで温かい吐息を包み込むかのように生々しいものだった。
 ――頭が良くて、美しく、そして神がかりする。
 そんな女性の持つ可能性を最大限に広げていくと、神功の映像を結んだ。





 ――新羅を、討て。
 古事記や日本書紀によれば、神功は第14代に数えられる仲哀天皇の皇后で、熊襲を討つ夫の仲哀に同行して九州に出かけていた。
 ところがこの仲哀が、筑紫の国の橿日宮で急死してしまう。そこで仕方なく神功自らが神がかりとなって、しかものちの応神天皇を身籠ったまま海を渡って、新羅に攻め入った。そのとき従えていたのが武内宿禰らで、ともに兵を率い新羅を降伏させていた。
 そして筑紫に凱旋してくるのだが、そのころには半島の百済や高句麗さえもが、日本に帰伏するようになっていたという。
 こんな話を史書は、三韓征伐として大きく伝えているのだが、その筑紫で神功は応神を生んでいた。それだけでなく、応神を皇太子として自分は70年も摂政を務め、269年に亡くなった。

 この神功、皇后というより女帝といったほうが相応しいのかも知れない。
 ――神功は、卑弥呼だった。
 120年ほど時代をずらすことで、史実にピッタリ合うという。
 日本がしきりと大陸進出を試みようとしていた時代に、不思議と重なってくる。そして、神功は巫女だった、とも。
 説は乱れていくのだが、大勢は女神で落ち着いた。虚構と伝説の人として落ち着く。





 ――今しばらく、神話の世界に遊んでみたい。
 この女神伝説、瀬戸内の海岸沿いにぎっしりといっていいほど細かく、そして数多く残されていた。現実に存在したことがあるとしか思えないほどのリアルさを持って、随所に残されている。
 播磨に残る断片から、女神の様子を追ってみよう。
 
 難波津(大坂)を出て筑紫へ向かった神功の舟団は、播磨灘に入ってからはどうやら天候に恵まれなかった。舟出して以来ずっと雨まじりで、風も伴い、しばしばシケに遭っていた。
 吹き寄せられるようにして、八家川河口へ避難する。
 揖保川河口でも逆風に災いされていた。強いはずの神功が、なぜか播磨灘ではモタモタし、大変な難儀に遭っている。 
 網干では、そんな神功を見かねたひとりの女性が、波を鎮めようとわが子を人柱に立てるが、海に沈んでいくわが子を見てうろたえた。そこで『うろたえる』の古語、うすく(魚吹)の地名が残されていた。
 それでも神功は、舟を進めることができない。まだ海は荒れている。
 近くの農夫が神功の舟を曳いて陸地を進ませようとし、舟が峠を越えたので船越の名が残されていた。
 姫路の隣の御津町にも、いつ(伊都)の地名が残されている。使役に狩り出されていた農夫が嘆いたからだという。
 ――いつになったら、家に帰れるのだろう。





 『播磨鑑』によると、神功は見野で御座舟から上陸している。
 航行安全と戦勝祈願のため、八家川をゆっくりと遡行し麻生山頂をめざした。
 山頂では、火が燃え上がっていたという。
 ――さあ、ご神火を。
 赤々と燃える炎は、戦いに向かう神功舟団の行く手を照らすかのように輝いていたというが、その火は火山が噴き出したかと思えるような神の火だった。

 ところで現在の麻生山はというと、標高172メートル、西に並ぶ仁寿山より3メートルほど低いのだが、仁寿山が現代の送電線の鉄塔を聳えさせているのに対し、今でも随所に奇岩を露出させている、そんな山だった。
 ――聖なる山の姿。
 麻生山は、その山の姿を崩していない。
 美しい流線を描いて広がる裾野は、播磨小富士と呼ばれてきただけの景観を保とうとし、山の岩の峰は、古くから神の宿る岩盤だった。岩が不動であるように、神の祝福も風に乗って里に届くように思えた。
 ところで神話には奇蹟がつきものなのだが、ここでは神功の祈りによって一夜にして山頂に麻が生えていた。
 そのためなのか、蘆男山が麻生山と呼ばれ、山麓には麻のほかに竹も生え、その竹で弓矢を作り、麻を弦としていた。





