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 ――解明されない、空白の歴史の1ページがある。
 古代に属する部分である。
 その風景は、各地に点在する遺跡に代表されるのだが、多くは自然に風化し、脆くも崩れ去らんとする風情の中で耐えていた。 
 しかし遺跡からの出土品には、眩いばかりの純金の装飾品や高度な技術を思わせる壷など、その輝きと土の匂いは古代播磨への郷愁とロマンを掻き立ててくれる。
 思わず息を呑む…、そんな美しさに出会えることができた。
 
 ところで播磨の古代風景は…と探ってみると、まず初めに壇上山古墳を挙げなくてはならないだろう。
 壇上山古墳は、八家川と天川に挟まれた小さな台地に築かれた全長140メートルの大型古墳で、低くなだらかな曲線を描きながら南南東に後円部を、北北西に前方部を向けて横たわっていた。
 幅20メートルほどの濠が今でも古墳を取り巻き、兵庫県下では3番目の規模を誇る前方後円墳だった。






壇上山古墳
壇上山古墳。
前方後円墳らしい形状が、航空写真では読み取ることができるが、古代の丘近くに住宅や工場が林立しているのが哀しい。




 ――美しい。
 それが第一印象だった。
 
 JR山陽線御着駅からまっすぐ北へ、大きな案内板を目印にしながら左手方向に歩いて行くと、少し小高くなった緑の杜が見えてきた。その北側から登ってみることにした。
 ちょうど前方部の樹木が切り取られているせいか平坦な広がりとなっていて、南の方に丸い盛り上がりが見られる。そのまま前方部の北端まで下ってみると、確かに前方後円墳らしい形状が読み取れた。
 後円部の頂上には、直接土の中へ埋められたのだろう、長さ3メートルほどの長持型石棺が露出していた。
 ――石室が見当たらない。
 石棺の蓋には、前後左右に計8個の縄を懸ける突起が付いている。
 ――石室が見当たらないのは、石棺を直接土の中に埋めたのかも知れない。
 
 ――かつて古墳の周りには、円筒埴輪が二重に巡らせてあった。
 後円部の頂上には、家、盾、当時の鎧である短甲などの形象埴輪が飾られていたと、小学生向けの郷土史副読本で読んだ記憶があるから、壇上山古墳は単なる王の墓ではない。
 ――蕨とゼンマイ。
 耳元で鳴る風の音に、遠くウグイスの声が混じって聞こえる。少し前まで薄紅の花吹雪を舞わせていた染井吉野が、もう新緑に包まれていた。
 ――小さな石仏群。
 古墳の傍らには、いつの頃からか無縁仏が集められ、多くの命が供養されてきたのがよく分かる。
 隔絶された聖域という感じすらしてきた。
 ――この辺りは、どうやら別世界のようだ。






山之越古墳。
壇上山古墳の倍塚。第三古墳。市川下流における主な古墳として、壇上山古墳(5世紀前半)、山之越古墳(5世紀後半)、見野長塚古墳(6世紀前半)が残されている。県内一の方墳なのだが、頂上に登る道すら確認できない。鏡、刀剣、玉類が多数出土したという。



墳頂に露出する、長方形石棺。






 ところで、壇場山古墳の培塚としては第一と第二古墳があって、すぐ北にある第三古墳は山之越古墳と呼ばれていた。
 ほかにも数基の古墳があったと、土地の友人から聞いたが、21世紀の今となっては確認できそうにない。
 山之越古墳は一辺約50メートル。県内一の大きさを誇る方墳で、たぶん壇場山古墳の地位を継いで播磨を代表する勢力の王となった人物のものだろう。
 封土が大幅に崩れているせいか、当時を偲ぶことはできそうもない。
 ――壇場山とは、ちょっと様子が違うな。
 周辺を歩いてみたが、遠目に見ても登る道すら確認できなかった。
 
 ――草ぼうぼう…。
 顔のあたりまで迫ってくる雑草をかき分け、やっとの思いで頂上まで辿り着いてみると、ここでも露出した石棺が目に飛び込んできた。長さ2.5メートル、幅1メートルの長持形石棺だった。
 ――壇上山と同じ様式。
 蓋の下に少し隙間があったので覗いてみたが、石棺の中も草ぼうぼうで、何も見えない。風化して、野晒しのままだった。






宮山古墳
宮山古墳。
古代播磨のカギ握るなだらかな墳丘は、思いのほか小さかった。古墳公園として丁寧に整備され、陽差しが淡い。




 ――山之越古墳を継いでその地位を得た播磨王は、宮山古墳の被葬者に違いない。
 市バスの四郷町坂元バス停に周辺の文化財散策マップがあって、その大きな案内板どおりに辿ってみることにした。
 
