シェフの憂鬱
今回はちょっと長文。どうかお付き合いのほどを。
少し前の話ですが、実家の冷蔵庫でなにやら見慣れない肉のカタマリを見つけました。
合鴨の胸肉です。なんでも頂き物だとか。おー。
普通なら鍋とかホットプレートで焼いて食べちゃうところですが、わたしの頭の中にキラリ〜ン☆と閃くものがありました。
高級フランス料理のメニューに「鴨のロースト・オレンジソース添え」なるものがあります。鴨と合鴨は似て非なるモノですが、せっかくだし、こいつに挑戦してみようか?
「オマエが作るならいいよ」とは親の言葉。いい気になったわたしは早速、準備に取りかかりました。今にして思えば、やめときゃ良かったような気もするのですが……。
わざわざ手間のかかる料理を作ろうなんて思ったのには理由があります。
自分の食い意地が……じゃなくて、テールエンドを書いていた時、口絵写真をパラパラと見ていたフランス料理の本があるのです。有名なシェフの人が書いた本で、かなり専門的です。でも日本語ですし、書いてあることを順番にやってけば、なんとかなるだろうとタカをくくっていたのでした。
さて、改めてレシピの最初の一行を読んでみます。
そこでいきなり目が点になりました。
「鴨をロティし、胸肉をエギュイエットに切り分ける」
肝心の鴨肉に関する記述がこれだけ。それにエギュイエットってなんだ? それだけじゃありません。アッシェとかパッセとか、ナッペとかモンテとか、これ全部フランス語だ……。
幸い、今はインターネットで色々と調べがつきます。
で………。
なんだよ、なにがアッシェだよ!
普通に、みじん切りって書けばいいじゃねーか!
すべてこの調子。その上、別の問題も発生しました。材料費が案外高いのです。オレンジソースだからオレンジを買わなければいけないのはわかります。しかし、それ以外にもキルシュ(サクランボのリキュール)、グラン・マルニエ(オレンジのリキュール)、ワインビネガー、エシャロット(居酒屋のつまみに出てくる奴ではなく、ベルギー・エシャロットと呼ばれるタマネギ型の奴)、トリガラにフォン・ド・ボーまで買わなければなりません。
こうなりゃ意地です。ちょっと高級な食材を扱うスーパーで買ってきましたよ。だけどワインビネガーには赤と白があります。レシピにはどちらなのか書いてありません。
また調べます。
「白ワインビネガーはドレッシングやマリネ液に向いており、赤ワインビネガーは煮込み料理などに使われる」
なるほど。だとすれば後者を買えばいいわけだな。
かくして、とある日曜日の夕方。わたしは実家のキッチンに立ちました。親はのんびりとテレビで大相撲なんぞを見ています。よし、やるか。
まず、合鴨のローストからです。これ自体が独立した料理として成立しているぐらいですから、手間がかかります。
まず皮目の脂身部分に包丁で切れ目を切れます。
別途、調べた本によると3〜5ミリ幅でクロス状に入れろとのこと。ひたすらシャコシャコと切れ目を入れていきます。それが済んだら塩とコショウをすりこみ、フライパンで皮目の方から焼いていきます。油はつかいません。皮目の脂肪分だけです。
ある程度、火が通ったらひっくり返してサッと焼き、取り出します。で、皮目の方を上にしてアルミホイルで包んでおきます。こうしておくと脂身の熱い油が赤身の方に下がってゆき、自然に火が通るのだそうです。これを何度か繰り返し、最終的にオーブンで仕上げます。うちはオーブン・トースターで代用。
が、ここで問題発生。
今回はローストと並行してオレンジソースも作らなきゃいけないのです。
理想は、両者が同時に出来上がること。つまり、手順も調理時間も違うふたつの料理を、完成時間だけが一致するように同時に進めていかなくてはならないのです。初めて作る料理でこれはキツい。しかも、全部ひとりでやらなきゃいけない。
気づいた時には手遅れでした。助けてマリエル……。
もう覚悟を決めるしかありません。逆ギレとも言います。
エシャロット100グラムをみじん切りにしてバターでソテー。そこにトリガラを入れます。これ本当はカモの骨2羽分でやるのですが、そんなもん手に入るか!
まずやるのはトリガラを砕くことです。ここで悪戦苦闘。包丁が切れねえ! 山小屋の裏手で薪割りしてるような気分になります。
で、トリガラに火が通ったら、水をヒタヒタにいれて強火で15分ほど煮込みます。塩、コショウ、ローリエとセロリの切れ端を入れ、ときどきアクを取ります。それと並行してオレンジ2個分の果汁とレモン1個分の果汁をしぼっておきます。
次に、別の鍋に砂糖50グラムを入れて強火でカラメル状に焦がし、そこへ赤ワインビネガーを100cc入れて鍋底のカラメルをこそげ取るようにしながら混ぜていきます。この作業をデグラッセと言います。ここにキルシュとグラン・マルニエをそれぞれ100ccずつ加え、さらに煮詰めていきます。
さて、15分たったので隣でグラグラと沸いているトリガラの出汁を漉します。これがパッセという作業。本当はシノワという尖ったザルでやるのですが、うちにはそんなシャレたものはありません。その辺にあったザルで漉します。
漉し取った出汁(フォン・ド・キャナールと言うそうな)をデグラッセしていた鍋に入れます。さらに煮詰めてフォン・ド・ボーをスプーン1杯。これだけのために高い缶詰を買うのはもったいなかったので、クノールの固形状のフォン・ド・ボーをひとかけら放り込みます。
こうしている間にも合鴨のローストをひっくり返し、火の通り具合を確かめ、再びホイルに包み、といったことを進めます。それと忘れがちなことですが野菜クズを片づけたり、使い終わった鍋や包丁、まな板などを洗います。汚い台所を見ながら食事なんてイヤですからね。
む……。そろそろローストがいい具合になってきました。
鍋にオレンジとレモンの果汁を加え、さらに煮詰めます。ソースの色が本の口絵写真そっくりになってきました。おお! これはイケるかもしれない!
合鴨のローストが完成したので、エギュイエットに切れ分けることにします。なんてことはない、薄く切り分ける。ただそれだけです。
合鴨の切り身を皿に並べます。煮詰まったソースは火からおろし、バター50グラムを余熱で溶かし込みます。この作業がモンテ。最後に肉にソースをかけます。これがナッペ。
ナイフとフォークを用意して食卓へ。
本当はクレソンとオレンジの切り身も付け合わせにするのですが、それは省略。最後の最後にキッチン周辺の後片付けをして全工程終了。
できたぁぁぁぁぁーッ!!!!!!
しめて2時間半ぐらいだったでしょうか。
情けない話ですが、完成した頃にはへとへとに疲れてしまい、食欲がすっかりなくなっていました。味自体はよかったので、自画自賛ながら合格点でもいいかもしれません。
だけど食べ終わった後には皿洗いだってあるのです。おいしくなきゃ、こんな重労働の価値はありません。ましてや、お金を払うとなったら……。
日本でもいよいよミシュランガイドが刊行されることになったそうです。
評価の是非はともかく、大勢のシェフたちの憂鬱が報われる日が来ることを祈らずにいられません。