 手探りするようにいろいろの書物を読んでみたが、麻生山で出会った話は驚くほど大きい。
 ――戦勝祈願して、3本の矢を放つ。
 ヒューンと風を切って、矢は飛んだ。
 1本は八丈岩山、2本目は青山へ。そして最後の3本目は、20キロばかり離れた太市の大きな岩に当たり、岩を割っていた。
 そして、それぞれの矢が落ちたところに、今でも神社が残されている。
 八丈岩山にあった射楯兵主神の祠は、辻井に遷されて行矢神社。青山の射目崎神社は、現在の稲岡神社。そして太市には破盤神社と、そんな具合だった。
 
 神功は、三韓征伐の帰りにも播磨灘を通っている。
 萩原(はいばら・現在の龍野市揖保町萩原)に上陸し、萩の茂る間に井戸を掘り、酒を醸して戦勝を祝っている。
 高砂の浜では、しみじみと亡き夫の仲哀を忍ぶためか墓まで建てて、人間らしい素顔を垣間見せていた。
 ――播磨の神功は、卑弥呼に擬せられるような大皇后らしさがない。
 その謎を解く鍵を求めて、姫路に伝わるふたつの秋祭りを、遠くからではあるが執拗に追いかけてみよう。







灘のけんか祭り。
毎年10月14・15日に開かれる松原八幡神社(姫路市白浜町)の秋季例大祭。神輿のからみ合わせや、屋台が練り競う様が見ものだった。神功皇后の御座船が、高波にぶつかり合いながらも勇ましく進む様子を象徴的に表現しているという。神功が、土地の祭神によって救われる物語だった。






 松原八幡神社に、勇壮な秋祭りがあった。
 10月14・15日の灘のけんか祭りがそれで、神輿のからみ合わせが見ものだという。
 神功の御座舟が高波にぶつかりながらも勇ましく進む、そんな様子を象徴的に再現しようとした祭りだった。
 青竹で神輿を打つのは、槍や薙刀で舟を叩いて凱旋を喜んだ気持ちを表現したもので、シデ棒で囃しながら屋台を練り合わす。これも、舟底に着いた貝をこそぎ落とすのを表していた。
 難儀はしているが、土地の祭神の力によって神功が救われる物語だった。
 
 10月15日、金・銀の飾りを施した6台の神輿が、シメコミ姿の若者に担がれながら松原八幡宮までを練り歩く。神輿の前後には、6尺の青竹の先に赤・白・黄の紙房をつけたシデ数十本を押し立てていた。
 神社に拝礼を済ませて、6台の神輿は練り場へと急ぐのだが、その練り場は白浜と妻鹿の間の山と山に挟まれた小さな広場で、山の斜面には10万人もの見物客が待ち構えていた。
 狭い練り場では、各神輿が一斉に互いの神輿めがけて押し寄せる。多くのシデが神輿の軒を支えているのだが、それぞれが相手の神輿を押し倒し、自分の神輿をその上に重ねようとしていた。
 神輿が重なると、若者達はその屋根に躍り上がって喜ぶ…。





 こんなことを幾度も幾度も繰り返して、やがて神輿は担ぎ上げられて山上のお旅所へと登るのだが、このあと6台の屋台が祭り最大の見せ場を造り出す。逞しい担ぎ手たちはフンドシひとつの裸だった。
 1,500キロもある屋台の重さに汗まみれで、黄、赤の紙房のついた警棒の林立が美しい彩りを添えている。
 入り乱れる6台の屋台…。
 華やかな色彩と音の饗宴…。
 ヨーィァサァー、ヨッソォイ…。
 大波にも似た力声…。
 太鼓の轟き…。
 
 山の斜面の段々畠を利用した桟敷には、鈴なりの見物客が豪勢な酒宴を張って自慢の屋台を眺めていた。
 やがて練り終えた1台1台の屋台は、お旅山へと登って行く。しばらく小休止ののち、夕闇迫る練り場に豆ランプを灯した屋台が降りてくるころには、つるべ落としの西陽が長い影を落としていた。
 ――帰路を急ぐ。
 去りがたい祭情込めた担ぎ手たちが、最後の練りを終え、これでこの勇壮華麗な祭りも無事に閉幕となるのだが、遅かった秋の訪れを取り戻すかのようにひたひたと冷気が迫ってくる。
 なるほど、私の周囲で生きているこの地方の人々は、そういうふうに物事を考えていたのか。






提灯まつり。
魚吹八幡神社の秋祭り(毎年10月21・22日)。暗闇の中を揺れる光の列が美しい(提灯行列)。それが楼門前に差し掛かると一転、激しく提灯を叩き合う(提灯練り)のだという。神功の道中のご神灯にと、お旅提灯を差し出したのがこの祭のはじまりだとか。