 宮山古墳は、通称八重鉾山の尾根の突端部にある径30メートルほどの円墳で、思いのほか小さかったが、古墳公園となって丁寧に整備されている。
 底の浅いお椀をかぶせたような、なだらかな曲線を描いて横たわっていた。
 ――周辺の樹木が伐り採られ、綺麗に整備されていなければ、山の尾根に続く小高い丘陵にしか見えない。
 だからこそ保存状況が良かったのだろう。昭和40年代の2度にわたる発掘調査で、3つの埋葬施設が確認されていた。
 そのうちのふたつは、盗掘を免れてほぼ完全な形で発掘されている。
 多数のガラス玉、勾玉、金の垂飾付耳飾り、金環、画文帯神獣鏡、須恵器、刀剣、短甲、馬具などが出土し、その華麗さと美しい意匠には目を見張るものがある。
 それら副葬品から推測するに、被葬者の出自を朝鮮半島に求めることができるという。





 ――頂上まで登ってみよう。
 宮山古墳のほぼ中央部は柵で囲まれていて、長方形の窪みらしいものがはっきりと確認できた。
 ――石室の跡だろうか。
 
 元に戻って、壇場山古墳に先行する播磨の古墳の系譜を概観してみると、壇場山古墳から南西へ4キロ、御旅山防災林の茂みの中に、なるほど前方後円墳らしい古墳があって、御旅山古墳と呼ばれていた。
 これが播磨では最古の古墳だった。
 その北約1キロの山塊山頂には、兼田の丸山古墳、奥山の大塚古墳があって、やせ細りながらも古代の証人だと言わんばかりに小さな墳丘を残していた。
 墳丘への畦道を歩いて行くと、秋なら重く実った稲穂がいっせいに古墳に向かってなびいていたのだろうが、副葬品に目立ったものが見られないためか、造られた時期、被葬者など詳しくは分からないという。
 少し断絶した後に出現してきたのが先ほどの壇場山古墳で、一般には景行天皇の皇子稲背入彦命の墓だと言われているが、もちろんこれは説話の域を出ない。
 播磨の国造に、稲背入彦命の孫、伊許自別が就任していることから、このなにげない伝承も生まれたのだろう。





 しかしこれだけでは、播磨の巨大古墳を取り巻く古代のドラマは浮び上がってはこない。
 宍粟郡一宮町の山野から播磨平野の中央部にまで勢力を伸ばし、初めて覇をとなえた王といえば、伊和大神を祖神とする伊和族だった。
 
 ――播磨の平野に進出。
 古代のある時期、出雲の一族が宍粟の一宮町伊和に住み着いた。そして伊和族を名乗って、あちこちに散在する小さな部族を統一する。
 ほどなく、大和の強大な勢力が大軍を率いて播磨に進攻し、伊和族を名乗る播磨の王に国譲りを迫った。
 ――平野を開拓し、古代播磨に君臨していた伊和族が、大和の大軍を相手に死闘を繰り広げる…。
 そんな彼らの播磨を舞台とした活躍ぶりは、風土記の一節に鮮やかに息づいているのだが、異国から来た大和の強大な勢力は、どうやら鉄の武器を持っていた。あげく伊和族は、播磨平野から本拠地だった宍粟の山野へと押し戻された。
 すごすごと逃げ帰ってしまった。
 
 ――歴史の進行に、感傷の入り込む余地はない。
 たとえ短期間だったにしろ弥生の終わりころ、揖保川沿いに下って播磨に勢力の伸張を図っていた伊和族は、4世紀の終わりから5世紀にかけて、再び北方へと追われた。
 出雲を出て、めざした大和への道を播磨で放棄させられ、そして最後には、無残にも焼き打ちに遭って宍粟の山野で滅ぼされた。
 このことは拠点だった住居群跡から、火の粉を浴びた鉄剣や玉類が数多く見つかることから、十分に推測できる。
 ――貴重な品すら持ち出す余裕がない。
 そんな緊迫した状況が、長閑な伊和の里に生まれていたのかも知れない。
 根拠があってのことではないが、さらに調査が進むのを待ってみたい。





 人口、12〜13万人。水田面積にして約2万1千町歩の大国播磨。米の生産高などは明らかでないにしても、加古川、市川、揖保川の豊かなデルタを開いた良質田が大半の播磨は、西日本有数の米生産国だったことだけは、ほぼ確実なようだ。
 ――大和への道を、播磨で放棄。
 では、なぜ伊和大神を祖神とする伊和族は、めざす大和行きを播磨で諦めたのだろうか。
 ――鳥がねぐらに帰っていくように、風が若葉の匂いを運んでくる。
 大きな夢を描きながら、十分愉しませていただいた。
 今、国道2号や山陽新幹線の騒音が、この古代の丘に聞こえることはない。石棺蓋は古代播磨の鍵を握る貴重な置物だったが、今ではもう確かめる術もないのだろう。
 石棺蓋に、降りそそぐ陽差しが淡い。





















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