冬の怪音
マンションとは名ばかりの、それはそれは古い集合住宅に住んでいます。
といっても、なかなか静かな環境なので、住み心地には満足。騒音とか異臭とかゴミ出しトラブルとか、集合住宅にありがちな問題にも今のところ巻き込まれていませんし。
もちろん大勢の人間が住んでいるわけですから、まったくトラブルが無いというわけではありません。とある夜も、そんな感じでした。
午前2時を過ぎた頃でしょうか。
突然、派手にやりあう声が聞こえてきました。コンクリートの壁越しなので、内容まではわかりませんが、夫婦げんかのようです。距離感があるので同じフロアではありません。隣人はさぞかし迷惑していることでしょう。
とはいえ、誰にだってムシの居所が悪い日はあるものです。たまにはこんな夜も仕方ないか、なんて考えながら、電気を消し床につきました。
声はまだ続いています。なかなか終わりません。
最初は「おーおー、やっとるなぁ」という感じでしたが、やがてゴン…ゴン…と鈍い音が聞こえてきました。
天井というか壁というか、とにかく建物を通して振動が伝わってくるのです。
なんかイヤな感じ。ついイロイロと想像してしまいます。女の人が髪の毛をつかまれ、何度も壁に激しく頭を打ちつけられている場面とか……。
電気を点け、コートを羽織りました。時計を見て、時刻を確認。
翌日になって事件になっていた、なんて御免だからです。
実は以前、高層マンションのトラブルに出くわしたことがあります。
夜、家路を急いでいた時、小さな女の子が「助けてー」と叫ぶ声を聞いたのです。どうやらベランダに出て叫んでるようですが、暗くて部屋がわかりません。
それでもじっと耳をすませて、声がするとおぼしき部屋を推測。下から数えて怪しそうな階を割り出しました。周辺の人たちも「これはやばそうだ」と思ったのか、ぞろぞろと出てきて心配そうにマンションを見上げます。
誰かが通報したらしく、警官たちが到着。そのマンションはオートロックでしたが「念の為、一緒に来てくれ」と言われ踏み込みました。
果たして結果は、やはり夫婦げんか。後で聞いたところによると、それまでにも何度か騒ぎを起こしている家庭のようでした。小さな娘さんは、それこそいい迷惑です。まぁ、事件にならなくてホッとしましたが。
そんなこんなの経験もあって、こういう時はためらってはいけないと思うようになりました。犬も食わない夫婦げんか。仲裁なんて頼まれたってしたくありませんが、なにかあってからでは遅いのです。
ところが外に出てみると、なんにも聞こえない。
共用部分から他の階の様子もうかがえるのですが、どのフロアも静まり返っています。もちろん、自分のように様子を見ている人もいません。
自分の部屋でもあれだけうるさかったのです。隣の部屋だったら耐えられないに違いありません。それなのに、あたりはいつもと変わらぬ夜です。念の為、周囲の建物も見てみましたが、やはり静かそのもの。
釈然としない気持ちで部屋に引き返します。
音も声もぷっつりと消えていました。
仲直りしたのかな? とにかくいい方に考えて、その日は寝ました。
翌日、隣に住んでる人と世間話。
「ゆうべ、どっかの階で夫婦げんかやってましたよね?」
「え? そんなことあったんですか?」
「あ……午前2時半ぐらいでしたから。普通の人は寝てますよね」
「いや起きていましたよ。でも、なんにも聞こえませんでしたよ」
「へ? ゴンゴンって音がすごかったでしょ?」
「そんな音がしてたんですか?」
「え、えぇ………」
声と振動。どちらも確かに聞こえていました。それなのに隣の部屋の住人は、まったく気づかなかったと言います。
最初に書いたとおり、古いマンションです。防音効果なんてタカが知れてます。日曜日の朝になると、上の部屋に住んでる小さな女の子が「ふたりはプリキュア スプラッシュ☆スター」のOPに合わせて飛び跳ねる足音が聞こえるぐらいです(自分も見てるのでわかった)。
今でも釈然としません。あの音と振動は、なんだったんでしょう?