 ――無数の河豚が、光る玉を咥えて集まる。
 砂を吹き上げ、神功の御座船が接岸する島を造る。そんな神話を再現しようとしたのが、網干の魚吹八幡神社・提灯祭りだった。
 これも難儀する神功を救う物語で、10月21日が宵宮だった。
 
 チラホラと露店が並ぶバス通りから一歩参道へ曲がると、そこはもう眩しい光と人の渦で、身動きできない熱気に包まれていた。
 煌びやかに電飾された屋台が3台、人波の間を練っている。楼門前で烈しく青竹を叩き合い、提灯をぶつけ合うのだという。
 ゴーンゴーンと、ひっきりなしに鳴る釣鐘の音に入り混じる怒声、なんとも勇ましい光景が繰り広げられていた。
 翌22日が本宮で、早朝から遠く近くに太鼓が鳴り響き、網干の町は朝から興奮しているようだった。朝8時半ごろにもなると、それぞれ自慢の屋台が朝日を受けて金色に輝いている。
 ――18台もの屋台が出るんやで。 
 神事に続く、神楽獅子舞い奉納は午後1時を過ぎていた。そして、檀尻芸。
 爽やかな秋晴れの日が傾いてくるころ、屋台の宮入り、神輿の還御がはじまる。屋台、御神宝、金幣、神輿、檀尻の順に、ゆっくり堂々と長くて華やかな道中が展開される。





 昼間の興奮は、夜になっても衰えることはない。お宮の周辺は行く人来る人でごった返していた。
 眩い照明に照らされた楼門前で、突然、声が上がる。
 ――きた、きた。
 檀尻を先導して、華美な衣装を身に着けた優美な少女流しが入ってきた。
 その後ろから若者の一団が、舞い上がる砂埃に包まれながら勢いよく雪崩れ込む。伊勢音頭を唄いながら、綱練りが展開されていた。

 本宮のクライマックスもいよいよ終わり、本殿前で力いっぱい練り合っていた屋台がぎぼしを外され、楼門をくぐって、1台また1台と境内を出る。
 人々のため息のようなざわめきを後ろに、名残を惜しむように練り合わせを繰り返し、電飾を煌かせて参道を去っていく。
 ――チョーサ、チョーサ。
 18台の屋台全部が宮に別れを告げるのは、真夜中近くになってしまうのだが、それでも去り難いのか、帰りの辻々で何度も何度も練り合わせては気勢を上げていた。
 それはあたかも、秋の夜の祭りの終わりを惜しんでいるかのように思える。





 これが播磨神話のしたたかさなのかも知れない。
 どちらの祭りも、祭神の力の大きさを示すためか、あえて難儀させた上で見事に救って見せていた。
 ――太市西方の丸山の山中に、大きく割れた岩があって、その昔、神功の矢が当った。
 そんな伝承はともかく、これらの岩が古代、信仰の対象だったと想像するのは、ほぼ無理はなさそうに思える。
 今でも、そこ、ここに岩が散らばっていた。
 ――その矢は、ひよっとすると光の矢ではなかったか。
 心の中がしんと鎮まり返るような気がした。
 かつてモーゼが、シナイ山で神の言葉を聞いたのは、木々の中に燃えるような光を見たときだという。
 光は神の語りかけをも象徴していた。
 
 錯綜した時代のさまざまな出来事。その多くのありようがじつに明瞭に、そして鮮やかに脳裏をかすめた。
 ところで、神功がシケに遭って八家川河口へ避難したとき、とたんに雲が切れて青い空が覗いていた。
 神功が叫んだ。
 風雨に苦しめられてきていただけに、ここに着いて空が青く晴れたとき、よほどの感激だったのだろう。
 感嘆したのが国の名になったと、播磨鑑は伝えている。
 ――おお、晴間(播磨)なり。





 短いが急な、午前中の雨に濡れた破盤神社の石段を登りながら、出会ったのは散歩中の若いカップルだけだった。
 ――静かで落ち着けますね。
 皮肉なことに5月は、魂が最も透きとおる季節。
 年を取ったからではなく、ただ40何度目かの5月の中で、こういったことを自分に語りかけてみた。
 ――神功伝説の世界を遊ぶ。
 伝説だからとりとめもないのだが、少なくとも古代聖域だったこの辺りに、やがて建造物が建てられた。それが今日の破盤神社であるということは、十分に察することができる。
 頭上に茂る竹の葉が若葉のように輝いて見え、竹の葉擦れのざわめきは、さらさらとして軽やかだった。
 密かに楽しい5月の1日だった。





















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